慈濟傳播人文志業基金會
ズールー族ボランディア出国日記

土ぼこりを上げて走る車で、ダーバンのボランティアは愛と思いやりを広めにスワジランドに来た。

 

 

南アフリカ・ダーバンのズールー族の中年女性たちが外国で慈済の話をした。

彼女たちは四年間に十万キロを超える距離を移動し、各地で慈善活動を行ってきた。旅の間、さまざまな試練が待ち受けていても恐れず勇敢に乗り越えてきた。

限りある人生で愛のネットワークを織りなし、アフリカ大陸の貧困と病に喘ぐ人々を支えている。

彼女たちは南アフリカに芽生えた慈済の芽、黒い菩薩たちである。

 

【朝から晩まで怠らない】
国際グループが遠出する時、いつも日程がぎっしりつっている。早朝に「法の香りに浸る」時間を終えてから家庭訪問や現地のボランティアとの会合を行い、夕方に宿泊所に戻る。皆で手分けして水を汲み、食事の用意や居室の整理、洗濯をした後、翌日の日程について討論した。
 

【貧困者と病人に寄り添う】
独居で重病の人は自分で生活することができず、心優しい近所の人に日常の世話や清掃をしてもらっている。国際ボランティアが地域ボランティアに付きそう方法の一つとして、自ら世話の模範を示して患者との接し方を教えている。
 

 

二〇一五年十月半ば、広大なアフリカ南部で取材していた私はほとんど毎日、十四人乗りの「Tzuchi 3」(慈済三号)というナンバープレートのついたミニバンに乗っていた。南アフリカのズールー族ボランティアで結成された「国際ボランティアグループ」に加わり、彼女たちが国や州を超えて各地で炊き出しをしたり、貧困者や病人の家庭訪問をする軌跡を記録した。

ダーバンの国際ボランティアグループは二〇一二年に結成され、今までに四カ国で慈済志業を立ち上げた。国や州を超えて活動した回数は七十八回で、その移動距離は延べ十万キロ以上に達する。小グループに分かれて活動するが、毎年三百日を超えている。

彼女たちが遠出する時は必ず、「CHU」という材木工場から出発する。そこは華僑ボランティアの朱恒民と袁亜棋夫婦が経営する会社である。長老である「朱パパ」の了承の下に、団体はその事務所を使用させてもらっている。ボランティアの会議や文書の作成を行うほか、慈済の車もそこに駐車している。

亜棋は思い出す度に不思議な気持ちになる。「この小さな工場が広いアフリカ南部の慈済の活動に役立つとはね!」

 

第一歩 シルバーグループの出発

 

第四十二回目に国境を越えて行く先はスワジランドである。その朝、亜棋は資料や撮影器材及び交通費などをドライバーのタバニ・シビシに渡し、いくつか用件を言づけた後、「CHU」から出発する私たちを見送った。

彼女自身は家庭と仕事の関係でボランティアと一緒に出かけることはできないが、心はグループと共にあり、毎回ボランティアが遠出する時の支えであると共に、励ましたり良い方策を考えてくれる良き師、良き友でもあるのだ。

出発から三十分ほどして車はイシピンゴ地区のガソリンスタンドに立ち寄り、他のボランティアと待ち合わせた。そこは重要なバスの中継地で、辺りには店や市場、露天商がひしめき、車と人の往来が激しい。各地から来るボランティアの多くがバスでこの集合地点にやって来る。

まもなくグラディス・ンゲマとトロケレ・ムキゼ、アビゲール・セティウェ、ドゥドゥ・ンコボ、コンフィデンス・シャンジが次々に到着した。彼女たちは一人ひとり、初対面の私としっかり温かい抱擁を交わした。

中年のコンフィデンス以外は皆六十歳を超えており、政府から老人手当がもらえる歳である。中でも七十九歳のトロケレは最年長のボランティアだが、彼女はいつも、自分は十八歳だから、あちこちで慈済の活動に参加できるのだ、と言っていた。

亜棋によると、ある時、トロケレは体調が悪かったので出かけることを禁じられたことがある。「その時、彼女は私に『シスター亜棋、私は大丈夫です。心配しないでください。私は高齢なので残り時間が少なくなってきました。ですからもっと積極的に慈済の活動に参加しなければならないのです。行かせてください』と言いました」

