慈濟傳播人文志業基金會
メキシコの野村賢
毎年、
何千何万もの慈済人が
ただ心の故郷に帰する為に
諸々の困難を克服して
渡り鳥のように帰ってくる。
 
 
「私は十四歳の時、将来は慈済の一員として、異国の地で善の種子になりたいと立願しました。その道のりは決して楽ではなく、責任の重い遠い道であることは分かっていましたが、自分は必ずこの立願を果たせると堅く信じていました」。
多くの世界遺産を擁し、スペイン植民地時代の面影が残るメキシコは、治安が悪いことで世界にその名を知られている。野村賢さんは縁があって歴史の教師としてメキシコの国際学校に赴任した。「家路」を指し示すコンパスの針が野村さんを導いたのは、苦難に喘ぐ人々を忍びなく思う心からだった。
 
二〇一七年九月、メキシコをマグニチュード七・一の強震が襲った。当時メキシコで教鞭を取っていた野村さんは直ちに慈済に支援を要請した。間も無く彼の所に慈済から返事があり、メキシコまで震災の視察に来ることを了承してくれた。そして、同年の十二月から支援活動が展開されることになった。彼は休暇をとってメキシコシティに飛び、慈済ボランティアと合流して災害支援に投入した。
 
彼は通訳兼ボディーガードで、慈済ボランティアが行く先々には必ず彼の姿が見られた。そして瓦礫と化した街々で、スペイン語、中国語、英語の通訳をして、ボランティアとメキシコ人の橋渡し役となった。「私はやっと人生の目標を見出しました。慈済の四大志業を受け継ぐ為にメキシコに残る決心を固めることが出来ました」と彼は嬉しそうに言った。そしてもっと多くの善の種子が大愛の隊列に加わるよう導く任務を自分に期待した。  

学んだ事は必ず役に立つ

日本人の父親を持つ野村さんは台湾で生まれた。父親の転勤の為に幼児の頃に両親についてマレーシアに移り住んだ。一人っ子で早く大人になりたかった野村さんは、いろいろなものに興味を示す意欲的な子で、母親は彼のヒロインと言える存在だった。彼女は異国で生んだやんちゃ坊主を育てるだけでなく、見捨てられた動物を助けていた。
 
野村さんは動物虐待防止協会(SPCA)のボランティアをしていた母親の背中を見て育った。彼女は忍耐強く野良犬の体を洗って蚤を取ったり、毛並みを整えたりした。マレーシアに滞在した二十年近くの間に、母親が世話して新しい飼い主を見つけた野良犬と野良猫は数百匹にも上った。
 
彼はまた、母親がマレーシアの視覚障害者の為に仏教の物語を録音しているのを見ていた。どんなに忙しくても、毎週必ずチェラス地区の孤児院に行って孤児の面倒を見る母親の背中から慈悲と無私の奉仕を学んだ。
 
小学校になると日曜日は慈済のリサイクル活動に参加し、少し大きくなってからは母親について慈善家庭訪問に行った。中学校の時、三泊四日のサンマーキャンプに参加する為に台湾に帰った。そのキャンプが彼にとって人生の転機となった。
 
当時十四歳だった彼は、初めて水不足、飢餓、親孝行、国際災害支援などの問題に触れた。彼はその時初めて、自分にも世界を救う責任があることに気付いた。まだ年齢は若かったが、慈済に人生を捧げることを確信した年だった。
 
定年退職したエンジニアの父親は、どこまでも彼の後ろ盾になった。母親が彼をアメリカに留学させようとした時も、父親は無条件で経済援助をした。典型的なアジア系の親として、息子が将来の人生に備えられるようにと彼らは出来る限り教育に力を注いだ。
 
十八年間、住んだマレーシアを離れ、彼はアメリカのミネソタ州立大学に進学した。国際教育を専攻し、歴史の教師になることを目指した。卒業後は社会研究教師の免許を取得した。これで卒業後はどの国でも教員として赴任できることになった。
 
彼がミネソタ州に着いた時、そこにまだ慈済はなかった。彼は慈済家庭に育ち、大学でただ一人の慈青(慈済の青年ボランティア)となった。国際結婚家庭に生まれて多様な文化の洗練を受けた自分を、幸運児だと思っている。特に中国語を母国語として成長した彼は、「上人の著作が読めることは、私の人生で最大の幸せです」と言う。
 
二〇〇九年から二〇一二年まで、大学生だった彼は毎年花蓮で行われていた世界慈青キャンプ(世界中の青年メンバーが参加する修身キャンプ)に参加し、数カ国語が堪能な彼はそこで通訳をした。慈青キャンプでの講座は、多くが国内外の志業の責任者たちによる経験談の共有で、菩薩道に向かう青年たちの堅い志を励ました。そのような養成の日々は、彼が菩薩道を歩む信念を堅くさせた。
 
野村さんは中国語、日本語、英語とスペイン語に精通しているが、それは「才能」というよりも両親の「堅持」から来たものと言える。子供の頃の野村さんは日本語が最も得意だった。アメリカ留学の関係で英語力がつき、慈済の洗礼もあって中国語も非常に上達した。スペイン語は以前の選択科目であまり力を入れていなかったが、メキシコに教員として赴任してからは会話だけでなく読み書きまで上達したため、それが災害支援で力を発揮したのである。
 
「あなたがマルチ・リンガルで、世界を駆けめぐれるのは、きっと前世で世界を舞台に何か大仕事をしたのですよ」と母親は彼に言った。母親は野村さんに語学という特技を活かして天下の衆生の為に尽力と貢献をするようにと励ました。
 
