夜になっても、慈済テキサス支部の集会所には灯りがともっていた。ボランティア達は救援活動報告の整理や被災状況の調査と救援物資の配付などの準備に追われていた。黄済温は目を細めて皆に早く寝るよう声をかけた。その晩、彼は再び支部に泊まり、翌朝いつもと同じように笑顔で皆によく休めたかと聞いた。
ハリケーン・ハービーはヒューストンに大きな被害をもたらした。被災地にある慈済テキサス支部は、支援活動を統括した。七十三歳の黄済温は毎日、配付活動の調整や支援物資の調達など、刻々と変化する状況にも、「辛い」と言わずに「幸せだ」と表現した。「補給部隊総司令官」を自称する黄済恩は、一カ月余りにわたる災害支援活動の任務について、自分の気持ちを語った。
八月下旬、ハリケーン・ハービーがテキサス州を直撃することを天気予報で知った。上陸地点は州都ヒューストンではなかったが、ハリケーンがもたらした雨量は、たったの数日間でヒューストンの平均年間雨量の半分に達した。
テキサス州南部は地形が平坦であるため、下水道は長時間の大雨を処理することは不可能で、災害が発生することが予測された。ボランティアは緊急救難センターの基本的な準備に取りかかった。嵐が去った後、慈済ボランティアが忙しくなることは心得ていた。
嵐の前の静けさ
八月二十五日、ハリケーン・ハービーはテキサス州ロックポートに上陸したが、ヒューストンでは午後六時から七時になっても雨風がなかったので、支部で待機していたボランティアと私はもう大丈夫だろうと思い、各自家に帰った。
夜の九時過ぎから大雨が降り始め、約十時間降り続いた。翌日、車庫を開けると、道はすでに二、三インチ冠水していて、車を出すことができなかった。我が家の裏にある湖の水位は今まで見たことがないほど高かった。テレビの報道で、地形の低い地域に住んでいる住民に避難勧告が出ていて、地域によって床上浸水していたことを知ったが、家に足止めされたまま、ボランティアと電話で連絡を取ることしかできなかった。
慈済テキサス支部の建物は、救済センターとなることを考慮し、浸水しないよう地面から三、四インチ高く設計されている。被災後三日目、私は水に浸かりながら家を出て、家族に何とか支部まで送ってもらった。
 |
●慈済はハリケーン・ハービーの被害を受けたポートアーサーの被災者に現金カードを配付した。救援活動が滞りなく終了し、黄済恩(右から2人目)ら幹部は、各地から支援に駆けつけた慈済ボランティアに感謝の言葉を述べた。(撮影/呉怡萱) |
證厳法師はボランティアの安否を気にかけ、支部に寝泊まりしていた私達と連絡を取って安否を気遣った。七世帯の建物が損壊し、二十数戸が雨漏りした。雨脚があまりにも強かったため、煙突から屋内に進水した家もあったが、幸いに全員無事だった。
浸水が下がったらすぐ動けるように、私達はそれまでの時間を利用して救済計画を立て始めた。九月一日、緊急救済指揮本部を立ち上げ、二十二人からなる救援チームを結成した。ボランティア達は支部に集まり、支援要請の受け付けと被害状況の視察に取りかかった。
全ての愛が功を奏する
ハリケーンはテキサス州ビクトリアに上陸した後、見物でもしているように時速三、四キロの遅い速度で移動したのち、同じ経路で海に戻って行った。海上で水気を一杯吸いながらヒューストン港沖から東に経路を取り、ポート・アーサーに再上陸して豪雨をもたらした。一週間後、いくつかの地区がヒューストンと同様にひどく浸水した。
ハリケーンは二回上陸し、四百キロ以上の範囲を横切った。被災者の数が多かったため、私達は重度災害地区、低所得者層を重点的に支援した。今回の支援物資の配付対象は一万世帯を超えたが、同じように「直接に、重点的に、感謝の気持ちで」の原則で、「尊重、愛」の態度で行った。
