慈濟傳播人文志業基金會
無常を念じ 今に力を尽くす
過ぎた時間は逆戻りできない。
この世は常に無常が伴う。
私たちにできることは
目の前にあるすべての因縁を大事にし
心を込めて仕事をこなすこと。
 
静思精舎の徳宣法師は證厳法師の二百人あまりいる仏弟子の中で十二番目に剃髪をした弟子である。剃髪する前から上人の側におり、「慈済月刊」のコラム「随師行記」の初代記録係を務めていた。
 
三十年以上前、花蓮慈済病院の建設期間中、上人は建築専門のボランティアや医療顧問と病院の設計図や医療の将来について話し合うためによく台北に出かけた。会議はよく夜の十一時、十二時まで続いたが、会議が終わった後も、徳宣法師は一人残って、当日の随行日誌をまとめていた。
 
「専門用語ばかりで私にはほとんど分かりませんでした」。その時、彼女はまだ二十九歳だった。それから七、八年間、彼女は一人で原稿を書いたり写真を撮ったりして、「慈済月刊」の発行に尽力した。「とにかく、やるしかないと思っていました」と話す。出家前の十年間は俗世の浮き沈みの中で心身が疲れ果てたという。心が安らいだのは、休暇に仲間と近くの森や遠くの山を散策するときだけだった。近くの近郊の山はもちろん、遠くは雪覇国立公園や奇萊東山まで行った。
 

体が疲れても、心の内は自由自在

 
慈済のボランティアは皆、静思精舎の修行生活は非常に忙しいことを知っている。炊事、客の応対、事務作業、畑、掃除などの務めを交代で担当する。
 
毎日の時間がいくらあっても足りないようだが、徳宣法師は「規律」を以て精舎の尼僧たちの仕事と休息を形容している。忙しいか否かは気持ち次第だという。問題はこなす業務の量ではなく、「足元がしっかりしているか否か」にあるという。仕事に対する心構えを持ち、習慣を上手く調整できれば、その量が多かれ少なかれ、それによって慌しさを感じるか否かとは別の問題なのだそうだ。「リズムをとらえれば、忙しい、時間が足りない、などとは感じなくなる」
 
上人の側について勉強し、「足元が変われば、気持ちも変わる。仕事の内容を変えるだけで、気分転換になり、休みになる」という理屈を悟った。
 
Profile 徳宣 法師
1982年より證厳法師の初代随行記者
「慈済月刊」のコラム「随師行記」の主筆
1984年29歳の時、静思精舍にて出家
 
仕事の量を言えば、それは切りのないことだ。五十年近く前の静思精舎は、上人の側に仏弟子が四人、年長者の菩薩が二人いた。昼間の時間はベビーシューズ作りの内職や、田植えなどの仕事をこなし、夜になれば、上人から経典の講義を受け、放課後も経を読み、暗記しなければならなかった。
 
あの時代は人手が少ない上に、仕事の量は多かった。「朝ごはんの最後の一口がまだ口の中に残っているうちに、両足はもうすでに田んぼに踏み込んでいたのです」と上人の一番弟子である徳慈法師が皆に話したことがある。単調で厳しい生活だったが、忙しくて充実した毎日だった。徳宣法師は一九八二年、精舎に来た。日誌作成を手伝いながら、時間を見つけて尼僧達と共に畑仕事に参加することもあったそうだ。
 
そして、五十年後の今の静思精舎には、多くのボランティアと支援者が訪れる。時には千人分以上の食事を用意するが、「いくら忙しくても心は乱れない」と徳宣法師は言う。「今を大切に、できることを精一杯こなせばいいのだ」と。
 
精舎の法師達が、汗を流して労働する実践力と実務的な知恵を発揮するイメージは鮮明だ。衆生を憐れみ、広く善縁を結ぼうとの寛大な心に根差している。この考えは、慈済ボランティアに伝わっている。慈済ボランティアが社会で慈善活動をし、面倒を恐れずに人々と良い縁を結ぶ大きな原動力となっている。
 
 

無常を警戒せよ

 
ある人が、こう問いました。「上人の職務はとても多いですが、リラックスして休む暇があるのでしょうか?」
 
「でも私達の目から見て、上人はいつも落ち着いておられるのです」と徳宣法師は言う。上人は常に「もう間に合わない」と言っているにもかかわらず、心が落ち着いているので、忙しくて焦ったり困ったりすることにはならないと、徳宣法師は思っている。
 
