慈濟傳播人文志業基金會
地盤沈下とスーパー豪雨に遭遇して
布袋鎮の地盤沈下について、住民は早くから危機感を持っていた。
今回の八二三豪雨では、程度の差こそあれ、二十三全ての里が浸水した。
今回の危機を乗り越えても、
それは今後も危険がないという保証にはならない。
豪雨は地域住民にとって大きな脅威だ。
 
八月二十八日正午近く、ようやく熱帯低気圧が去った嘉義県を、今度は西南気流によって発生した大雨が襲った。豆粒のように大きな雨が布袋鎮高齢者活動センターのトタン屋根に打ちつけ、太鼓の音のようなバラバラという音が響いていた。車で駆けつけた慈済ボランティアの声も思わず大きくなった。
 
「里長さん、私たちは浸水地区と浸水していない地区に分け、浸水している地区には全て行きます……」。施哲富は簡潔に東港里の林里長に慈済が「個別安心家庭訪問」を行うことを伝えた。「自分で家を片づけられない一人暮らしの人、社会的弱者、こういう人たちのリストを頂ければ、私たちが片づけを手伝います」
 

●布袋鎮考試里の水が引いたのは、現地でも一番最後だった。慈済ボランティアが訪問した際、現地の里長(左写真、黄色の服の人物)は膝下まで水に浸かりながら被災状況を訴えた。里長の傍の民家はすでに5日以上も浸水していた。
 

地元を道案内、

思いやりを隅々に届ける

 
八二三熱帯低気圧水害の発生を受けて、故郷を離れていた布袋、東石の若者たちが続々と帰郷し、軍と重機のサポートで復興活動が始まった。慈済地域ボランティアと嘉義県の大林慈済病院の医療ボランティアチームはすでに家庭訪問、清掃、無料診療を開始していた。
 
現地ボランティアの施哲富は、積極的に各村長、各里長に連絡して、被災状況を確認する一方、家庭訪問チームとともに隅々まで各世帯を回った。
 
「乾いた服がありますか?」「うん。まだ制服があるよ」。ボランティアの蔡琬雯が邱さんの被災後の生活状況を尋ねる。四十代後半の邱さんは、二人の心身障碍者の弟と暮らしている。養鶏場で働いて得る賃金で、なんとか一家三人の生活を支えていたが、二十三日の豪雨で三兄弟の住んでいた古い赤レンガの家が浸水したのみならず、邱さんが働く養鶏場も水没してしまった。
 
多くの鶏が溺死したため、邱さんは自宅と二人の心身障碍者の弟を顧みる時間もなく、経営者の指示に従って鶏の死骸を片づけなければならず、家の大掃除を始めたのは豪雨から数日たった後のことだった。ボランティアが訪問した時、家の中には水に浸かった衣類が山積みになっていた。
 
●嘉義県沿岸の浸水・冠水地域。養殖池と水田の区別がつかなくなっている。電信柱がなければ道路の所在も判別できない。
 
「車に服を積んでいるから、持ってきましょうか?」。蔡琬雯は清潔なリサイクル衣類と、まだ温かい菜食弁当二つを渡し、「菜食料理は健康的ですよ!」と付け加えた。
 
台湾の農村の貧困家庭の苦境はどこも似たようなものである。一人暮らしの高齢者、障碍者、貧しい社会的弱者の収入は乏しく、唯一の頼りは先祖代々受け継ぐ古い家屋である。しかし、家屋は資産とみなされるために、中低所得・低所得世帯の資格を取得することが難しく、政府の補助が受けられないことがままある。
 
現行法規による規制があるため、政府機関や隣・里各長が、こうした「辺鄙な土地の世帯」に対してできる支援は少ない。一方、慈済は非政府組織であるため、支援できることは多い。「政府が法令に縛られて援助ができないというなら、私たちがその不足を補うのです」。施哲富はこう説明する。
 
●復興支援のため、政府は多くの大型ポンプを被災地に送り、たまった水を溝渠に汲み上げた。道路を通行可能にしてから、泥やごみの除去、清掃を行う。
 

生粋の嘉義人、

災害援助に即座に参加

 
熱帯低気圧豪雨は、布袋、東石という二つの沿岸の郷鎮に甚大な被害を与えた。布袋人の施哲富は災害援助のため走り回った。その実、故郷の人々のために奔走する彼自身も被災者だった。
 
「自宅は四、五十センチ浸水しました。水が引かなければ片付けや清掃もできませんから、私たち一家はその時間を利用して、災害援助や物資配付活動に加わりました」。四十六歳の施哲富と兄の施哲雄は、提携互助の事業パートナーであるだけでなく、布袋鎮の数少ない慈済現地ボランティアでもある。
 
兄弟はそれぞれの自宅と兄が所有する衣料倉庫の全てが浸水した。倉庫の二、三千着の衣服が水に浸かった。兄弟で話し合い、兄は家の片づけを行い、施哲富はボランティアのユニフォームを着て、災害援助に参加することにした。ボランティア活動の時間は一日十三、四時間にも上ったが、施哲富は「兄の分まで私がやるんです」と話した。
 
