慈濟傳播人文志業基金會
教育の方針が見つかった
二十年余り前、子どもたちの教育のためにカナダに移住した。
初めはプレッシャーのない学習環境を与えたいという考えからだったが、
思いも寄らず、現実は東洋と西洋の文化のギャップの中で、
私は「教育ママ」になり、かえって子離れできなくなってしまったのだ。
 
数カ月前、大愛テレビで放映された「楽しかった我が家」という連続ドラマを思い出していた。それは私の中学時代のクラスメートである冷莉萍(ロン・リーピン)さん一家の物語だった。
 
ドラマの時代背景は、正に私の子どもの頃を再現していた。冷さんの家で豆乳を飲んだかどうかは覚えていないが、通りの曲がり角にあった豆乳屋のことは覚えている。夏の朝、母と一緒に植物園で運動した後に必ず立ち寄って、そこで朝食をとった。店内に満ちた濃厚な豆乳の匂い、それは記憶の中の母の匂いでもある。また、南昌街のそば屋も覚えている。牯嶺街の古本屋にこもって「三国志」を読みふけり、行天宮で線香を手に、「収驚」(注1)を待っていたことをぼんやりと覚えている。
(注1)収驚‥神仏に祈る、厄払いの一つ。
 
子供の頃、私は実に自由な日々を過ごしていた。母は日々大家族の家事に忙しかった。学校へ上がる前は、母が外出すると私たちも遊びに出かけていた。食事の時間に忘れずに帰えればよかったのだ。その時代の母親たちは皆同じで、家族のために励み、倹約家だった。字は読めなかったが、自分なりの方法で私たちを教育した。観て来た台湾オペラのストーリーから忠孝と節義などを子どもに教えた。私の算数は母に見習って「標会」(注2)の利息を計算して学び始めた。両親は私たちの勉強を見ることはできなかったが、私はまったく気にしなかった。なぜなら、両親はすでに模範を示してくれたからだ。
(注2)標会‥金銭の融資を目的とする相互扶助の会。「無尽講」または「頼母子講」ともいう。
 
昔、台湾の生活環境は単純で、子供たちは親の苦労を理解していた。そうした時代の背景が私たちの世代を憂いの多い環境の中でも強く生かし、親は模範を示して、私たちを苦労に耐え、頑張ることができる人間に育てくれた。「足るを知って楽しい人生を送り、忍び難きを耐えれば、心安らぐ」という家訓は、子どもの頃から居間の壁に掛けられていたが、私にとって生涯にわたって努力し続ける座右の銘でもある。
 
●2004年、張素雯さんと子どもたちがカナダ東部を旅行した時の写真。

英語と中国語のどちらを先に学ぶべきか

 時が経ち、経済の高度成長を経験し、時代は次の世代に移ったが、少子化で、子どもは親の細心の保護の下で成長している。初めカナダに移住したのも、子供が比較的プレッシャーの少ない環境で成長することを望んだからだ。しかし、移住してから、子供の教育で教養に関する本ばかりを読んでいたことに気づいた。
 
「子どもをスタートラインから負けさせてはならない」という言葉には同感である。私が子どもの頃に育成した忍耐力を次世代の教育に使う時、いわゆる教育ママとなり、子どもの教育に固執してしまうだろう。E世代の子どもたちは、英語や西洋の自主学習の環境で成長しながら、一方で素晴らしい伝統的な中国の文化も認めてくれるのか、私にとって大きな挑戦だった。海外に移住した全ての親は子どもに対して同じような期待を持っていると思う。
 
中国語が全くできず、中国の歴史についても理解していない移民二世をたくさん見てきた。それは最初、子どもたちをトロントに連れてきた私の目的とはかけ離れたものである。子どもを尊重し、独創的な考えを重んじる西洋の教育方針は確かに好きだが、彼らが成長するにつれ、親との間に文化的なギャップが生じることも知っている。子供たちがそれらを忘れないように、台湾から小学校の教科書一式を持参した。ところが、子どもが小学校に入学すると、今度は英語が第二言語のままであることを心配し、慌てて英語の家庭教師をつけた。一体、中国語を先に覚えるのが大事なのか、英語が先なのか。
 