「そのうえ、事の緊急性が増すにつれて、上人の話しぶりが一層ゆっくりになるのです」。悲しい災難に直面している時、上人は優しい口調でゆっくり話すことで聞き手の気持ちを乱さずに落ち着かせるのだと言う。
 
上人は常に「間に合わない」と感じているが、それは一般の人が「時間が足りない」と嘆くのとは異なっている。一見、両者とも世の中のことで忙しくしているようだが、使った時間の根本的価値は全然違うものだ。
 
「上人は進行している時間と競走しているのです。それはもっと多くの心を善なる方向に導くための時間を勝ち取りたいと望んでいるからです」と徳宣法師は言う。「仕事の内容を変える」ことを息抜きの時間にするのは、上人が休む間も惜しんでいるからだ。
 
「人は時間と競走できても、過ぎた時間に対して文句を言うことはできません」。徳宣法師は救難活動を例にあげて話した。「救難の時、少しの遅れは、被災者がお腹を空かしたり、命を落としたりするような結果につながるので、本当に時間との競走です」。慈善のことになれば、確かな計画の上、時間との勝負なのだと強調した。
 
 
徳宣法師の一言
 
法師曰く「一分一秒を惜しみ、仕事のやり方を変えるとそれが休みになる」。
仕事が多く忙しい時ほど、心を落ちつかせなければならない。
時間が足りなくても早まってはいけない。
心構えと習慣を調整して、今できることを精いっぱいこなせばいいのだ。
 
「一方、自分自身のことについてはあまり計画をしていません。目の前に縁があれば、それをこなしていくだけです」。六十五歳になったばかりの徳宣法師は、シニア割引が使えるようになったが、健康が衰え始めたことで、「時間」の無常を身近に感じるようになったそうだ。
 
俗世の人々にとって「時は金なり」だが、徳宣法師にとって、時間は夕方の太鼓と朝の鐘の音のように、一種の「警鐘」である。それは、世の中のことは予測しがたく、常に変化していることを人々に知らせようとしているからだ。時間の長さは人生の要ではない。「最も困るのは、次の一刻に何か起きるかを知りえないことなのです」とし、これを無常と言っている。
 
現代人は自己への投資や将来への計画に関しては得意であるように思われるが、無常に対する観念は欠けている。期待がふくらめば失望も大きい。なぜなら、「当たり前」のような内心の期待と、「現実」という実際の結果とは、必然的な因果関係がないからだ。よって、歩けば歩くほど茫然になったり、頑張れば頑張るほどやる気を失ったりする人々は少なくない。
 
前の一刻から次の一刻に何が起きるかは予測しがたく、他人の無常を見て、まるで自分に注意を喚起しているように思えると徳宣法師は言う。しかし、これで焦ることはない。命の長短を心配するよりも、心身の健康を上手く管理する方が現実的だ。
 

着実な生活 心が安らぎ理に適う

 
普賢菩薩警衆偈曰く、「一日が過ぎ去れば、命は水が少なくなった魚のように、一日分縮む。こう考えると人生は楽しいことがない」。このような考え方は「引き算」で時間を捉えているが、残された命が縮むにつれて知恵の命が成長しているという「足し算」で時間を捉えることもできると徳宣法師は言う。
 
徳宣法師曰く、出家の前とその後は同じように日々を過ごしているが、慈済に入ってからは時間に対する価値観が変わったと言う。時間を金銭で計るのは所詮意味のないことだ。時間を世の中のために使うなら、一分一秒も大事にしなければならない。「今の私はいつこの世を去ることになっても、心は安らいでおり、悔いはありません」と話す。
 
尼僧であるかどうかに関係なく、人の命は短く苦しく、残念に思う事柄に満ちている。「だからこそ無常を恒常的に捉え、今生きているこの命を知恵の命に変えるべきなのです」と徳宣法師は話す。命の長さの違いは、各々の因縁が異なっただけだ。「大事なのは自分自身が納得できるような、充実した生き方を目指すことです」と徳宣法師は強調する。
No.258