慈濟傳播人文志業基金會
海外開拓者は刊行物で 慈済を広めた(下)

南アフリカ

暗黒の大陸に善の苗

 
アフリカ大陸の慈済志業は黄丁霖と呉秋霞夫婦によって始められた。彼らは長い間、南アフリカで商売していたが、政治と情勢の混乱から逃れてイギリスに移住した。
 
黄丁霖は初め、南アフリカの工場を閉鎖するつもりだったが、上人は貧富の差があまりにも大きい故に問題が起きていることを指摘した。黄丁霖は還元すべきだと悟り、一九九二年、台湾人の友人と一緒にヨハネスブルグに慈済の連絡事務所を立ち上げ、呉国栄が責任者となった。
 
呉国栄は「慈済月刊」と「慈済道侶」に書いてあるように、台湾とアメリカの志業を見習って推し進め、二十数人のボランティアと共に華僑が入居する「康寧敬老院」の世話から始め、少しずつ他の施設に広げていった。
 
レディスミスに工場を持つ施鴻祺は、既に台湾の慈済委員だったが、彼も慈済の刊行物とボランティアの体験談を語った録音テープ「悟」と「渡」を元に慈済を紹介した。台湾から南アフリカに行く時、必ず六十キロ以上の出版物を持って行き、時にはコンテナに積んで送ることもあった。最高記録は彼と林天進の合計百三十キロだったが、重量を余りにも超過していたので、航空会社の主任が出て来て事情を聞いた。しかし、彼らが善行をしていることを知って、そのまま載せてくれた。
 
施鴻祺は飛行機を降りると工場に直行するが、時にはそのまま各地で慈済のお茶会を開くこともあった。その場合、自分の工場に帰るのは四、五日後であった。「あちこちで慈済の話をするので、私の会員は三千人になったこともあります」と言った。
 
●現地の志業に深く携わり、ボランティアの現地化を実現した。アフリカ南部の慈済ボランティアは着実に志業を推し進め、黒人の菩薩たちは樹の下で勉強会や討論会を開く。その行動全てに慈済人としての威厳が現れていた。
 
レディスミスの彼とヨハネスブルグの呉国栄、そして、ダーバンの張敏輝の三人は、三カ所で同時に会員やボランティアを募り、時には危険を冒して黒人居住区で物資の配付を行った。
 
「南アフリカでは貧富の差がとても大きいのです。飛行機から見下ろすとヨハネスブルグの町はとても美しく、豪奢なビルが立ち並び、家々にはプールが見えます。しかし、ひとたび郊外に行くと、全く異なった世界が広がっており、至る所ブリキ屋根の家なのです」。施鴻祺はこう説明した。「黒人は三つの石の上に鍋を置いて、トウモロコシの粉を煮て食べる生活をしています。一方、お金持ちは非常に贅沢な生活をしています。貧しい人は飢えをしのぐために盗みを働くのです」
 
南アフリカではほとんどの台湾人は強盗に遭っている。施鴻祺の工場では守衛が何者かに発砲されたが、幸いにも怪我はなかった。張敏輝の顔には銃弾がかすった傷跡がある。少しでもそれていたら命を落としていたかもしれない。しかし、施鴻祺はそれでも貧困救済を続けた。「彼らが強盗を働くのはあまりにも貧しいからです」
 
南アフリカは以前、白人が政権を握っていて、長い間、黒人は抑圧と差別の中で生き、資源の配分は不公平だった。一九九四年の選挙で黒人が政権を掌握したため、一部の白人は庇護を失い、失業するようになった。慈済の配付活動でも少なからぬ白人を見かけるようになった。
 
当時、施鴻祺は台湾からコンテナ二つ分の衣類を募って、約二万人の貧困者に寒さをしのぐための冬服を配付し、熱烈な反響を得た。翌年、彼は再び、台湾のボランティアと連絡を取り、十五コンテナ分の古着を募り、ダーバンとヨハネスブルグ、イーストロンドン、ポートエリザベス、ケープタウン、レディスミス及び隣国のスワジランドで配付した。
 