彼女たちの黒い皮膚にも歳月に刻まれた皺が見て取れた。体つきは全般に丸く肥っており、少し歩くと呼吸が荒くなるが、慈済の志業を続けたい心は揺るがなかった。身体が不自由な人は米を担げなかったが、一袋でもよいという気持ちで布にくるんでゆっくり引っぱった。体力がない人は家庭訪問ができないので、決められた場所で愛を広める話をしてボランティアを募った。一人でも募ることができれば、それに超したことはない。

一九九四年に慈済がダーバンに連絡事務所を設立して以来、今では約五千人のボランティアが二百の地域に分布している。その中には国際ボランティアグループの人員が二十人ほどいる。彼らは皆経験豊富な上に有能で、辛いことにも耐えられる。亜棋は毎月、活動の内容によって、各ボランティアの状況を見た上で相談しながら担当者のリストを作っている。

楽が流れると歌ったり体を動かし出すので士気が高揚する。

 

第二歩 長い道程

 

その日は華僑と現地ボランティアの計十一人、そして、私とカメラマンで出かけることになり、荷物を車のトランクに入れてから乗りこんだ車内はぎゅうぎゅうづめだった。出入り口にプロジェクターとパソコンなどのお茶会に使う器材を置いたからだ。また、亜棋が前日に用意した食べ物と飲料水も積まれてあり、米も数袋、通路に置いてあった。

二〇一三年、ダーバンのグループは長距離に使用するためと座席も不足していたため、以前からあった「慈済六号」に加えて「慈済三号」を購入した。使用年数を伸ばすと共に安全確保のためにも、全ての座席にシートカバーをつけ、定期的に清掃と点検を行うようにした。

遠出する時、車は人と物資でいっぱいになり、タイヤは重圧を受けて悲鳴を上げ、砂利道を走ったり尖った物に当たったりすれば簡単にパンクした。

国境を越えて二千キロ離れたナミビアに出かける時だけは飛行機で行くが、その他は車である。

スワジランドへは六百キロで、台湾の南北の長さの一・五倍である。

そのスワジランドから再び国境を越えてモザンビークに行くには二百五十キロあり、台北から嘉義までの距離に相当する。

国境ではなく、ダーバンを出てクヮズル・ナタル省の中だけでも百五十の地域で世話しており、幅百五十キロ、長さ四百キロの面積は台湾一・七個分に相当する。

聞いただけで躊躇しそうな距離は慈済号の酷使を意味するだけでなく、ドライバーの注意力と若くないボランティアたちの精神力と体力に試練を課しているのだ。

台湾から来たボランティアの潘明水は今回、私たちに同行した。「国際ボランティアグループ」は彼が慈済南アフリカ支部の執行長をしていた時に立ち上げたものである。彼は現地ボランティアのおばさんたちと歳があまり変わらず、今でも頻繁に彼女たちと一緒にあちこちに出かけている。

近年、彼は目に見えて体力が衰え、長時間ボランティア活動に参加する時は腰にコルセットをつけなければならず、視力も衰えた。国際ボランティアには胃腸の不具合や高血圧、糖尿病、膝関節の老化などの慢性病を持つ人が多く、皆、いつも常備薬を携帯している。ある時、マリアは遠出した時に病気になり、十五時間も車の中で我慢していたが、目的地に着いてからダーバンにとって返し、病院に急行したことがある。

このグループの大変な苦労を聞いて、私は潘明水に聞いた。「どうして国際ボランティアグループを結成したのですか?」。すると彼は、「それは上人の祝福であり、弟子としては言われた通りに行動するだけです」と笑いながら簡潔に答えた。

トロケレは「アフリカにはまだまだ、心身共に辛い目に遭っている人がたくさんいることに師匠は心を痛めています。それゆえ私たちは国境を越えて愛と善の力を広め、私たちの生命を使ってより多くの人の人生に影響を与えなければならないのです」と意味深い説明をつけ加えた。

だから、初めは車の中で元気に歌っていたのがいつの間にか静かになったり、何度も眠ってしまい、また、空腹とトイレ、体中の疲れを交互に感じるほどの長距離ドライブであっても、文句を言う人はいない。

高血圧の持病を持っているトロケレは、慈済に参加していなかったら、こんなにも楽しく長生きしていなかっただろう、といつも言っている。
 

 