中国と西洋は文化が違うため、私は子どもの学習について、あれこれ考え、方向が定まらなかった。子どもがトロント慈済人文学校に入って初めて静思語に出会った時、やっと大海原で流木を見つけたように、子どもの教育に希望の光が見えた。本当は、中国語と英語のどっちを教えるにしても、一番大事なのは人格教育であると、昔、親が教えてくれたことを思い出した。

親も学ぶ

「良い言葉を口にし、善良な心で、善行しよう」という短い静思語。慈済人文学校の先生の解説によれば、難しいことではない。私は子どもの連絡帳にサインする際、自分の行動が完全でなく、日常生活で実践することが静思語を学ぶ究極の目的であることに気づいた。
 
慈済人文学校の先生の熱心な誘いで、私は学校で生徒の世話をする「愛心ママ」ボランティアになり、先生がどうやって静思語を教えているのかを目で見ることができたことに感謝している。私は静思語を一字一句理解して感化され、静思語教育に投入することになった。
 
ストーリーを話す時、私は自分の体験を例にするのが好きだ。物資が欠乏していた時代で、六人兄弟が家に一台しかない自転車に交代で乗っていた話をした時、子どもたちに「共有」とは何か、を教えた。「楽しいと感じるのは、何かをたくさん持っているからではなく、争うことが少ないからです」。
 
静思語は、私と保護者たちの架け橋にもなった。ある日、女子生徒の瑩(イン)ちゃんのお父さんが助けを求めてきた。瑩ちゃんは教会から帰ってくると、父親に、「天の父こそが父親であり、お父さんは父親ではない」と言った。ちょうど学校で「太陽の光の如く、親の恩は大きい」という静思語を教えていたので、私は瑩ちゃんに、「天の父は、子どもが多すぎて、面倒を見ることができないから、地球の子どもに一人ずつ父親を与えて子どもの世話をするのよ。だから目の前のお父さんは空の太陽と同じように偉いのですよ!」と説明した。瑩ちゃんは納得したようで、笑顔で「パパ」と呼んだ。
 
●2008年、トロント慈済人文学校で静思語作文コンテストが行われた。当時教頭だった張素雯さん(右1人目)が賞状を授与した。息子の丘祖豪さん(右4人目)がクラスメートと共に賞状を受け取った。

子どものQ&A

 證厳法師の智慧のたまものである静思語と慈済人文は、教える時のインスピレーションを与え続けてくれる。それをわが家の子どもに引用すれば、もっと役に立つ。
 
以前、家訓を胸にカナダに移住した後も、私は勤勉で倹約な生活をしていた。こどもは成長が早いので、なるべく隣近所からのお下がりをもらったりして節約した。娘が思春期に入って、外見を気にするようになると、あまり古着を着たがらなくなった。ある日、娘が、「ママ、うちは貧乏なの?どうして私たちはいつも人のお下がりを着ているの?」と尋ねてきた。
 
その時、子どもたちは慈済人文学校に通って既に五年が経ち、多くの静思語を勉強した。「あなたはどう思う?」と私が娘に聞き返すと、彼女は、暫く考えてから、「日常生活で足りないものもないし、定期的に寄付もできるのだから、貧乏ではないわよね!」と答えた。丁度その頃、人文学校ではこういう静思語を学んでいた。「ゴミが黄金になり、黄金が愛に変わり、愛が清流となって世界を巡る」。「それじゃ、大きくなって着られなくなった服はどうするの?ゴミとして捨てるの?」と娘に聞いた。娘は、頭を傾けて考えてから、にっこりと笑った。自分で答えを見つけたようだ。

わが家にもある楽しい時間

昔、物資が欠乏していた時代は自分の努力次第だった。教育は将来の人生を変えることができる力を持っていた。
 
時代は古い世代からE世代に進化したが、しかし、西洋教育から得た成果は、すでに私が描いた風景とは別のものになっていた。情報過多で、3C製品が溢れたこの時代には、子どもを教育する親の役割が衰退しているように見える。しかし、教育には依然としてその力があり、静思語が正にその力の源として、少しずつ日常生活の中で知らず知らずのうちに累積しているのである。私は慈済の志業に投入して身を以て善行を行い、子どもの手本になることを期待している。また、家では静思語を使って、子どもたちとコミュニケーションを取り、成長を見守っている。このように静思語をわが家の家風にしていることを、何年か経って回顧した時に、「わが家にも楽しい時間があった」と思い出すものと信じている。
(慈済月刊六四七期より)
NO.294