慈少(慈済の少年メンバー)時代から野村さんは将来異国で慈済の種子になると発願していたが、彼は自分の信仰に疑いを持ったことはない。決して楽な道のりではなく、むしろ遠くて重い任務だと知りながらも、立願は必ず叶うと固く信じていた。彼の語学力とリーダーシープとしての才能は自分の利益を追求する為ではなく、必然的に他人の為に使われるのだと信じていた。
 
●野村賢さん(左から2人目)はメキシコ・ソチミルコの火災現場に行き、被災者に支援物資を配付した。(撮影・Amelia Cornelis Manuel)

幸せな彼岸へと導く役目

大学卒業後、彼は両親の勧めで、兵役を終えるために台湾に戻った。一年間、空軍に配属されたが、駐屯地は自宅のある台北近くだった。兵役に勤務しながら、基隆で慈済ボランティアになる養成講座に参加した。慈青だったことから、一年目の養成講座は免除され、直接二年目の講座から入った。
 
彼は上手く予定を立てて、いつも軍の休暇を利用して講座に参加したため、兵役が終わる頃には講座も終えた。證厳法師の手から認証を授かり、法師に改めて「三十歳になる前に、私は行ったことのない国に出かけ、異邦で慈済が根付く種子になります」と誓った。
 
法師は野村さんを祝福し、「肩の荷は重くなり始めましたか?リーダーになる前に、誠正信実 な人になりなさい」と彼を励ました。その瞬間、彼は慈済が自分の使命であると一層強く確信した。
㊟:「誠」とは真、「正」とは公正、「信」とは自信、「実」とは正直を表す慈済の基本精神。
 
慈済人として認証を授かってから、野村さんは再び旅に出た。専攻が「国際教育」だったため、世界中の多くの学校に応募した。最終的に、彼はメキシコ・ドゥランゴ州の学校と最初の仕事の契約を結び、教師と世界を探求する夢の旅が始まった。
 
メキシコに赴任した最初の三年間、彼は辺鄙なドゥランゴに住んでいた。三年目の時、彼はカナダから来たマーニー・アンダーソンという女性と出会った。二人一緒に慈済の道を歩むようになり、彼女はメキシコにおける国際施療の後方部隊の仕事をした。彼とマーニーは別の国で教師の仕事を探すつもりだったが、思っているほど簡単ではなく、最終的にはメキシコの別の町モンテレイに移り住んだ。
 
二〇一七年九月十九日、メキシコシティと南部地方でマグネチュード七・一の強震が発生した。野村さんとマーニーは災害支援の主力チームに参加し、被災者に購買用プリペイドカードを配付する手伝いをした。メキシコシティで行われた活動は一日の内に何千何万もの心を感動させた。メキシコ国歌を斉唱した時、野村さんの目に涙が溢れた。過去三年間、月曜日には必ず学生が斉唱する国歌を聴いていたが、何故か彼は慈済の活動現場でそれを聴くと涙が止まらなくなった。
 
自分は既に三年間、即ち千日以上もメキシコに住んでいることに気づいた。その間、数え切れない程メキシコ人の助けを受けていたが、ボランティアによる恩返しはその僅か何万分の一に過ぎず、それに幾ら努力して学生を教えても、一年でせいぜい百人の学生にしか影響を及ぼすことはできない。それではつりあわない。「長期間メキシコに留まって慈済の志業を行ってこそ、法師の教えを広め、メキシコ人を幸せにすることができるのだ」と彼は涙を流しながら自分に言い聞かせた。
 
「あなたが心から発願すれば、その願力は天に届き、願いが叶うのです!」とあるボランティアが野村賢に言った。自分が歩んできた様々な因縁を思い返すと、母親の先見の明に感服せずにはいられなかった。野村さんは中国語での作文があまり得意でなかったが、母親は彼に練習を続けさせた。又、十六歳の時、高校の選択項目で全く繋がりのないスペイン語を選んだことや、どうしてメキシコ以外の国で仕事を探さなかったのかなど、その全ては自分が大きな使命を担うための巡り合わせなのだと信じている。
 
メキシコで初めて慈済チームを設立した時、彼は現地で唯一認証を受けた男性ボランティアだった。ある時会議で「慈済の育てる大きな種」に選ばれ、自分が学んだボランティア養成コースや国際災害支援に参加した経験について皆と分かち合った。自分が数年前に法師に発心立願した誓いの言葉を遂に実現できたのだと感じた。
 
もっと効率的に志業を広げる為、彼はマーニーとメキシコの首都に教職を見つけ、慈済の活動会場の近くに引っ越した。二〇一九年八月までに、彼らはメキシコシテイとモレロス州で行われた国際施療に七回参加し、現地に居住するバイリンガルの学生に現場での通訳に参加するよう呼び掛けた。その中の多くは彼の教え子だった。
 
野村さんはカンボジアの慈済ボランティア・林佳宏(リン・ジアホン)さんをとても尊敬している。「私はカンボジアに残り、カンボジア人を済度します。最後の一人が苦しみから逃れ、幸せを得られるまで頑張ります」と林さんは発願していた。
 
自分は十四歳の時に法師の教えを広める為に将来、慈済ボランティアになると発願した。三十歳を前にしてその誓いを叶えることができたことを野村さんは幸せに思った。慈済は彼の変わらぬ信仰である。異郷の最後の一人が幸せな彼岸に渡るまでメキシコに留まることができるよう願っている。
(慈済道侶叢書『回家』 より)
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