●貧しいアフリカ大陸の田舎で貧困者や病人の訪問ケアをする南アフリカのズール族ボランティア。
 
それと同時に慈済は蝋燭を灯して夜の祈福会を催し、肌の色が異なる人々が一堂に集まった。平和裏に過ごす場面は温かさを感じた。潘明水はその時に参加した。彼は元はダーバンのボランティア、莊美幸の英語の通訳で、ストリートチルドレンの世話を手伝っていた。彼は先住民集落で冬服の配付活動をするうちに、貧困者の苦しみを理解し、ズール族の女性たちのために裁縫クラスを開くことを思いついた。学んで得た技術で経済的に家庭の環境を改善するよう指導した。
 
やがて職業訓練クラスは五百カ所に増え、彼は女性たちに助けられる側から助ける側になるよう教えた。それと同時に彼女たちは五千人以上の孤児とエイズ患者をサポートするため、愛心野菜畑を百二十六カ所作った。それが縁でグラディスたち数多くの現地ボランティアが誕生した。その後、彼女たちは養成講座を経て慈済委員の認証を受け、慈済のアフリカでの現地化の基礎を築いた。
 

法随の伝承が乾いた大地を潤す

 
二〇一二年、各国合同董事会が花蓮の静思精舎で開かれた。上人は感慨深げに、「アフリカの人々が苦しんでいるのを思うと、いつもとても忍びなくなります」と言い、アフリカの慈済ボランティアにもっと開拓し、愛で以てもっと多くの貧しい人々を菩薩道に導くよう念を押した。
 
初めて執行長を引き受けることになった潘明水がその話を聞いて、南アフリカに帰った後、すぐに数人のズール族幹部ボランティアと共に国際ボランティアチームを結成して、国境を越えた活動を始めた。九カ月以内に彼らは九回出動し、スワジランドとモザンビークの田舎に行って愛を広めた。
 
大きな体をしたズール族の女性たちは、田舎道を歩いて貧困者や病人を訪れた。夜は随所で休息を摂り、朝になると出発した。それは苦行僧の行動に似ており、多くの村人が物珍しそうに集まって来た。一部の人は感動し、訪問ケアの隊列に加わった。
 
遠く台湾からモザンビークに嫁いだ蔡岱霖は、その年に台湾に帰った時、高雄のボランティア、楊銘欽から「慈済月刊」の傑出した文章を集約した『虹の上の宝石』という本を贈られた。彼女は注意深く南アフリカの慈済ボランティアの善行を読んだ後、潘明水に連絡して、慈済に参加したいと言った。潘明水はただちにダーバンの現地ボランティアを伴ってモザンビーク支援に向かった。
 
蔡岱霖は台湾に勉強に来たディノ・フォイと知り合って結婚し、二〇〇八年、二人はモザンビークに戻って定住した。彼らの生活には問題はなかったが、一歩外に出ると、うらぶれて汚く、貧しい光景が目に入った。彼女は夫を愛すると同時に民衆をも愛したが、どうやって支援したらいいのか分からなかった。
 
●慈済の活動はアフリカですでに7カ国に及んでいる。モザンビークのボランティア、蔡岱霖は現地ボランティアと共に貧困者や病人のケアをしているが、黒人ボランティアは「豊かな心」が物質的な富よりも嬉しいことを理解した。
 
南アフリカのボランティアの指導と訪問ケアの方法が分かると、蔡岱霖は大統領府から五キロ程の所にあるマシャキニ貧民地区でケア活動を始めた。訪問過程で様々な悲しみや苦しみを目の当たりにしたが、嬉しかったのは、慈済と出会ったことで考え方が変わり、ボランティアになる人が出てきたことである。
 
現地ボランティアが苦を気にせず、慈済志業を続けることに対して、蔡岱霖は慈しむと共に感服した。彼女が台湾に帰って上人にその話をした時、上人は、「それが『行経』というものです」と慈悲深く開示した。彼女は深く考えず、「どうしてこんなに多くの人が苦しんでいるのでしょうか?」と言った。「心の富を持って帰るのです。外見上の苦相に囚われてはいけません」と上人は彼女を励ました。
 