「慈悲には智慧を要する」という證厳法師の短いお言葉を、私達は常に思い出して、全てのお金を最も有効に活用できるように努めた。貴重なお金を無駄に使って、寄付した人達の善意を踏みにじってはいけない。
ヒューストンの浄宗学会など多くの宗教団体や民間団体は、慈済が募金を全て救済に使い、各地からのボランティアは皆自腹を切って支援に来ているのを知っている。だから、災害が起きた時、真っ先に支援金を寄付する先として、慈済が選ばれる。
 |
●ハリケーン・ハービーによって大きな被害が出た上陸地点のロック・ポートで、現金カードなどの物資を配付した。互いに感謝の気持ちで抱き合う被災者と慈済ボランティア。(撮影・葉晉宏) |
ある善意の人は、会社の名義で募金した上に、自分自身も同額の寄付をした。マレーシア、タイ、中国、台湾など十九の会社から募金が寄せられ、その人自身の愛を見た時、私は感謝の気持ちで胸が一杯になり、涙ぐんだ。
アメリカ全土とカナダからボランティアが駆けつけ、千世帯や二千世帯への配付活動を何度も行った。現金カードを配付し、被済者を思いやり、彼らの話に耳を傾け、慰めた。ベトナム系の若者と、スペイン語が流暢な住民が物資配付を手伝ってくれた。彼らは自分たちがしたことを誇りに思った。
今回の支援活動が最も特別なものになったのは、「静思堂を有効活用するように」という證厳法師の指示があったからだ。私達は支部の近所に住むさまざまな人種の被災者に合わせて、小規模の配付活動を何度も行った。活動の中で見られた慈済の文化が人々を感動させ、多くの人が涙を流し、ボランティアになることを誓った。
誰もが千手観音
慈済ボランティアになって二十七年になるが、この半年が一番プレッシャーを感じた期間であり、一番多く仕事をした時期でもあった。
ハリケーンが来襲する前の四カ月間、私達は中国の身体障害者の芸術団が演じる「千手観音」のチャリィティコンサートの準備に追われていた。本来なら普段、慈善事業のために行う募金活動だったが、その前に災害が起きるとは誰も予想しなかった。
證厳法師は私達に、今は人助けの方が大事だと開示し、私達は何をするべきかよく理解した。入場券を買った人達に代金の払い戻しができることを伝え、そのお金を寄付することを提案した。一緒に千手観音となって人助けができると知って、人々は心よく代金を寄付した。
 |
●ハリケーン・ハービーが去った後、ビューモント市内の損壊した住宅から出された家具やゴミがうずたかく積まれていた。(撮影/黄友彬) |
災害支援の仕事は複雑で、絶えず状況が変化し、とても忙しかったが、喜びを感じ、どんな挫折でも堪えられた。支援を受けた被災者の笑顔を見ると、本当に今までやってきてよかったと思う。そして、忙しい時こそ、心が乱れてはいけないことも悟った。
配付活動の期間中、十四歳の孫と妻が支部に手伝いに来た。私が焦って大声を出しているのを聞いて、孫は「普段のお祖父さんと違うね」と妻に言った。私はそれを聞いてすぐ彼に謝り、指摘してくれたことに礼を言った。
慈済は修行道場で、私はやるべきことをやるだけである。私の修行が足りず、期待された仕事ができなかったら、證厳法師に申し訳が立たないと思い、不安だった。これだけの人力や物資、資金を使って、本来すべきことができなかったら、人々に対して申し訳ないと心配したのだ。だから、私は精一杯与えられた使命を遂行した。戦場にたとえれば、私は他の人が十分に戦力を発揮できるように支援する「補給部隊の総司令官」であると、自分の役割を決めていた。
この歳になって、私にこのような使命を与えてくださった證厳法師に心から感謝している。皆が言うように、私は今ヒューストンで一番幸せな男である。
|