慈濟傳播人文志業基金會
柔軟であるほど力強くなれる 高麗紅
 
慈善ケアの道は容易なことではないが、決してあきらめないと高麗紅は自分に言い聞かせている。
貧乏は恥かしくない、今ある幸せを大切にしてこそ真に幸福といえる
 
プロフィール:1962年生まれ。1994年慈済委員に認証される。
訪問ケア経歴:25年
訪問ケアの秘訣:自分の根気を育て、静かに対象者が自分の気持ちを打ち明けるタイミングを待つ。人を助ける機会を一つたりとも逃さない。

 

色黒ではっきりした目鼻立ちの高麗紅は、よく原住民族と間違えられますが、生まれも育ちも瑞芳九份の人で、「私の小さい時は少しも楽しいことがありませんでした」と言います。

九份は近海に臨む山の中腹にあり、遥か向かい側に基隆山が望める高台の街です。麗紅の実家はその「七番坑」にあります。下の道路から家に帰る時は二百段もの階段を上らねばなりません。九份小学校の児童は、家へ戻って昼食をとります。この階段のおかげで九份の子供たちは鍛えられて足腰が丈夫です。 

実家の近くの金山寺は「七番坑路級」と呼ばれ、当時の金鉱坑夫の出入りのために造られた石段があります。麗紅の父親は坑夫で、毎日夜の明けきらぬ中に家を出て夜遅くまで仕事をしていました。

一時金鉱の採掘は盛んでしたが、一九七○年代に量が少なくなり閉山となって、ほとんどの人は石炭の坑夫に転職しました。当時は誰々が負傷したといった話を日常茶飯のように聞かされ、父親でないことを願っていました。ですが、七歳の時、とうとう麗紅の父が負傷しました。

家計は母の肩にのしかかり、母は致し方なく家を出て淡水のホテルで働き、暇があると屋台の手伝いをして支送りし、九份へは滅多に帰ってこられませんでした。そのため小学校に上がったばかりの麗紅は、五人兄弟の世話から食事、洗濯までしなければなりませんでした。

「お母さんはいつ帰ってくるの?」と近所の人に聞かれる度、母の愛に飢えていた麗紅の心は傷つき、卑屈感とプレッシャーを抑えていました。放課後帰っても家の仕事で忙しく勉強する暇はなく、早く大きくなって母と暮らしたいと願うばかりでした。

現実の世界ではただ前を向いて振りかえることがなかった、今では純朴な九份の思い出も、幼い頃の思い出はみな忘れましたと言います。

 

人を傷つけると自分も傷つく

 

小学校卒業後は進学をあきらめ、母の所へ行って一緒に暮らすようになりました。毎日母が作ってくれる弁当を持って繊維工場へ働きに行きました。月給は十三元で、母との生活は楽しく、今でもその時の思い出が忘れられませんが、二年で父に呼び戻されました。実家は麗紅の手が必要だったのです。

十七歳の時、瑞芳の製衣工場に勤め、複雑なミシンの縫い方を覚えて、作業員から組長に昇格し、十九歳の時には百人の職人を抱える責任者になりました。学歴は小卒でしたが、自分で英語を勉強して商品の検査過程を熟知し、特殊な縫い方などによって針の大小が異なることなども習得しました。細かい部分には英語の番号がついていて、間違いは許されませんでした。

二十歳になる前に金瓜石から来た楊添富と結婚しました。家のローンが重くのしかかり、苦しい生活で、夫婦は一人二十五元の出勤のためのバス賃以外に出費することは、考えもしませんでした。

その後リストラに遭い、町でアイスクリームを売ったり、店でバイトするなどしてさまざまな仕事で貯めたお金でミシンを買い、二人の子供の面倒を見ながら洋裁店を開きました。家は三階にあるので何でも持って上がらなければなりません。時々泊りにきている義母が「あんた一人で持っていかなくても」と言ったとき、きつい口調で「私が運ばなければ誰が運んでくれるのですか?」と口答えして義母の心を傷つけたたことが、今でも辛く心に残っています。

2004年に兵役中の長男を面会に訪れた。温かい家族は高麗紅のボランティア活動の熱心な後ろ盾になっている。(左の写真提供/高麗紅)

 

 

1981年に夫婦で慈済の認証を受けた喜びの晴れ姿。夫の楊添富は父のように支えてくれ、麗紅に深く影響を及ぼしている。(右の写真提供/高麗紅)

 

訪問ケアで多くを学ぶ

 

一九九○年に慈済に加入しました。毎月会員の家庭を訪問して会費を集める以外に、ボランティアとして貧困や病の人の長期ケア活動にも参加して、一九九四年に慈済委員の認証を受けました。

当時は台北の古参委員が、基隆のボランティアたちに貧困者の訪問ケアの指導にきていました。訪問ケアの範囲は山を越え、バスが通っていない所は徒歩で、瑞芳、貢寮、雙渓などを回って、寄る辺ないお年寄りや病に苦しみ医療を受けられない人たちの世話をしていました。

