慈濟傳播人文志業基金會
苦が去った後の説法は永久に役に立つ
群衆の中で奉仕し、苦難の人に幸せをもたらす。
有形の物質は、一時的に落ち着いた生活を与えるが、
無形の法は、慈悲の心を啓発し、安楽自在にさせる。
今生で役に立つだけでなく、
来世からさらに先にまで影響を与えることができる。
 

九月二十八日の午後、インドネシアのスラウェシ島に強い地震が発生し、予告のない状態で津波が押し寄せて地上を覆いました。建物はひどく損壊し、二千百人の犠牲者と一万人余りの負傷者を出しました。何日も飛行場の滑走路が使えず、軍用機や小型機により辛うじて支援と負傷者の輸送を行いました。

ジャカルタから南スラウェシ州の州都マカッサル市まで飛行機で二時間かかり、さらにマカッサル市から被害が甚大な被災地の中部スラウェシ州のパル市まで一時間以上かかります。しかし、慈済人はただちに被災地まで行き着くことができなくても、支援活動が中断することはなく、まず、マカッサル市に行って、被災地から送られてきた負傷者を見舞って慰問金を届けました。

被災地では多くの被災者が未だに水や食糧を待ち望んでいることを思い、慈済人はあらゆる方法を使って、台湾やジャカルタからリレー式で支援物資を輸送しました。交通が復旧すると、ボランティアと慈済人医会(慈済の医療ボランティアチーム)のメンバーはただちにパル市に入って支援と施療に行い、即席飯などの物資で被災者の生活と心を落ち着かせると共に、その後の住居の建設支援に関する調査をしました。

慈済は五十三年目に入り、慈済人は世界中で慈済精神を伝承し、これを信じて実行しています。慈済インドネシア支部は今年、二十五周年を迎えました。このイスラム教を主体にした国でも、慈済精神は社会の各階層で受け入れられています。ひとたび災害が発生すれば、必ず支援に駆けつけるボランティアたちの愛は誰に対しても平等で、相手の信仰を尊重しています。

近年、ジャカルタ西のパドマンガン村の貧困者住宅を支援建設した時、初めは仏教団体が自分たちに改宗を迫るのではないかと疑われたこともありました。しかし、ボランティアたちが時間をかけ、様々な方法で忍耐強く、慈済の見返りを求めない理念を説明した結果、ついに真心は受け入れられました。

貧困支援は三百世帯以上の住宅だけでなく、モスクや教室を建てて村人がコーランを唱える場所を作りました。堅固な家に住めるようになった人たちは、四、五千本の竹筒貯金箱を持ち帰り、老若男女が喜んで布施をしています。なぜなら、善行は正しく良い宗教が共に目指しているものであることを彼らは知っており、コーランも同じように教えているからです。

慈済人の中には多くの実業家がいます。お金持ちが貧困者のために家を建てるのではなく、彼らも小額のお金を重視して、「竹筒歳月」運動を広め、それらを結集して真心の浄財で建てたのです。ボランティアはその経過を皆に話して人々を感動させました。これが真の愛の妙法です。

インドネシア支部副執行長の郭再源が皆に話しました。「朝の開示を受けて、苦集滅道を深く理解していたため、奉仕する時に貧苦の人に出会えば、その人たちを善法から入るよう導くのです。その時に、大衆に実践させようと、師匠が早くから《法華経》で道を切り開いてきた苦労が分かりました。ここ数年来の実践を振り返ると、経文は正に歩いてきた道、すなわち菩薩道であり、無私の大愛だったのです」

スラウェシ島の地震で、三十五国・地域で慈済ボランティアが愛の募金活動をして災害支援を行いました。ハイチやアフリカ諸国など、現地のボランティア自身も貧しいのですが、遅れを取りません。そして、エクアドル地震の被災地の神父と修道女も、慈済の人助けのために募金箱を抱えてやって来ました。国や民族の分け隔てなく、宗教が一つに融合し、一緒に善行することができるのです。