第三歩 大衆の中に分け入る

 

車が南アとスワジランドの国境に来た時、私たちは車を降りて検問所で入国手続きをした。この四年間、ボランティアはほとんど毎月ここを通っている。紺色のシャツに白いパンツ姿の規律正しい隊列はいつも人目を引いた。スワジランドに入るのは簡単ではなく、彼女たちは就労許可と車両の出国許可などの行政手続きを行うため、検問所でいつも二、三時間以上費やしている。

「国際ボランティアグループの人員は皆、人前で自分の経験を話したりできることが条件で、できなければ自分たちの地区で経験を積むのです」と潘明水がつけ加えた。以前はグラディスだけが善道に関して語ることができ、愛を広めるお茶会で講演していた。ほかのボランティアは真面目に慈済の活動に参加し、いっぱい体験はしているが、人前でしゃべるのが怖かったのだ。

「初めは励ますと共に半強制的に壇上でしゃべる機会を作って練習させたので、皆、次第に普通に人前でしゃべれるようになりました」。彼はボランティアたちに、大衆の中でしゃべれるようになって初めて愛と善を広めることができるのだ、と教えた。

ガソリンスタンドや公衆トイレの脇や休憩所の木の下、または道路脇など至る所で、暑い日差しの中でも雨や風の中でもボランティアは人を見かければ近寄って話しかける。相手はボランティアの話を聞いて、心から喜びと感動が生じて奉仕したいと望むようになる。貧しい病人が暮らす薄暗い住居を訪ねる時は、その隣近所も訪ね、一緒に世話をしようと誘う。

グループは以前、宿泊先に問題があって民宿に泊まらなければならなかった時があり、そこの従業員のグロリア・ザウラと知り合った。ボランティアが彼女の悩みを聞くと共に自分たちのことも話して聞かせたところ、彼女は感動し、その後のグループの宿泊に彼女は自宅を使ってほしいと申し出た。彼女はその地域での初めての慈済ボランティアとなり、家族や友人も誘って慈済に参加するようになった。

「メンバーは慈済の活動を行うためにビデオカメラやスチルカメラの使い方を学ぶと共に、毎晩、日誌を書いてボランティア活動の詳細と感想を記録しています」。アビゲールははにかみながらも自慢げに言った。

グラディスは国際グループの重要な幹部で、ほとんど家をあけている。子供や孫たちは物分かりがよく、彼女に心配をかけることはない。
 
 
 
アデレードは娘を亡くした悲しみは消えないが、心を正して時間とチャンスを無駄にせず、国際グループの活動に参加している。
 

 

第四歩 往路は遠い

 

八時間車に揺られた後、夕方にスワジランドのムヒラネの集会所に着いた時、現地ボランティアが列を成して入り口で歌で出迎えてくれた。その晩、ダーバンのボランティアは時間を無駄にせず、スワジランドの幹部とその後数日の日程を話し合った。

両国のボランティアは皆、英語とズールー語を使って話し合っていたが、正確に互いの考え方を伝達するために、双方の言葉に堪能で頭の回転が速いトゥトゥが同時通訳をした。

会議の進行を進めたスワジランドのボランティア、ムンシー・シメランは終始笑顔を絶やさず謙遜な態度で臨んだ。彼女は慈済に参加して三年ほどだが、二〇一五年に台湾で委員の認証を受けた三人のうちの一人である。

ムンシーは女手一つで二人の子供を育てた。スワジランドのボランティアは全般に貧困で、三食にも苦労しているので善行を考えたこともなかった。「以前、私たちはダーバンの師姐たちは皆金持ちで、それゆえに毎月、国境を越えてボランティアをしに来ていたのだと思っていました」と彼女が言った。ダーバンのボランティアがどのように苦労してきたかを聞いた時、彼女たちは心が落ち着き、自信を持って活動に参加することができるようになった。

グラディスは夫の浮気相手に火炎瓶を投げつけられて殺されそうになったが、幸いにも家が燃えただけで、彼女と子供たちは難を免れた。当時、全てをなくした彼女は生きていくのが恐ろしかった。

「慈済と出会った頃、私の心は憎しみがいっぱいで、相手に復讐してやろうと思っていました。しかし、ボランティアは私に過去の憎しみを忘れなさいと言いました」。彼女は台湾からの物資を受け取り、やがてボランティアと村人の間の通訳をするようになった。