最も忘れられないケースは基隆の曽おばあさんのことです。両目が見えず、精神障害がある曽おばあさんは、夫が老人ホームに入居しても頑として動かず、ベッドに座ったきりで夫が二日に一度持ってくる弁当を何度かに分けて食べていました。  

ボランティアたちがおばあさんの家を訪問するとき、家に着く前から物の腐った匂いがしてきます。三日毎にやってきて、家の清掃やおばあさんの体を洗います。おばあさんの体にはところどころネズミや虫などに噛まれたような傷痕がありました。訪問ケアを終えて帰宅し、温かいご飯を食べている時、おばあさんの腐った冷たいご飯を思い出して、なかなか喉を通りませんでした。

その後、おばあさんはおじいさんと同じ老人ホームへ入居しましたが、おばあさんの行動は以前と変わることはありませんでした。おばあさんをケアした経験によって、いろいろなことを学びました。お年寄りと話す時は、自分の物差しでなく相手の物差しに合わせなくてはならないということです。

基隆で行った慈善ケアの初期のケースでは、曽おばあさんを訪問し世話をした。老人ホームに入ったおばあさんを面会に訪れた時、おばあさんは高麗紅の手を握って「あなたは心の優しい娘だ」と言って喜んだ。

 

恨みを感謝に代えて

 

慈善のために行う訪問ケアは容易なことではありませんでした。住所も電気もなく、雑草の生えた基隆河の橋の下に住む阿華は、破れたマットと布団が全財産でした。夏は蚊に噛まれ、冬は骨まで凍るような寒さで、正常な人なら一分もそこに立ち止まっていられませんが、ホームレスの彼にとっては安心できる「家」になっていました。

二○○四年四月にこのケースの受け持ちになると、麗紅は四人のボランティアとすぐに視察に行きました。彼は末期の扁桃腺癌でしたが、治療を受けておらず、口を開けると異臭がしました。周りの地面にはべっとりと痰や唾液がねばりつき、口を大きく開けられないので、話がはっきりせず、話しかけたことに首を振って答えるだけでした。

その後、ボランティアの世話で週に五回の化学治療を受けましたが、退院して間もなく再発して多量に出血しました。しかし家族の同意がないので入院できず、仕方なくまた橋の下に戻りました。しかし彼は残り少ない自分の命を心配することなく、別れた妻や息子、老いた母親の心配をしていました。

ボランティアたちは家族を探すため奔走し、やっと三番目の姉を探し出して連絡すると、「家族で遺産相続について話し合っていた時、勝手に自分の名義に変更して売り飛ばし、弟には一銭もあげなかったのに、今さら治療費なんて一銭も出せません」という答えが返ってきた。阿華の妻は再婚して、音信は途絶え、姉は今では障害者生活保護のわずかなお金で日々を過ごしていました。

「弟のことは知りたくありません。私は仕事があって忙しいのですよ」と言う姉にボランティアたちは臆せず、「お姉さんの気持ちはよく分かりますが、貴方たちを傷つけた弟さんの過去を忘れてあげてくれませんか。たとえ過去はどうであろうと、私たちは喜んで臨終の苦しみに遭っているあなたの弟を助け、安らかに悔いが残らないように努力しているのです。ましてあなたは肉親でしょう。どうか残り少ない日々を少しでも病苦が和らいで遺憾のないようにしてあげて下さい」とお願いし、とうとう受け入れてくれました。

夜の七時に橋の下で会う約束をしましたが、三時間後姉と姉の夫がやっと現れました。姉が阿華に病気はどうかと聞くと、阿華は苦痛を訴え、今は流動食だけに頼っており栄養不良だと答えました。四十四歳の阿華はまるで六十を過ぎた年寄りです。ボランティアたちの勧めで姉は阿華をすぐに入院させ、一日中奔走した後に麗紅たちが家に帰ったのは夜遅くのことでした。

麗紅たちの勧めで、前妻と息子も見舞にきました。健康が回復したら真面目に仕事を探して社会や皆の恩に報いるのだと言いましたが、二○○四年六月半ばに亡くなりました。告別式の日、姉たちは麗紅たちに感謝して、「弟のことを知らせてくれてありがとうございました。貴方たちが熱心に弟に会うよう勧めてくれなかったら、弟の病気も死も知らず一生悔いて過ごしていくところでした」と。

麗紅たちの努力の甲斐があって、家族に囲まれて安らかにこの世を離れた阿華も満足だったことでしょう。

二十年来、無数の貧困者、病の人の世話をしている自分の性質は、お節介好きだと麗紅は言います。困難なケースにぶつかると専門家を訪ね、熱心に意見を聞いています。彼女は《法華経》の中の「一つの花は一つの世界、一つの葉は一人の如来」という一句が好きで、その背後にある生命の奥深さを感じました。

彼女が全身全霊でボランティア活動に投入できるのも、時には父のように力強く支えてくれる夫と二人の息子がいるからこそと、家族に感謝しています。

 

 
NO.231