施兄弟が、自宅が浸水し、財産も損害を受けたのに対し、布袋在住の蔡琬雯は今回の水害で幸運にも被害を受けなかった。六十五歳の彼女の自宅は浸水せず、無事だったため、救援を求めているのを知って、災害援助活動に加わり、全力で奉仕した。
 
●蔡琬雯(写真右)が長期に亘って浸水した家を訪問した。この時にもまだ1センチほど浸水していた。水が引くまで住民は家の片付けもできない。慈済ボランティアは家庭訪問で被災者を労り、今後のサポートを手配した。
 
「今回の豪雨で、布袋の二十三の里は程度の差こそあれ、全て浸水しました。中でも岑海里の被害が最も深刻で、本当に海に沈んだようでした。八百六十世帯全てが浸水し、高齢者は二階に避難していました」。蔡琬雯は今年六月に布袋鎮役場を退職したばかりだった。退職して三カ月も経たないうちに、かつての同僚から救援を求める電話を受けたのである。
 
「役場では支援物資が必要だと言っていました。私はすぐに慈済嘉義防災センターに連絡し、慈済ボランティアのユニフォームに着替えて、役場に駆けつけたのです」
 
嘉義連絡処にある慈済防災連絡センターでは、電話が鳴りやまなかった。ボランティアが緊急出動し、炊き出しや災害援助について話し合った。「モラコット台風の時より降水量が多く、またちょうど満潮に当たったのです」。海辺で育った蔡琬雯は、海水面の上昇について知識があった。たとえモーターポンプを使っても、短時間で水を引かせることはできない。しかも雨は降りやまず、沿岸地区の中安里、西安里、東安里、貴舎里の四つの大きな里での被害は深刻で、二階の高さまで浸水したところもあった。
 
●水が引くと、東石郷掌潭村の住民はすぐに家の片付けや掃除を行った。地盤沈下の問題があまり認識されていなかった数十年前に建てられた家屋の多くは、建物の基礎を高くしていない。長年の地盤沈下により、これまで浸水したことのなかった集落が浸水した。
 
八月二十四日朝、蔡琬雯は他の郷鎮から支援に来た慈済ボランティアと合流すると、チームの先頭に立って浸水地区に行き、孤立状態の人々に弁当を届けた。
 
ボランティアは弁当を運ぶため、ボートを用意した。水の中をボートで進み、通り二本の世帯への弁当を配り終わったところで水の勢いが増したため一旦休止し、一行は布袋鎮役場に戻って救援を待った。この時、軍隊が現地に到着し、部隊の指揮官は救援のため装甲車「雲豹」を派遣した。積載重量は二十トン以上、高さ二メートル以上の特殊車両に乗り、慈済ボランティアはようやく被害の大きい岑海里へ向かうことができた。
 
「慈済がお弁当を届けに来ましたよ!」。大きなかけ声は、被災地の人々を力づけた。体力のある人は水の中を歩いて来て弁当を受け取り、二階から降りられない人は袋や籠を棒に引っかけて下ろし、弁当を入れてもらった。
 
浸水被害の深刻な被災地では、車から降りて弁当を届ける作業は多くが男性が受け持った。背の高くない蔡琬雯は、車の中で待機していてもよいのであるが、しかし彼女は自ら腰まで水に浸かりながら弁当の配付を手伝った。「こんなに浸水している状況を目の当たりにして、心が痛みます。布袋に生まれ育った者として、被災者とともにいたいのです」
 
長年現地で活動してきた蔡琬雯は、岑海のほとんどの住民と顔見知りであり、だからこそ彼らが苦難にある時には、彼らに寄り添っていたいのだと言う。「地元の人たちは慈済人、とくに顔見知りの慈済人を見ると安心できます」と蔡琬雯は話す。
 
●軍人が順に並んで東石郷掌潭村の住民の片付けを手伝った。高齢化により若者の不足する現地では、清掃の援助が必要不可欠だった。
 

地元生まれの地元育ち、

故郷沈下の危機

 
布袋鎮の地元の慈済ボランティアとして、蔡琬雯と施哲富は今回の水害救助活動において、仲介者、案内者の役割を果たした。長年嘉義の沿岸部で生活してきたことで、彼らは現地が直面する難題を他の土地の人よりもよく理解している。
 
鎮役場で長年兵役関連の業務を担当してきた蔡琬雯は、布袋鎮の若者が都市部へと流出し、高齢化が進む問題を間近で感じてきた。高齢化と並ぶ布袋のもう一つの危機が、地盤沈下である。経済部水利署と国立成功大学の研究によると、嘉義地区で一九九一年から二○一六年までに六十センチ以上沈下した地区には東石郷、布袋鎮、朴子市、義竹郷がある。中でも沈下の最も主要な中心が海岸から近い東石と布袋である。地元生まれ、地元育ちの施哲富は、この問題を早くから認識していたが、事態が深刻であることを感じたのは十三年前のことだった。
 
