慈濟傳播人文志業基金會
余生を送るための給油所
慈済大林病院軽安居
 
住み慣れた家で余生を送りたい――それが多くの高齢者の願いだ。しかし、医療が必要な時や家庭で一時的に十分な介護ができない時もある。慈済大林病院軽安居のような入居型介護施設では、高齢者が生活機能を回復し、「地域で老い、自宅で余生を」という理想を実現できるよう支援している。開所から二年、利用者の帰宅率は六割を超え、心温まる「旅の宿」となっているが、終の住み処ではない。
 
天気のいい日、慈済大林病院軽安居の入居者たちは、職員の付き添いの下、大愛農場でいちごの収穫をしていた。
 
三月になって、ふさぎ込んだ冷たい冬が過ぎ、空気全体に春の息吹が満ち溢れ、そのぬくもりに人々の頬もほころぶ。車椅子の高齢の黄さんは、嘉義県にある慈済大林病院での診察がてら、孫に付き添われて、軽安居まで足を伸ばして仲間を訪ねた。
 
「久しぶり!最近はどうだい?」以前は起居を共にしていたルームメイトの顔を見て、黄さんは嬉しそうに笑った。
 
「変わりないよ!みんな元気さ。そっちは?」
 
コロナで「面会禁止」となっているため、車椅子の二人はガラス戸越しに互いの近況を尋ね合った。去年五月に台湾の感染状況が悪化してからは、「ガラス戸越し面会」の光景がしばしば見られるようになった。
 
久々に再会した仲間たちは旧交を温め合い、マスクをしていても下がった目尻からは隠せない喜びが溢れていた。
 
エレベーターを降りると楽しげな面会の光景が目に飛び込んできた。軽安居開設の責任者である慈済大林病院看護部の廖慧燕(リャオ・フエイイェン)副主任は、その光景に目を細めつつ、家族に対して「お願いがあって、このところ朝晩冷えるから、おじいちゃんの首元を冷やさないようにしてね。小さい襟巻きでも巻いてあげると冷えないから」などと、介護のコツを伝えるのも忘れない。
 
半年前、黄さんは軽安居を出て家に戻った。ここは嘉義県で今のところ唯一認可を受けた施設である。また、医療法人に付随した入居型介護施設としては台湾初である。ここでは「地域で老い、自宅で余生を」を目標に、栄養管理とリハビリ、そして漢方医療と西洋医療などを組み合わせて、高齢者の健康を促進し、生活機能を回復させ、利用者が帰宅できるよう努力している。
 
軽安居の一角。利用者は何でも自分でやることを学ぶ。食事や積み木で、各自忙しい。しかし、手招きさえすれば、すぐスタッフがサポートに来る。

引き算の介護で機能回復

二〇一九年末に開設され、翌年二月末から入居者の受け入れが始まった軽安居は、慈済大林病院感恩楼の七階から九階にある。ガラスの扉を開けて軽安居に入ると、目の前のミーティングルームのドアはぴったりと閉じられていた。ドアの前に立つと中からかすかに話し声が聞こえた。家族と話し合いをしているらしい。
 
軽安居看護師長の郭如娟(グオ・ルージュエン)さんによると、利用者が入居する際には、巡回の医師、ソーシャルワーカー、介護職員、看護師からなるケアチームと家族との話し合いが行われる。ここで、ケアプランや帰宅後の介護リソースの評価などを含んだ介護方針を話し合い、短期、中期、長期の介護目標を決める。このようにして双方が共通認識を持った上で、入居手続に入るのだという。
 
軽安居では引き算の介護を原則として行うことで、「機能回復」を目指している。可能な限り活動力を維持するために、食事の盛り付けや洗濯物干しといった身の回りのことを、利用者が全て自分でやることになっている。
 
廖さんはこんな例を挙げた。一日中エアコンが効いた施設内にいて汗をかかないため、以前、着替えて洗濯したいと思わないのか、何日も同じ服を着たままの利用者が多かった。洗濯機がコイン式で、お金を払わなければ使えないことに思い当たったスタッフたちは、発想を大転換して、プリペイドカードを発給して利用してもらう奨励方式を採った。毎月の利用料から二百元(約八百円)を洗濯基金として拠出し、プリペイドカードとして利用者に渡すことで、利用者が自分で洗濯機を操作して洗濯するよう促したのだ。残高の繰り越しはできず、期限が過ぎればゼロになるため、倹約家の高齢者たちは次々とこまめに服を洗うようになったのだという。
 
 
老年医学科主任の張舜欽医師は、隔週で軽安居に巡回診療に来る。時々持ってきた受話器型の補聴器を耳の遠いお年寄りの耳元に近づけて(写真右)、辛抱強く会話をする。
 
ここでは、身の回りのことをできるだけ自分でするよう奨励することで介護者への依存度を下げ、自立した上で帰宅につなげたいのだと、郭さんは強調する。軽安居は政府が推進する「長期介護計画2・0」政策の下に、在宅介護の高齢者ケアネットワークを構成している。
 
「軽安居が目指すのは、温もりのある『湯治宿』であり、終の住み処ではありません」。二〇二〇年二月に慈済大林病院軽安居で入居者の受け入れを開始して以来、帰宅率は六割を超えている。
 