蔡岱霖はやっと理解した。「まず、心の無明と苦を取り除いてこそ、法の喜びと変化に気づくのです」。その時から彼女は、現地ボランティアは貧しくても心は裕福であり、それは有形の富をたくさん所有するよりも重要であることを悟った。
 
ジンバブエの朱金財やレソトの陳美娟、南アフリカの鄭愛堡など皆、善による導きの下に互いに励まし合い、アフリカの田舎で積極的に慈済志業を行っている。彼らは千キロも離れたボツワナやナミビアにまで出かけて善の念を伝承し、現地ボランティアの養成を行うことで、乾いた大地に新たな種を芽生えさせている。
 

北米

最も誠実な手土産

 
北米大陸は慈済が最も早く芽生えた所で、一九八〇年、黄思遠と李静念の夫婦が北カリフォルニアで志業を展開し、やがてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ヒューストン、ニューヨークなどに広がって行った。一九八九年、ロサンゼルスにアメリカ支部ができ、黄思賢が初代の責任者となった。
 
「二十八年前、人に慈済を説明しても、誰も分かってくれませんでした。何かの商売だと思う人もいました」と黄思賢が言った。「慈済」という名前が広まっていなかった頃、ボランティアがアメリカに戻る時はいつも、できる限りの慈済の刊行物を持って帰るか、空輸して、人々への説明に役立てていた。
 
商売しか興味がなかった黄思賢は、事業が一割で慈済が九割にまでなり、アタッシェケースに入っていた商品カタログに「慈済月刊」が取って代わった。初期の頃、月刊誌は法を伝授する参考書のようなもので、いつも持っていれば、どこに行っても紹介することができ、ビジネスでも旅行でもいつでも紹介できるのだ、と彼が言った。「この雑誌には人物、出来事、上人の開示による理と法が載っており、慈済を紹介するのにとても役に立ちました」
 
ニュージャージー州に住む陳林玉娥は一九九二年の感謝祭で友人と会食していた時、誰かが「慈済」のことを話していたのを聞いた。彼女は台湾で寄付したことがあり、故郷に帰ったような気がした。その時から熱心に募金活動を始め、ボランティアを募集し始めた。
 
初め、立て続けに寄付を断られたため、彼女は修行が足りないと分かった。そこで、毎週、ニューヨーク支部に車で通って勉強し、「慈済月刊」を持ち帰り、読み終わると他の人に回して、慈済を伝った。
 
二年後、彼女は黄思賢、李静誼と一緒に台湾に帰った時、上人の行脚のお供をした。どこかの支部に着く度に、彼女は上人がどうやって随時、人の迷いを解いているのかを観察するうち、心から崇敬の念を抱いた。アメリカに戻った後、彼女は訪問ケアから始め、「苦を見て福を知る」ことと「富者を説いて貧しきを救う」ことを体得し続けた。
 
カナダの何国慶は台湾で慈済に参加し、移住した後、最初に募金の対象として台湾企業家の夫人たちを選んだ。当初、妻と一人の慈青(慈済の学生ボランティア)と共に月刊誌を携えて訪問したが、「流しがあちこちで歌って回る」ような状況だった、と彼は笑った。
 
これらエリート移民は上人が教える「還元して初めて人から尊重される」という言葉に賛同した。彼らは精一杯、志業を展開し、現地社会と接点を持った。カナダでは慈済ボランティアはサルベーションアーミーと協力してフードバンクに資金援助し、現地のボランティアとして弱者を支援した。
 
そして、「慈済月刊」から各国の人文を模倣した。ボランティアが笑顔と喜びで以て奉仕し、配付する時は深々と九十度のお辞儀をし、相手が奉仕のチャンスを与えてくれたことに対して謙虚に感謝することで、白人は尊厳を持って華僑から支援を受けられるようになった。
 