「私の家は東港里の中で海抜の最も高い地域にあります。以前、うちが浸水したら東港里全部が浸水すると言われました。結局、今回の豪雨では東港里の九十五パーセントが浸水したのです」
 
●水害後、病原菌が蔓延し、公衆衛生の危機を招かないよう、白い防護服を着た軍の化学部隊が浸水地区に消毒薬を散布した。
 
二○○五年、三十四歳の時に彼は勤めていた台糖鹿草畜産場に退職願を出した。しかし退職前、強烈な西南気流により台湾南部に六一二水害が発生、東石畜産場の二千頭以上の豚が水死、豚の死骸の片付けが最後の仕事となった。養豚の仕事を辞めた後、彼は妻と共に兄から衣料品販売を学ぶ一方、慈済ボランティアの見習訓練にも参加した。そしてその年以降、施哲富は地盤沈下や浸水の危機を身近に感じるようになった。
 
「地盤沈下は以前からありましたが、しかし今では海から四、五キロメートルの内陸部にまで広がっています。私の兄の倉庫は元々路面より一メートル高かったのですが、今回の豪雨では五十センチの高さまで浸水しました。このことから私はこの土地は一メートル以上沈下したと見積もっています」
 
二十三日の豪雨の後、東石郷の村の半分は腰の高さまで水に浸かり、布袋鎮では三日目になっても十の里で水が引いていなかった。モラコット台風でも布袋は浸水したが、今回ほどではなかったと施哲富は言う。地盤沈下や浸水に警戒の念があったため、慈済布袋リサイクルセンターを建設する際、彼は基礎を百三十センチまで高くした。これが今回の豪雨で効果を発揮し、リサイクルセンターは百センチの水の上に立ち、救援に来た軍の兵員たちの休息、補給の拠点ともなった。
 
念入りに設計されたリサイクルセンターは、今回の危機を乗り越えたが、それは決して今後も危険がないと保証することにはならない。「いつ浸水するか分からないと思うと心配ですよ。今ではちょっと大雨が降るだけでビクビクします」
 
二○○五年の六一二水害、二○○九年のモラコット台風、そして今年の八二三水害という三度の水害を経験し、施哲富は「安全な地方へ越すことも考えている」と正直に話す。しかし、生まれ育った故郷を捨て去ることは簡単ではない。生粋の布袋人として今を大切にし、自分だけでなく、妻も連れて、人助けを行っている。
 
「自分の土地は自分で守らなければなりません。外部からこんなにも多くの人がサポートに来てくれたのです。私たち地元住民はもっと頑張らなくてはいけません」。施哲富は力を込めてこう話す。
 
●自らも被災者の施哲富(写真中央)は慈済の救助作業を優先し、沿岸の被災地を走り回り、連絡や家庭訪問、撮影などを行った。妻の蔡玲玲(写真左)も一緒に地元の人々をサポートした。
   
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「私たちの四、五カ月の成果が全て水の泡となりました……」。豪雨から何日も経って水はようやく引いたが、布袋鎮貴舎里の被災者の許さんは、蔡琬雯に泣きながら豪雨による農作物の被害について訴えた。蔡琬雯と同行して「安心家庭訪問」を行っていた台中の慈済人も、同情とやるせなさの混じった表情で彼女を見つめていた。
 
「大丈夫ですよ。これからまた立ち上がって、善行を行い、必要な人を助けてあげましょう」。蔡琬雯は許さんが日頃から寄付や人助けなどの善行を行っていることをほめ、慰問金の入った封筒を手渡した。
 
「本当にもらっていいんですか?」
「いいんです。あなたはお子さんを立派に育てたじゃないですか。みんな感謝していますよ。不運が行くところまで行き着けば、幸運が来ると言います。今日から全てがうまくいくといいですね」
 
他の県市からきたボランティアを率いて、嘉義沿海の故郷を一戸ずつ家庭訪問し、被災者を慰め、後続援助の必要について理解する過程で、蔡琬雯は證厳法師の思いやりを確かに被災者に伝えた。
 
●泥水を除去した後、慈済ボランティアがパイプをつなぎ、被災した家の壁、床を水で洗い流す準備をしていた。清掃中、割れたガラスなどを踏むこともあるため、ボランティアは雨靴のなかに踏み抜き防止インソールを入れて、足の怪我を防止した。
 
広範囲に渡る浸水・冠水被害が、多くの人々の協力により、短期間で平静を取り戻せたことは、現地のボランティアにとってはありがたいことだった。しかし、故郷の気候変動や地盤沈下の進行に対しては、警戒の念を忘れてはならない。
 
「結局は心の問題です。布袋、東石の地盤沈下は深刻ですが、私たちにできることは、真心を持って、皆が誠実になり、災害を減らしていくことです」。施哲富は実感を込めてこう話す。
(慈済月刊六二三期より)
No.264