慈濟傳播人文志業基金會
全てが愛
志業を推進する力は無形の心から来ています。
無私の奉仕精神は至上の宝物です。

模範

 
二〇一七年九月九日、證厳法師は医療業界からの来客との談話の中で次のように述べた。「慈済志業の推進パワーは静思法脈の精神と慈済宗門の方向から来ており、一般企業の運営方式とは異なります。慈済志業を推進する最大の力は一人ひとりが無私で奉仕している全世界の慈済ボランティアから来ており、その精神は至上の宝物です」
 
「慈済に大きな力があるというなら、それは無形の人の心から来たものであり、有形の金銭で計ることはできません。慈済ボランティアは寄付で護持するだけでなく、全身全霊で奉仕し、どれだけ奉仕しているかは気にしません。苦難に喘ぐ人が助けられれば、喜びに浸り、感謝します。慈済志業の全てが愛なのです」
 
證厳法師によると、静思精舎の常住衆は自力更生で生活しており、慈済の財務とは切り離されているが、慈済の後ろ盾となって全世界の慈済ボランティアが精舎に帰ってきた時の生活を支えている。世界のどこかで災害が起きた時、彼女らは率先してわずかな蓄えを寄付して災害支援の先頭に立っている。「精舎の常住衆は苦労に耐えながら真心で奉仕し、私欲は全くありません。彼女らは真の修行者であり、全ての慈済ボランティアの模範です」と言った。
 
法脈の中心は静思精舎であり、常住衆が精神の模範となって、全世界の慈済ボランティアに明確な方向と学ぶ目標を示している、と證厳法師は言っている。
 
文‧
 

精勤護淨(仏僧の供養を勤行する)

 
台中の慈済ボランティアが精舎に帰って、常住衆たちと寝食を共にした。厨房での食事の準備や野菜畑での仕事で、師匠たちの一挙手一投足全てが大自然に敬意を払い、誠意で以て人に対応しているのを見て、仏法に溢れた生活を体験した。
 
九月十日、證厳法師は台中の慈済ボランティアと談話した時、《地蔵経》を引用して、「僧衆のために食事を用意する時、敬虔な態度で敬い、僧衆が食事を終える前に米を洗った水や地面に放置され、捨てられた野菜などを整理するのです。仏や僧を供養する前に自分が食べてはいけません。これは誠意を精勤護淨という行いで表したものです」
 
同様に常住師匠たちが長年、同僚や精舎にやって来た人間菩薩たちに対して敬意を払ってきたため、行動の中に尊敬の心が現れており、「長時修、無間修、無餘修、尊重修」を達成させている。
 
精舎全体の生活を担当する時、常住衆は菩薩を供養する心で働き、常に敬う心を持っているため、煩悩が入り込む余地がない。ボランティアが常住衆と生活を共にすることは正に「生活禅」を修行しているのである、と證厳法師は言っている。また、證厳法師は「薪を担いだり水を運ぶのも禅です。野菜畑で雑草を取り除く時、自分の心の中の煩悩という雑草を取り除いていることに思い至ります。精舎でこういう体験をしたなら、それを家に持ち帰って実行しなさい」と念を押した。
 
「広く開かれた菩薩道は自他共に利します。道を切り開いて前進し、広く呼びかけると共に人々を伴って、後の人のために道を作るのです。その道はこの人生で作り終えられなくても、後に続く人たちが切り開いてくれます。また、私たちも『再びやって来て』、その道を切り開き続けます」
 
證厳法師は《法華経 見宝塔品》の中の多宝仏塔の話をし、塔の扉を開けて初めて多宝仏を目にすることができると言った。多宝仏は古仏で釈迦牟尼仏は現代仏である。そして、法を聞いている者と後世で仏に学ぶ者は全て未来仏である。「塔の扉は開かれており、自ら重責を担うことを願うべきです。私たちのような未来仏は道を切り開き、作って行く者であり、際限のない生の中で循環し、前を行く人が成仏するまで、私たちは菩薩道を歩み続け、次は私たちが成仏するのです」
 
「この数日間だけ精舎で精進するのではなく、帰ってから地域で慈済志業を推し進めることが道を切り開くことなのです。仏は既に進むべき方向を私たちに示しています。だから安心して前進すればいいのです」
(慈済月刊六一二期より)
NO.253