以前、新移民は現地人から重視されることがなかったが、「私たちは善意と智慧を使って困難を乗り越えました」と何国慶は言う。それが今ではカナダの慈済ボランティアは政府公認の新移民の模範になっている、と言った。
 
アメリカ慈済ボランティアも極力、慈済志業が国際社会で認められるよう努力してきた。二〇〇一年のアメリカ同時多発テロの時、慈済は数少ない支援を認められた救済団体の一つであった。その後、ハリケーンカトリーナとサンディによる災害で、アメリカ国民は慈済に対する印象を深めた。二〇〇八年から毎年、国連婦人の地位委員会(CSW)から参加を招聘され、シンボジウムにも参加している。
 
このほか、中南米やシエラレオネなど国際支援の重責を担った結果、各地でボランティアが出現した。
 
●ハイチはハリケーンに続いて地震に襲われ、人民は困窮していた。アメリカ慈済ボランティアは何度も災害支援に訪れ、物資の配付や学校の支援建設、病院で負傷者の見舞いなどを行い、彼らに温かさを届けてきた。
 
ハイチ女性のスダイフィーは慈済が支援建設したサンオン修道女会の「主イエス秘書学校」を卒業した。そこの卒業生は社会に出ると、給料は往々にして一般の四倍がもらえる。しかし、彼女は慈済が地震の後、学校の再建を支援し、また、二〇〇四年のハリケーンで被害を受けた時、慈済から救済物資を受け取っているため、ハイチ慈済に就職し、慈善の推進を手伝うことを決意した。
 
現在、黄思賢は全世界慈済ボランティア総監督を務め、各地で支部の活動を指導し、ボランティアの成長に付き添っている。彼は各国の災害支援は互いに影響し合って成り立っているが、「慈済月刊」も重要な役割を果たしていることに気づいた。
 
●西アフリカのシエラレオネはアメリカ慈済が支援する国の一つである。エボラ熱は大きな被害をもたらしたが、感染が終息に向かうと、ボランティアは米の配付を行うと共に、現地の慈善団体と協力して支援とケアを続けた。
 
二〇〇四年のインド洋大津波を例にとれば、慈済はスリランカで大愛村の建設を計画した時、ボランティアは月刊誌を持って政府の役人に慈済が過去に建設した大愛村の報道を説明するのに役立った。ミャンマーでサイクロンナージスによる災害が起きた時も、マレーシアの慈済ボランティアが災害支援に訪れることに成功したのは、月刊誌で多くの国で支援して来た記録を説明したからである。役人は中国語が分らなかったが、写真で理解することができた。
 

文章の合間に師弟の寄り添った心が見えた

 
「慈済月刊」は五十周年を迎えた際、初期に海外に移住した慈済ボランティアは経験豊富な開拓者になった。最初、彼らが慈済志業を推し進めようとしても人材もお金もなく、あるのは信念と紹介に使う「慈済月刊」だけで、誠意で以て上人の理念を伝え、大衆に参加を呼びかけた。
 
「自力更生、現地で賄う」は上人が海外の弟子に求めた精神である。現地では互いに助け合い、台湾の本部に依存しないようになったが、見知らぬ環境では用心深く事業を進めた。歩んで来た道は全て、茨の道だったが、振り返ると霞は消え、鈴なりの実だけがそこにあった。
 
開拓者の信心と成長の養分は法随精神と慧命の糧から来ており、挫折しそうになった時の原動力でもあった。正に新生児のように、成長してからも目に見えないへその緒が母親と繋がっているのである。
 
「外国では上人のそばにいることはできなくても、書籍やテレビ、ネットなどのメディアを通して、その気さえあれば、師匠に近づくことができるのです」と黄思賢が言った。上人が教えてくれるのは方向であり、弟子は自分の「三宝」を開発しなければならない。行動する中で「事」と「理」を実証し、それを各種メディアを通して呼びかけて、人々を悟りに導くのである。師匠のそばにいなくても、その心に追随することができるのだ、と彼は説明した。
 
NO.253