慈濟傳播人文志業基金會
善行を積む家に生まれた幸せ
九十四歳の父は優しく知識豊富で、智慧があり、慈悲の心に満ちている。
今生が父の子供であることを本当に幸福であると実感している。
 
「荷物を背負って故郷を離れ、
家族が傍にいないことを寂しく思う。
数十年もの間苦労を重ねた末に
事業が成功し、喜びが溢れる」
 
これは、父、温送珍が事業に成功した際に、数十年の苦労を振り返って詠んだ詩だ。創業時の心境とも言える。
 
当時十五歳の父は、苗栗県南庄という客家族の片田舎で六年間の日本の小学校教育を受けた後、中国語を一年勉強すると、荷物を背負って一人馴染みのない台北に出た。右も左も分からず、頼る知人もいない。まるで言葉が異なる別世界に来たように、身も心も苦しかったが、親の期待を裏切らないようにと、父はどうにか台北に踏みとどまって働いた。
 
父はどんな事も軽率にせず、一所懸命に打ち込んだ。判断力と、強い責任感、正確な仕事ぶりは上司の信頼を得た上、見合いをしてはと、従妹を紹介された。
 
温家にとって、これは恵まれた良縁であり、福を授かったようだった。こうして父に嫁いだ母は、優しく優雅な女性で、夫を立て、内助の功に徹する理想的な妻であり、母であった。しかも上手に父の仕事を助けしながら、子供五人を育てあげた。
 
台湾は一九四五年に日本の統治が終わった。日本人が帰国した後、各地から父と同じような若い人が台北に出てきた。皆よく働き、出世するまで一所懸命に頑張った。お互いが見ず知らずであっても、励まし合い支えあった。出会った人とはきっと縁があると信じて、異郷を故郷と思って近所の人と皆いい友達になった。
 
我が家は厳しい父に優しい母という組み合わせで、仕事に励む父は子供に寄り添うひまがなかった。父と子の関係が疎遠になり、子育ては母が担っていた。いつの間にか、私たちは徐々に大きくなり、父の事業も落ち着いてきた。肩の荷が下りた父は、家族と過ごす時間が増え、久しぶりに笑顔を取り戻した。
 
一家を食べさせてゆく重責を担っていた父は、今は親切で「やさしいお父さん」になり、また、孫や曾孫にとっても「いいお爺ちゃん、優しい曾お爺ちゃん」である。
 
母は伝統的な考えを持つ女性であり、夫を天、自分を地として、家事をこなしていた。性格は優しく温和で、父もそんな母に敬意を持って接したので、家庭の雰囲気は和やかであった。そのような母は、「母の模範賞」を受賞し、我が家も「模範家庭」と認められ、賞をもらった。
父は台北に七十年余り暮らした間、熱心に社会奉仕を続けていた。さらに、中国にも渡って、後輩の支援に力を尽くした。その行動が高く評価され、行政院客家委員会から「二○○九年客家終身貢献賞」を受賞した。
 
一九九九年九月二十一日に台湾中部の集集で大地震が発生したとき、父は台北市中正区の調解委員会の主席として、区長やスタッフと共に救援物資を持って被災地に駆けつけ、被災者に配布した。その後、母と慈済ボランティアと一緒に被災地に戻り、ボランティア活動を行った。
 
慈済ボランティアが着ている紺と白の制服姿を目にした父は、ボランティアが奉仕に励み、協力し合っていることに感動した。その時、突然自分が所有する基隆市八堵区の土地のことが頭に浮かんできた。建築業者が何度も買いたいと言ってきた土地だったが、父はあまり売りたくなかった場所だ。父は、その土地を慈済に寄付し、慈済と縁を結び、多くの人が仏法の勉強や茶会を行う場所として提供したいと思った。
 
作者・李文殷、朱妍綸、朱妍綾など
発行元・慈済道侶叢書出版
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今年九十四歳の高齢の父は、優しく知識豊かな年配者である。家に何か重要な事情があったら、必ず家族全員に伝える。私たちはこの寄付のことを知らされた瞬間、疑念が生じたが、両親の考えを聞き、よく話し合った後、「父と母が喜んでやることなら」と、皆は異議なしに賛成した。これは正に、母がよく口にした言葉、「一人で楽しむよりも大勢の人を楽しませるほうが良い」の通り、心が広いからこそこのようなことができるのだろう。
 
父は智慧と慈愛に満ちた年配者で、今生で彼の子供である私たちはなんと幸せなことだろう! 大事にしなくてはならない福であると思う。
 
 
 
山あいに築かれた浄土
 
山と川の傍に立てられた基隆静思堂。周囲の景色が、「八堵」と呼ばれる地方の歴史を物語っている。客家人の温送珍が寄贈した土地に建てられた。彼が二十年来この土地の人と結んだ深い縁によって、この山あいの浄土が築き上げられた。
 
