慈濟傳播人文志業基金會
目で観察し、心で聞く
上人の法語:
先ず慈悲を学んでこそ、
智慧を発揮することができる。
智慧が有れば、
機会のある時に
教えることができる。
 
面接で受験生たちが積極的に感想を述べているのを、私は静かに耳に傾けて聞いていた。しかし、私が発表する前に、試験官は試験を終了してしまった!思いもよらず、「何も発言しなかった」私が採用された…。
 
育った環境のせいか、私は子供の頃から自立していて、自分で宿題や自習をし、両親に心配をかけたことはない。大人になって自分で職を選ぶ時にも、両親に相談しようとは考えもしなかった。一人暮らしをすることも、簡単な家の修理も大体自分でできた。
 
そのため、他人に頼ることもなく、歯に衣を着せず言う癖がある。以前、職場で、「何でもできます」と人に言うのではなく、「小鳥のように頼れば、異性にもてるよ」、とよく女性の友人に言われた。しかし、私にはそれがわざとらしく思え、そういうことができなかった。
 
そのように主観的な性格だから、役割を替えて、他人の立場になって考えることができないので、自分には愛の心はなく、逆に「冷淡」でさえあり、他人事は自分とは関係なく、自分のことが一番になってしまうのだ。
 
仏法を習い始めてから、「慈悲」という二文字をよく耳にするが、どうすれば良いのか分からない。しかし、観世音菩薩が世の人々の祈りを聞いてこの世に現れるイメージは、いつも心の片隅にあり、それが温かく感じられる。
 
慈悲は学ばなければならない。個性の強い私は、一九九六年十月に慈済が中国で行った災害支援活動に参加し、「無縁大慈、同体大悲(縁のない人にも慈悲心を掛け、自分のことのように悲しむ)」ことを体得した。修行とは簡単なことで、即ち慈悲心である。一度感動しても、絶えず励んで実践し、心の中に「慈悲」を根付かせ、身をもって示すのである。
 
ここ数年来の体得で、慈悲と思いやりは切り離すことができないと感じるようになった。思いやりとは慈悲心の表れであり、相手に尊重され理解されていることを感じてもらうのである。
 
以前、慈済香港支部で働いていた時、近くに大学があって、その学校のウェブサイトをよく閲覧していた。その後、社会福祉学専門の夜間講座に申し込むことにした。何か学べば支部の仕事に役立ち、自分のスキルも強化できるだろうと思った。
 
面接の当日、十数人の受験者がいた。試験官は皆に自己紹介させた後、大きな輪になって座らせ、問題を一つ出して、私たちに討論させた。受験者には男性も女性もいて、皆、積極的に発言し、自分の意見を述べていたが、私は大勢の人の前で話すのが苦手だったので、ずっと静かに耳を傾けていた。
 
十分後、試験官は突然、皆の討論を中断し、試験の終了を告げた。突然だったのでみんなが意見を述べる時間がなく、発言させてもらえなかったことで、試験官は終了時間を予告すべきだと大きく不満を募らせた人もいた。試験官は、発言する時間は自分で把握すべきであり、試験は終了したのだと言った。もちろん私も一言も発する機会はなく、採用されるとは思わず、気に止めなかった。
 
発表の日、私は合格通知を受け取ったのだ。予想外だったのと、試験官が「沈黙の受験生」を採用したのはなぜだろう?と考えたが、それは「思いやりは耳を傾けることが大切だ」からではないかと思った。ソーシャルワーカーを目指す人は、耳を傾けることを知らなければならない。
 
話すことが苦手という欠点は思いも寄らず、今回の面接で最大のメリットとなったのだ。結果として、経済的な理由でその講座を受けることはできなかったが、とても良い経験と反省になった。
 
證厳法師はかつて、他人に自分の話を聞いてもらうのも一種の欲だと言ったことがある。確かにそうかもしれない。人はいつも周りの人が自分の思い通りになり、話を聞いてくれることを期待する。異なった意見が出てくると、我慢できずに自分の意見を主張したがる。それは平和的な討論から、摩擦や口論につながる。なぜなら相手を言い負かそうとするため、筋を通しながらも言い張るようになるからだ。心の明月が次第に雲に覆われ、暗闇の中で方向を見失ってしまうように。
 
かつて「物語を語って、コミュニケーションを学ぶ」というワークショップに参加したことがあるが、そこで「コミュニケーションの基盤は思いやりにある」という言葉が出てきた。修行には慈悲心が必要であり、慈悲には思いやりが必要である。人と接する時、目で観察し、心で聞き、心から他人の痛みを思いやり、清らかな智慧をもって苦しみを幸福に変えるよう、自分に言い聞かせている。他人の苦しみを取り除いて安楽を与える行動や話に耳を傾ける態度は、互いの心を近づけることができるのである。
(慈済月刊六四六期より)
NO.290