皆で「竹筒歳月」の精神を発揮し、普段から愛の心で以て硬貨を貯めていくのです。衆生に苦難が発生した時は、すかさずこの硬貨を差し出します。また、子供たちはゼリーを作り、お年寄りは草餅を作ってチャリティーバザーに参加しました。材料は自分のお金で購入し、人々に愛で以って一緒に善行しようと呼びかけました。慈善、医療、教育、人文志業体の職員も迅速に行動を起こし、この善意の義挙に参加しました。静思精舎の修行者も我先にと善行に参加し、毎月千元の収入しかなくても、それを喜捨しています。

愛の募金には二重の意義があります。一つは、金銭を重視するのではなく、世の人々の愛を啓発することです。二つ目は人々の警戒心を促し、平穏な生活の中で危機感を持ち、敬虔に自分を戒めることです。

このような境地をかりて大衆に人生の無常を呼びかけています。異常気象と四大元素の不調によって、どの国も災害の苦しみを感じており、瞬時にして人命や財産が損なわれ、この世はなんとも脆弱なものになっています。

平穏を大切にすべきです。平穏とはすなわち幸福であることです。人の苦しみを見て己の幸せを知れば、もっと福を作らなければなりません。時間を無駄にせず、災害や苦難に遭った人々を支援することは、誰もができることです。日頃の消費を少なくすれば、愛の奉仕が実践できます。敬虔に祈り、善念を結集することは、保護膜で天地を平安に保護するようなものです。

布施救済するだけでなく

善の種子を撒き

愛の心を啓発し

人々と福を分かち合うべき。

善意の心で常に足ることを知れば喜びに満ちる。

今年の七月から八月にかけて、ミャンマー中南部は豪雨が続いたため、三度も水害が発生しました。この一、二カ月の間、田畑は水に浸かり、農作物に大きな被害が出ました。農民はもともと貧しく、天を仰いでため息をつくしかありません。

水が引くのを待って、慈済ボランティアは三つの州へ実地調査に行きました。荒れ果てた農地を目にし、農家が借金で困窮していることを聞き、「これからどうしますか?」と聞きました。「まだビスケットがあります」「なくなったら?」「水を飲むしかありません」と老夫婦がため息をつきました。他人からの助けは望んでいないようでした。皆が貧しく、人々は自分のことだけでも精いっぱいで、他人を助ける余裕はありません。

ボランティアが彼らの高床式の家に上がってみると、長い間大雨で濡れたままになっていた壁や屋根は用をなさず、ボランティアは床を踏み外して下に落ちるのではないかと思いました。

ある家の訪問を終えて、帰ろうとした時、その家のおばあさんはボランティアの手をかたく握ってさすりました。「こんな体格の良い人を見たことがないし、がっしりした手を触ったこともありません」と言いました。この地方の人たちは皆が痩せていたのです。村人は、都市部や海外から来た慈済ボランティアが優しく労り、彼らの話に耳を傾けてくれるだけで満足していました。

十年前をふり返ると、サイクロン・ナルギスが災害を引き起こした時に、ミャンマーに来て災害支援を行った時のことが思い出されました。農民は一生苦労し、一家を支えるのも大変です。借金して種もみを買い、その高額な利息のために、年中働き続けても生計を立てることができません。貧困と借金の中で一年また一年と過ごしているのです。

慈済は被災した農民たちが自立できるように種もみを贈りました。ボランティアが種もみの袋に印刷した、ミャンマー語に訳された「静思語」を見て、農民たちはとても喜び、種もみを使った後も袋を大切にしまっていました。

慈済ボランティアは今回の訪問調査で、かつて支援した村も訪ねました。被害はなかったのですが、村人たちはボランティアを見てとても喜び、大事にしまっておいた袋を見せて、「これはとても貴重な袋ですから、大事に取っておいたのです」と口々に言いました。「以前もらった袋には『口で良い言葉、心に良い思い、体で良い行いを』と書かれてありました。「私の袋に書かれてあったのは『感謝、尊重、愛』です」。それぞれ異なっていましたが、皆、その簡単な静思語の一句一句がどのように自分たちの人や物事への接し方に影響したかを話し合っていました。

