慈濟傳播人文志業基金會
人生を価値のあるものにする
 
自分が意思決定できる間に、人間(じんかん)で人々に福をもたらすべきです。生命は有限であるため、価値のある人生にするのです。

無用のものを大いに価値あるものにする

台湾駐在の中国のメディア記者十七人が七月二十日と二十一日、花蓮にある志業体を訪問しました。二十一日は精舎を訪れ、参観した後、上人と会見しました。それから清修士の思一師兄(スーイースーシォン)が、廃棄物から樹WPRC(木材・プラスチック再生複合材)とインターロッキングブロックを開発した過程を報告しました。
 
それを聞いて上人も言葉を添えました。これらWPRCとインターロッキングブロックの原材料は、壊れて捨てられた日用品です。ボロ切れのような回収されないものを開発して頑丈なWPRCとインターロッキングブロックを作ったのです。即ち物に新しい生命を吹き込み、無用のものが大いに価値あるものになったのです。
 
この世に不変のものはなく、全ては「成住壞空(じょうじゅうえくう)」の自然法則に則っています。人は不老長寿でいることはできませんが、寿命の長短に関わらず、限りある生命を活用して価値のある人生を生きられるのです。「有用な人生にこそ価値がありますが、どうやって有用にするかです。方向にずれがなく、成すことが人間(じんかん)に正しく貢献していれば、それは価値のある人生だと言えます」。
㊟‥四劫という仏教で説く世界観のこと。宇宙において、この目で見ることのできる物質なら必ずこの四つの過程を経るという万物の道理。
 
記者たちは、前日に花蓮に着くと先ず慈済大学を参観し、大捨堂を訪れて慈済の献体について学びました。上人によれば、多くの「無言の良師」は慈済人や慈済の会員です。生前は志業に尽くし、善行して人助けをする人間菩薩の道を歩み、息を引き取った後は無用の肉体を慈済大学に寄贈して、学生や臨床医師たちに人体の構造と生命の神秘を探求してもらうことで、無用のものを大いに役立てているのです。
 
人生は無常であり、人にはそれぞれの業と因縁があるのですが、多くの遺体先生は若い人か、壮年で病気になって亡くなった人たちです。家族や友人にとっては悲しいことですが、医療チームが懸命に治療しても命を存えることができない場合、息を引き取ってしまえば、それまでです。
 
「どこが私たちの帰る家なのでしょうか?私たちの体は魂の家です。縁が尽きた時、時間切れでその家を離れていきます。慈済人はこの道理を知っているので、あっさりしており、亡骸を医療教育に奉仕します。しかし、慈済大学はその発心立願した『無言の良師』の『霊魂』を安らかにすると共に、その願いを叶えた家族の『心』も安らかにする責任があるのです」。
 
「修行とは福と慧の双方を修めることです。福を修めるということは、自分の体に対して意思決定できる間に人間(じんかん)に福をもたらすことであり、福の恩恵は自然に訪れます。それをしなければ、善の種を植えることができず、善の恩恵を受けることはできません。慈済人は奉仕に見返りを求めないため、人生の最期には心が安らかになり、魂は自在に離れていきます。人間(じんかん)に執着せず、彼岸に渡る時は、善行して福を造り、慈済に投入し、菩薩道を歩んできた意識を残したまま、縁に従って去っていきます。将来も直ぐに善の因縁の続きとして菩薩道を歩むことでしょう」と上人は述べました。
 
新型コロナウイルスの影響で、交通が制限され、多くの人が故郷を離れたまま帰れなくなり、やるせなさと不安を抱えています。上人はこう言いました。
 
「心を静めれば、どこに居てもそこを自分の居場所にすることができます。人は地球上で生活しており、民族、宗教、国籍の違いを問わず、互いに尊重し合って大切にすべきで、どこに住むこともできるのです。もし誰もがこのような考えを持つことができれば、人を愛し、助け、互いに交流し合うことで、対立は起こらなくなります」。
 
また、「平安であることは即ち福であり、人間(じんかん)が平安であるためには、人心が穏やかで、互いに分け隔てなく、愛と支援を施してこそ、人間(じんかん)は浄土になるのです。外の環境が汚染され、乱れている故、今まで以上に心を静める必要があります。良い言葉を口にし、善行し、人同士が和気藹々と協力し合って善行を成せば、この世は和やかで平安になるでしょう」と言いました。

環境保全で福と慧を同時に修める

台中の慈済人は、巧芸坊のボランティアが、回収した織物を再利用して作った、精巧で美しい生活用品を持ち帰った。(7月21日)
 
台中第一地区の慈済人は、リサイクルボランティアを伴って、慈済環境保全三十周年行事に参加するために精舎に帰りました。持参したのはアイデアを生かして開発したボイスコントロールのLED電灯で、上人が点灯しました。台中の慈済人とボランティアはオンラインで花蓮本部と繋がり、台中静思堂や東大園区(台中の志業センター)で上人と視聴会議を行うと共に、開示を聞きました。
 
上人は皆がリサイクルセンターで修行していることを賞賛し、腰をかがめて回収物を拾うのは恭しい心で仏を礼拝(らいはい)しているようだと称えました。回収物を拾ってセンターで分別整理することは福を修めていることなのです。環境保全の仕事は福と慧の双方を修めていることになり、慧命は日増しに成長していくのです。
 
「リサイクルボランティアは大地を守っていますが、民衆の声にも応じています。例えば、電話で回収物を取りに来て欲しいと言われれば、先ず行ってみてできるだけ回収に応じるよう心掛けています。物を大切にし、汚れも悪臭も厭わず、仔細に分別すると共に、非常に清潔に整理します。これこそが忍辱の修行なのです。薬王菩薩が過去世でまだ一切眾生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)だった頃、いつも人々のしたがらない、この世にとても有益な善行をしていました。皆さんも、もう一つの過去世の姿である常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のように、大地の資源を尊重して大切にし、廃棄物を回収して整理し、無用のものを役に立つものにしてください」。
 
上人は皆に励ましを与えました。
「ひとりは微々たる力と思ってはいけません。発心し、心して行えば、小さな蟻でも須彌山を登りつめることができるものです。絶えず大衆に環境保全を呼びかけ、日常生活の中に根付かせるために、一緒にリサイクルセンターで分別するよう誘うのです。呼びかけに呼応し、参加する人が増えれば増えるほど、力は大きくなり、もっと多くの人に影響を与えて、地球を守ることができるのです」。
(慈済月刊六四六期より)
NO.287