アデレード・ンジャパも悪運に見舞われた。ある晩、彼女の家に強盗に押し入り、二人の甥が殺された。彼女も体に八発の銃弾を受け、危うく死ぬところだった。肉親を亡くした悲しみで、強盗に対する憎しみは長年消えることはなかった。

アデレードは後にボランティアとなり、家庭訪問して病人の体を洗ったり孤児にご飯を炊いたりしている。「私は上人の教えに従って大愛で自分の地域を愛することで、心の中にあった憎しみは次第に消えていきました」

一九九四年、南アフリカで政権交替した後、ダーバンの各地で政治闘争が始まり、人々は情緒が不安定になっていくつもの村が火をつけられ、一夜にして廃墟となった。トロケレが住んでいる地区も十数年前に勢力が二分されてから、二つの村は支持政党が異なるために関係を絶ち、互いに越境しようものなら武力沙汰になった。彼女の孫もそのような状況下で若くして死んだ。

トロケレは慈済ボランティアを自覚し、どうにかしてこの状況を変えられないのだろうか、と自問した。彼女は勇気を出して村のもう一人のボランティア、ミニ・ンコボを誘って隣の村へ和平のための対話を申し込んだ。酋長夫人であるミニが何回も誠実な態度で対話に臨んだ結果、次第に双方の緊張が解けてきた。今では国の政治環境も変化し、村同士の争いは少なくなった。

ミニ母子はシェアハウスのアパートの一部屋に住んでいる。せまい空間は一目で見渡せても、彼女が奉仕している愛と勇気は限りなく果てしない。

 

第五歩 独立と困難の克服

 

ここ数年、南アアフリカのボランティアはスワジランドでは、昼間に各地区に出かけている。お茶会と家庭訪問が基本であるが、現地ボランティアにつき添って冬季の配付活動やボランティア養成講座の準備をしたり、灌仏会や歳末祝福会の精神的な意味を教えたりした。また、異なった宗教を信仰する大衆からの疑問の声にも答えた。また、九回もスワジランドの日程を終えた後、モザンビークに行き、地域に深く根ざす方法を話し合った。

そこでは様々な所に宿泊した。木の下や車の中、現地の華僑が経営する南緯実業公司の宿舎と会議室、台湾技術団の宿舎、現地ボランティアの家などである。広い場所ではないので、同じ部屋が厨房や食堂または会議室に早変わりしたり、断水、停電、蚊に悩まされたこともある。

堅実に歩みを進めた結果、やっとスワジランドでは五十の居住地区に千五百人のボランティアが分散する規模にまで成長した。二〇一六年にはボランティア宿舎の集会所脇にある空き地に慈済地区センターを建設する。そこは彼女たちにとって次第に我家のような場所になりつつある。

潘明水は国際ボランティアグループに対して、「華僑ボランティアは皆一時的につき添うだけで、いつかはここを去ります。皆さんは自力更生して強くなることを学ばなければいけません」とはっきり言っている。

ある時、ダーバングループがスワジランドで宿泊していた時、その後数日間断水することが分った。ボランティアはダーバンの華僑ボランティアに電話して助けを請おうか否か躊躇したが、考え直して自分たちで解決することにした。

彼女たちはスワジランドボランティアに相談し、水を入れるタンクを数個借りてきて、車でボランティアの家に行って水を汲み、それを持ち帰って料理、清掃、洗面に使った。皆、節約しながら水を使った結果、難関を乗り越えることができた。

その時、メンバーは日誌に当時の心境をこう書いている。「遠出した私たちに対する皆の信頼と期待を裏切らないためにも、自分たちで困難を乗り越えることを学ばなければならない。そうして初めて他人の困難を克服する手助けができるのだ」

慈済のことをもっと遠くまで広めるために、ボランティアは人前で話することを怖がらないことや、正しくパソコンの操作ができるようになることを自分たちで訓練することで、チャンスを逃さず地域住民に善の種を蒔くようにしている。
アボランティアが率先して行った結果、スワジランドでは約50カ所の孤児への食事提供所で定期的に温かい食事を提供するようになった。
 
 
 

 

第六歩 心の導き

 

