慈濟傳播人文志業基金會
時間は善用すればするほど増えていく
時間は全ての人に
平等に与えられている
心して使えば、
時間の豊かさが広がる。
 
『告白』の著者であり、古代キリスト教の哲学者、聖アウグスティヌスは「人に問われない時、私は時間が何であるか分かっていたが、一旦問われたら分からなくなってしまった」と語った。すなわち、人々は古来時間を使っているが、時間がどのようなものか、はっきり答えられないということだ。
 
風はどこにあるのか。花や葉っぱが揺れる時に感じられる。時間はどこにあるのか。ふと振り返って見ると、顔の皺や手のしみに時の流れが刻まれているようだ。時間は風と同じように、人々は自分の顔から観察できるのだ。
 
一日は二十四時間で、一年は三百六十五日である。これは誰でも同じだが、仏教の考えでは、極めて短い時間の単位は「刹那」と呼ばれている。もしも仏教の経典に書いてあるとおりに換算すれば、その瞬間の長さとは零点零二秒にも至らないと研究されている。
例えば、病気にかかった時には健康の大切さが瞬時に感じられる。時間もそれと同じく、何かがあった時、とくに「間に合わない」と追い込まれると、たとえ零点零二秒さえも余計には得られない。
 

無常が先に来るか

それとも明日が先か

 
私たちは「間に合わない」時まで待つ必要はない。その時になってはじめて時間が存在していることに気づいても仕方がないのだ。本号のテーマ報道の中の人物は、時間に対して非常に「敏感」で、几帳面な生活の中においても心穏やかな実践者だ。
 
慈済慈善事業基金会執行長の顔博文氏は、化学工程を専攻してエンジニアになり、そして有名な半導体企業のCEOになった。また、二○一七年から非営利組織に転任した。時間管理というテーマについて実務的であり、論理的に順序正しく考えを進めていく。彼は時間を立体的に捉える。長さ、広さ、そして暖かさがあるかのように。さらに「人和、協和、温和」という処世の知恵を有している。
 
テーマ報道に登場する静思精舎の徳宣法師は、時間についての解釈をゆったりと説明したが、言葉の意味はとても深い。もしも仏教の考えから見れば、時間は必ず「無常」と繋がっていて、形のある物体や形のない考えも含められ、あらゆる存在は常に移り変わる。人が「無常」の考えを持った時、人生の時間観もそれに影響されていくであろう。
 
普通の人は「無常」という考えをあまり持っていないので、もっとたくさんの「明日」があるはずと誤解し、娯楽を追い快楽的な暮らしの中で、膨大な時間を浪費している。だから證厳法師は弟子に「いったい無常は先に来るか、それとも明日が先だろうか?」と常に念頭におくべきだとおっしゃっている。
 
 

速度でなく、態度の問題

 
インターネット回線の速度がますます速くなり、新幹線や高速道路などの設備によって、地域間の距離も大幅に短縮されている。データ処理や交通の利便性は昔よりも向上しているはずなのに、なぜ現代人は生きれば生きるほど忙しくなると感じるのか。人々は科学技術の進歩によって、もっと多くの時間を得ている一方、より多くの細かいことに向き合わなければならなくなった。いったい人は時間の支配者なのか。それとも時間の奴隷なのか。
 
「一年の計は春にあり」と言われる。元旦あるいは旧正月でもいい。年の始めに願かけをしたことは、今どのぐらい実現されただろうか。
上記の質問で、自分の時間に対する態度を点検できるかもしれない。一言でいえば、時間への考え方は、すなわちその人の人生観だ。
 
慈済ボランティアはいつも「やればさらに得られ、やらなければさらに失う」「忙しい人は良し悪しの淵に引き込まれない。暇な人は楽しくない」「やるしかない」と言っている。それはつまり、このような価値観を反映している。「人生を無駄にしたくない。たとえ忙しくても喜んでする。確実に実行するだけでなく、それは幸福をもたらすことでもある。それに時間を善用してこそ、さらに豊かさが広がる」――。
 
時間は引いた弓矢のように、飛び出したらもう二度と取り戻せない。時間を善用できる人は、まるで命の長さを延長できるかのようだ。限られた時間を善用すれば、時間は私たちに限りない報いを返してくれるだろう。
No.258