慈濟傳播人文志業基金會
待ちわびるアフガニスタン難民  街角から「希望の家」まで
国もなく、保護してくれる家族もいない
アフガニスタン難民の少年達は、道路で首を長くして待ち続け、
やっと愛で築かれた「希望の家」に迎えられた。
 
「僕は両親や家族と離れ離れになってしまった。今は母さんが恋しい」。十四歳のビシュミラ・ジョイアが初めて慈済のボランティアと出会ったとき、自分の遭遇したことを話してくれた。街中に野宿している彼は同じ故郷から来ている八人の友人と同様に、自分が生まれた土地から追い出され、アフガニスタンから遠いインドネシアへ避難して来た。
 
戦争が何年間も続いてきたアフガニスタンの住民数百万人は、住む場所を失くし、他国へ逃れた者も多く、中東難民の主な国の一つとなっている。
 
ジョイアは国から離れ、飛行機でインドまで行き、そこで乗りかえ、苦労の末マレーシアへ着いた。マレーシアから再び船で海を渡り、最終的にインドネシアに辿り着いた。「暗闇の中で船に乗るため、三十メートルの桟橋を歩き、小さい船から大きい船に移りました。海上でうねる大きな波を見て怖くなり、布で目を覆いました」。彼は涙を流しながら当時避難した時の様子を思い出していた。
 
インドネシアに着いてから、ジョイアと一緒に連れ立ってきた八人は、ジャカルタ国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の外で収容されるのを待っていた。二カ月も続いた野宿では、夜風が寒く、昼間は熱帯国家の暑い日差しを耐えなければならなかった。飢えを我慢しても、次の食事は見当たらない。安定した生活は程遠いものだった。
 

野宿少年は家族となった。

 
インドネシア国内では、一万四千人の難民が滞在している。就労は許されない上、収容所の数も不足している。収容所への入所許可を手にするために、多くの人々は国連難民高等弁務官事務所の外で野宿して待っている。二○一六年五月に、インドネシア・大愛テレビ局の総監である陳豊霊は、その中に未成年の子供がいることを知って、早速慈済ボランティアと一緒に訪ねた。
 
●中部ジャカルタ国連難民高等弁務官事務所の外の道路に、難民達はアスファルトの側にマットレスを敷いて休憩している。収容センターに入れるまで野宿して待っている。
(撮影・Ruth Putrayani Saragih)
 
ボランティアは、まず家族から離散しているアフガニスタンの少年たちのために、一戸建ての家を借りて、中継ステーションとして「希望の家」を立ち上げた。現在は十人が常住している。飲食と宿泊を提供するほかに、ボランティアは英語やインドネシア語とコンピューター技術なども教えている。
 
住む場所が決まって、少年たちは心身とも安定を見せた。性格の明るいカムラン・アリーとホサイン・ラスーリは、他の少年の兄と師匠となった。学習の機会をとらえ、ジョイアは機械課程を選んだ。将来は優秀な電気・水道技師になりたいという。他の人はそれぞれが選んだ料理や散髪の技術を勉強している。
 
毎週の運動時間に、彼らはバレーボールやフットサル、水泳を練習している。体を鍛えるのと同時に、入所者同士互いに仲良くなれるからだ。ボランティアは彼らにボランティア活動に参加するように誘った。ジョイアと彼の友達は今まで休まず参加している。ジャカルタ中部で献血活動を行った時、彼らは計画から活動が終わるまで全て参加した。真面目な態度で、勇気を奮って献血もしたそうだ。
 
「初めての献血だったので怖かったです。でも、努力して恐怖を克服し一心に病気の人を救おうと思いました」とホサインは心の中にある困難と変化を話してくれた。
 
普段、ジョイア、ホサイン、そしてアリーは慈済のリサイクルステーションで資源回収を手伝い、各種のプラスティックをきれいに分けている。背中まで汗でぐっしょりになるが、皆と一緒に活動に参加することは楽しく、「仲間の一人になれたことは本当に良かった」とアリーは微笑んで答えた。
 
●「希望の家」の少年達(前2列)はボランティアの制服を着て、慈済の配付活動に参加した。
 (撮影・LM Rizal)
 

技術を磨き、

将来のために準備する

 
「希望の家」の子供達は勉強を続けることにより、恨みが薄れ、悲観的になったり落ち込むことも少なくなった。ボランティア達は彼らのために、慈済志業での実習に参加するよう勧めた。彼らは経理や事務の部署に入り、住み込みで技能を学び、将来実際に活用できるように準備を進めていた。
 
子供達はまだ学齢期にあり、勉強を中断してはならない。二○一七年七月に新学期が始まった。五人の難民の子供、ハイダリ、ショクルラ、ジョイア、アルマン、レザは、キンカレンにある慈済大学で中学一年から高校三年までの授業を聴講した。
 
三カ月後、ヨヌス、フジャヅラ、ホリカ、ザイヌラも学校に入り、慈済大学で高校二年まで聴講した。
 
慈済大学の学生達は、彼らにとってインドネシア語は難しいことを知った。そこで、インターネットの翻訳機能を使って、彼らの学習を熱心にサポートし、インドネシアの学校生活と文化に慣れさせた。もっとも重要なのは、インドネシア語でのコミュニケーションを彼らに教えることだ。
 
風雨を経験してきた難民の子供達は、学校から離れて数年、やっと他の子供たちのように勉強し、新しい友達や先生と活動することでができたことで、しばしの間、異国での苦難を忘れることができるだろう。落ち着ける場所を得たなら、未来に希望を抱き、夢を求めることもできる。心では常に家族を思っているだろうが、現実に向き合い、強くならなければならない。
 

勇気を身につけ、最高の自分に

 
「希望の家」に住んでいるジョイアや、他の子供達にとって、インドネシアはあくまでも一時的に滞在できる国でしかなく、国連難民高等弁務官事務所が彼らに定住先の国をアレンジしてくれることになっている。
 
「希望の家」に在住入所してから一年が過ぎた頃、ホサインはオーストラリアへの移住を許可された。二○一七年五月に、彼はジャカルタ空港で皆に別れを告げた。彼にとって、苦楽を共にしてきた「希望の家」の仲間たちと慈済のボランティアは家族同然で、別れるのはとても辛かった。
 
「最高の自分になろう。決して怠けたり、文句を言ったりしないで」。これはホサインが友達に残した心からの祝福の言葉だ。戦争の被害者になったものの、長い時間をかけて、あきらめないことと勇気を持つことを、彼らは知ったのである。           
(慈済月刊六二〇期より)
No.264