慈済号の車中はいつもにぎやかである。ダーバンのボランティアはズールー語で会話するので、舌を撥ねる音と語尾に重きを置く音、引き延ばす音などと共に、彼女たちの元気な声が響き渡り、私はいつも彼女たちが喧嘩しているのかと思ってしまう。

「時には本当に喧嘩しているのです」。ダーバンのボランティアとつき合って二十年近くになる潘明水は五割ほどは理解できると言っているが、多くの場合は分からないふりをしてボランティアたちの言動を見守り、適当な時期を見計らって注意している。

潘明水によると、ズールー族の性質は喧嘩や善意の嫉妬をしやすい上に誇り高く、一人ずつ個性が突出している。これらの性質のもう一面に彼は力を注いでいる。「彼女たちには栄誉感が強く、自己表現することを好み、行動力に富んでいます。正しい方向に導けば、良能を発揮してくれます」

国際ボランティアは国境を越えて行動するだけでなく、二年前から「本土に深く根ざす」ことも行っている。まず北部から始め、昨年は南部でも活動し、これまでに九回出かけている。

初めて南部に出かけた時、地理に詳しくない上にGPSを正確に使いこなせなかったため、道に迷い続け、目的地に着いたのは深夜で、予定の倍の時間がかかってしまった。

グラディスはその時のことを思い出し、「道に迷った時、皆がそれぞれこっちだ、あっちだと自分が思う方角を主張して譲らず、ついには口を利かなくなってしまいました。暗くなって方角を見失ってから、やっと怖くなり、後悔しました」と反省気味に言った。

グループの行程を心配し続けていた亜棋は、鑑真法師が仏法を伝授するため日本に渡航する時、五回も失敗したことや中国南部にも漂着した話をして聞かせた。そして、皆に努力して慈済を広めると共に、一人ひとりが悪癖に気をつけて心を正すよう注意を促した。

「現地ボランティアの心を正すように、と上人は私に言ったことがあります」。亜棋はそれを心に銘記し、国際グループが出かける時には特別に「法の香りに浸る」時間を設け、以前は大愛テレビの番組《人間菩提》を見せていたが、二〇一五年からは《靜思晨語》の勉強を始めた。彼女はボランティアのその時々の状況を見て勉強会の主題を選び、ビデオを見る過程で師匠と対話しているような感覚を持たせている。

勉強会では一言一言通訳して伝え、しっかりと解釈した後に討論する形式を取っているため、十五分のビデオを見るのに往々にして二時間近くかってしまう。しかし、彼女たちが法を求める気持ちは強く、心が静まったその時に智慧を汲み取り、日常生活に応用している。

ミニがダーバンの地域活動に参加した時、精神疾患のある人にナイフで斬りつけられたことがあるが、忍耐力で以て優しい態度で臨めば、危機的状況を変えることができると感想を述べた。

かつて憎しみ合っていた人々が寄り集まってできたダーバンのグループは、勉強会を経て次第に優しい言葉を使ったり、過去の出来事を例に挙げて意見の違いや暴力を抑えることができるようになった。

スワジランドのボランディアがダーバンのボランディアたちと意見を交わし、だんだん互いに心を通わせる。
 
 

 

出発

 

毎月、他国や他州に行く合間、または年末に華僑が台湾に帰る時期、国際グループは三、四日から一月までの休暇が取れる。ボランティアはこの時に少し息抜きができ、病院で持病の薬をもらったり家族との団欒でクリスマスを過ごすが、相変わらず自分の居住地区で慈善活動を続け、自ら慈済の活動に参加してきた経験を話して聞かせる人もいる。

亜棋によると、ダーバンのボランティアは以前は非常に時間にルーズで、「午前中まるまるかけて一つのことしかできなかったが、今では二つ、三つの仕事を片づけることができるようになりました」と話す。

時間を有効に使えるということは仕事の効率がよくなったことであると同時に、心の中に「時間がない」という気持ちができ、それが強くなっているからだろう。それは限りある生命の中で、善の種を蒔くチャンスを逃さず、愛のネットワークを織りなしてアフリカ大陸の貧困や病苦を受け止めるよう促しているのだ。

一年の始まり、国際グループは「時間がない」気持ちに急かされて、勢いよく飛び出す準備を始めた。

 

(慈済月刊五九0期より)

 

NO.231