当時、種もみをもらった後、彼らは努力して耕しました。自分だけでなく、村中の生活を安定させ、幸福を分かち合おう、と種もみを慈済に持って行って、他の貧しい人を助けてほしいと頼みました。ウテントン、ウサントン兄弟は感動して慈済ボランティアになりました。

彼らは指導の下に、今では十八の村で九百六十世帯以上が慈済の竹筒歳月にならって、毎食米を洗う時に一握りの米を櫃に入れ、米貯金して、毎月の集会にその米を持っていきます。皆が差し出したお米を集めると一トン以上の小山のようになり、六十六世帯の困っている人たちを支援することができます。

軽く一握りの米を櫃に入れ、自分は腹八分、二分は人助け。十人分集まれば、一つの家庭を助けることができます。六十世帯を超す貧困家庭のお年寄りや障害者、孤児、未亡人たちを助けることができるのです。

今年は水害のため、来年二月にならなければ田植えができないため、この季節に収穫があるように、まず十月から担ぎやすいように袋分けした他の種子を配付しました。それで緊急の作付けをするだけでなく、季節に応じて蒔くことができるのです。

配付した米袋にはやはり静思語が印刷してあり、支援を受けていても、愛の心を啓発して少しずつ貯めれば、人助けができることを知ってもらっています。静思語の良い言葉を心に止め、善に解釈し、足るを知れば、貧困であっても天命と思って甘んじることができます。

これが善の種子を蒔くということであり、「苦を取り去った後、説法に替える」ことなのです。生活の安定を支援するだけでなく、精妙な一句が心に響けば、いつまでも役に立つのです。群集の中に分け入って奉仕し、貧しい人に幸福をもたらすのです。有形の物資は一時的に生活の安定をもたらしますが、無形の仏法は今生に影響するだけでなく、来世にまで持って行くことができます。

どんなに抗っても

人生の最期は老いて行き

病で衰えて行く。

世と争うのではなく

時間と争って

この体を使って

衆生を利するのである。

時間は絶え間なく過ぎて行き、知らぬ間に体はゆっくりと老いて衰えて行きます。気力も体力も衰えていくのは、歳月が残した痕跡ですが、いくら頑張っても徒労に終わるのです。

心の動きは外部の環境に影響され、賞賛、嫌気、阻害と変化し、好きなことは取り入れ、手に入らないと争うのです。人、事、物のために煩悩が起き、執着してしまうのです。しかし、どんなに抗い、目の前のことで争っても、結果は老いに向かい、病で衰えて行きます。自然の法則には誰も逆らうことはできません。

歳月は人を待ちません。ですから、この生命を善用すべきです。事や人、世と争ってはなりませんが、時間と争って、命の限り良能を発揮すべきです。人生を享受するだけなら業力が増えるだけ、と自分自身に警鐘を鳴らすべきです。早く目覚めて、この体で衆生を利するのです。

衆生の苦難に手をこまねいて傍観していてはなりません。どんな範囲が広くても、苦難の衆生がどれだけ多くても、大衆の縁と力を集めて助けることができるのです。

災害が起きるたびに、慈済ボランティアは社会に落ち着きを取り戻させ、被災者に寄り添っています。時間も自分のことも気にせず、使命と思ってただちに行動し、辛さを福に変え、甘んじてことを成せば、喜びが得られるのです。苦しんでいる人に対する慈悲と寄り添いは、慈済ボランティアだからこそできるのです。この無私の大愛が次の世代に引き継がれ、世の中がもっと平穏で平和なものになることを願っています。

善意の人々から離れてはならず、善の本分とその権利をなくしてはいけません。行動すればいいのです。皆さん、精進しましょう。

(慈済月刊六二四期より)

 

No.264