 
苗栗県南庄郷から台北へ仕事に来た温送珍さんは、創業した大源商行という小さな雑貨店が大源百貨店、そしてさらに規模が大きくなり、大源デパートに変身した今も、南昌街に住んでいる。ここには、一緒に頑張ってきた客家人の友たちがいるからだ。ひまな時、彼は友たちの家を訪ね、楽しくお喋りをする。とくに家の向かいに住む陳増円とおしゃべりをするのが好きだ。
 
一九九八年、彼は普段のように陳増円とおしゃべりをしていた時、六十歳くらいのある慈済のボランティアが、ビルの前で新聞紙を整理していた姿に目を留めた。彼女は一枚ずつ広げた新聞紙をきちんとたたみ、さらに紐でしばって、整然と並べて置いた。ほかのボランティアも古紙やペットボトル、金属などの回収物を分類しながら整理していた。
 
彼らは週に二日、決まってそのビルで回収物の整理を行っている。温送珍は好奇心にかけられ、「陳さん、彼らはなぜあんなことをしているのかね」と聞いた。
 
陳増円は、「あの人はね、公務員を定年退職した慈済ボランティアの許瑛麗さんだよ。ここの管理人をしていて、ビルの資源回収をやってくれるのだよ。ご主人は、大手企業に勤めていて、月給は十数万元もあるそうだ」
 
温送珍は、ご主人の収入がこれだけ高いのに、なぜ奥さんがビルの管理人をして、しかも資源回収をする必要があるのかと疑問に思った。
 
ある日、また陳増円のところに来た温送珍は、許瑛麗が真面目に回収物の分類をしていたのを見て、思わず腰をかがめて、許瑛麗に聞いた。「なぜこのようなことをしていらっしゃるんですか?」。許瑛麗はふりかえって笑顔で答えた。「退職したら体を動かさないとね」
 
許瑛麗は公務員を退職後、退職金を社会奉仕に寄付しようと思ったが、親孝行の子供が両親が余生を過ごすために山の近くに新しい家を買ってくれたのだという。そのローンの負担を子供にかけたくないので、退職金で返済したと話した。
 
貯金がなくなった許瑛麗は、神様に、「もし仕事が見つかったら、必ずその給料を寄付する」と願をかけた。ビルの管理人が病気になったため、彼女は代理で勤めることになった。責任感が強く、真面目な姿が、管理委員会に高く評価された。元の管理人が病気で亡くなった後、彼女は職務を受け継いだ。
 
ビルのゴミを片付けたとき、許瑛麗は回収できるものが多いことに気づき、捨てたらもったいないと思い、四階の空間を利用して分類された回収物の置き場とした。毎週火曜日の午後、ボランティアを誘い、そこで一緒に回収の作業を始めた。
 
温送珍は慈済のリサイクルセンターに幾度か通ううちに、許瑛麗さんとだんだん親しくなった。金持ちでなくても人を助けるためお金を貯めて寄付する人が大勢いるという話を聞いて、慈済の会員である温送珍夫婦は献金に励んだ。
 
●2001年、温送珍(中)と妻の黄細喜(右)、慈済ボランティアの許瑛麗は南投県の中寮中学の校庭で希望工程の活動に参加し、芝生を植えた。
(写真提供・許瑛麗)
 
一九三五年の関山大地震を経験した温送珍は、一九九九年の台湾中部大地震で、無力感に打ちのめされた被災者と、ぼろぼろになった町の悲惨な状況を目にした後、命のもろさを実感した。
 
慈済が支援して建て直した被災地の学校は五十一校もあった。「希望工程」と言われた支援建設計画で、二○○○年から学校を建て始めた。二○○一年にはすべての校舎の工事が終わったので、慈誠隊員(慈済の男性ボランティア)が校庭に入り、景観工事に着工した。何カ月も続けられた慈済ボランティアの被災地支援とその報道を読んで、七十六歳の温送珍もボランティアになりたいとの思いを強くした。やがて、温送珍夫婦は、許瑛麗と一緒に中寮中学でボランティアをする願いを叶えた。
 
真夏日の中、温送珍は笠をかぶり、袖とズボンの裾をまくり上げ、砂利道で繰り返し一輪車を押しながら物を運ぶ。時にはほかのボランティアと一緒に芝生張りやレンガを運んで、レンガの敷設作業を行い、どんな仕事でも要求に応えて協力していた。そして妻の黄細則は、厨房ボランティアとして、作業員のための食事を準備した。
 
ボランティアは七日間という短い時間だったが、温送珍は、慈済の効率的で素早い支援活動を目にした。ボランティアが愛で被災者に付き添い、被災地の子供と住民に力を与え、希望をもたらしていることを、深く感じた。
(慈済月刊六一九期より)
No.262