とはいえ実際は、本人が最期まで家で暮らしたいと思っていても、子どもたちが年老いた親に一人暮らしや老老介護をさせておくのを不安に感じている。そのため、「家族から自宅で適切に介護ができないとはっきり説明してもらえれば、軽安居では利用者が施設での新生活になじめるよう支援を強化します」と郭さんも率直に認める。しかし、それでも適応できないお年寄りはいるそうだ。
 
ある七十代のおじいさんは以前、奥さんと二人暮らしだった。朝食を終えると杖をついて散歩に出かけ、昼になると家に戻って奥さんの作った昼食を食べていた。時には午後、一休みした後、またぶらぶらと散歩に出かけるか、居間でテレビを見たり新聞を読んだりしていた。平凡だが心地よい毎日だった。だが、親孝行の子どもたちは、母親が歩行器を使っていて、不自由な体で家事をしなければならないことを心配した。また、高齢の両親が転倒したり、何か起きた時、遠方で働く子どもたちは傍で介護するのも難しい。そこで、二人を軽安居に入れることにした。
 
子どもたちは、施設なら生活の世話もしてもらえるし、夫婦がお互いに助け合えるので、心配はないだろうと考えていた。ところが、自由な暮らしに慣れた父親は、「体の養生に来たはずなのに、いつまで経っても子どもたちが迎えに来ない」といぶかったのだ。昨年末に入所してから一カ月と経たないうちに、家に帰りたくてたまらなくなり、毎日のようにナースステーションに通い詰め、いつ「退院」できるのか教えてくれと職員に頭を下げるのだった。母親の方は施設暮らしを楽しんでいたのだが、職員たちは何度も検討した結果、やはり家族に父親の意向を伝えることにした。
 
スタッフと家族、老夫婦が何度も話し合った結果、娘と同居すること、但し娘が近々手術をして療養が必要なため、帰宅するのは三カ月後ということで意見がまとまった。子どもたちから「保証」をもらって安心したのか、父親もしばらく軽安居で暮らすことに納得したという。
 
郭さんはこう強調する。
「軽安居は家族の強い後ろ盾になると同時に、利用者にも『捨てられた』と感じることなく安心して入居してもらえる施設でありたいと考えています。そのため、入居前には必ずじっくり家族と話し合い、目標を共有します。双方の期待にずれがあると、互いに違う行動を取ってしまうからです」。
 
午後の陽光がきらめく。ソーシャルワーカーの荘宛蛍さん(中央)は、数人の利用者を引率して、軽安居が設置した大愛農場で収穫を見て回る。これは活動量を増やすことにもなる。

家族を支えるレスパイトケア

「エイジング・イン・プレイス(住み慣れたところで老いる)」は、政府が二〇一七年から推進している「長期介護十カ年計画2・0」に掲げられた高齢者政策の目標であり、多くの国における潮流でもある。さまざまな調査からも、高齢者の多くが住み慣れた環境と地域で晩年を過ごしたいと考えていることが明らかになっている。
 
その一方で、内政部の統計によれば、台湾は二〇一八年に高齢社会に突入し、平均世帯人数は二・七人となっている。介護を必要とする家庭の多くには、介護に割ける人手がなく、家族内の特定の一人に介護の負担がのしかかっており、長期になると心身ともに「介護疲れ」に陥る家族も多い。
 
そこで、政府は家族の負担を軽減するため、二〇一九年から「長期介護2・0」の適用を滞在型介護施設に拡大すると共に、「施設におけるレスパイトケア(介護者が休めるサービス)」等への補助を盛り込んだ。
 
嘉義県は台湾で最も老年人口指数が高い県である。高齢者の多くは老年症候群で、脳卒中や転倒をきっかけに要介護となりやすい。そのため、慈済大林病院では軽安居を開設し、計一五〇床のうち、現在約一二〇床が埋まっている。入居申請は満四十五歳から可能だ。七階の「長期ケア」と八階の「安養(あんにょう)ケア」に分かれており、九階は今後認知症の高齢者を受け入れる計画である。「長期ケア」では、主に要介護の人や経鼻胃管や気管カニューレ、尿道カテーテル等のチューブ類を着けた看護が必要な人である。「安養ケア」では、主に半健康状態かつ自立した生活ができる人を受け入れている。
 
また、慈済病院で緊急手術した後、チューブ管理や開放性損傷の傷あとのケアが必要であるが、家族が定期的な薬の交換や、リハビリの付き添い、機能回復活動の補助などが難しい場合、或は外国人ヘルパーを申請中で一時的に介護者を必要とする人なども受け入れているという。このような場合は主に二、三カ月の短期間の入居となっており、施設が退院から帰宅までの橋渡しを担っている。
 
入居型介護施設は部屋のタイプによって料金が異なる。政府の長期介護2・0政策に従い、慈済大林病院軽安居ではレスパイトケアも行っている。家族は、要介護度に応じて年に十四日から二十一日分の費用補助が受けられる。
 
「Thank you for helping me become better than better!」
 
流暢な英語でケアスタッフへの感謝を述べたのは、去年軽安居で六十歳の誕生日を祝ったジュディ先生だ。以前は高校の英語教師をしていたが、数年前に脳卒中で倒れてからは、大学教授の夫が毎朝彼女を地区のデイケアセンターに送り、夕方迎えに行っていた。仲のよい夫婦とはいえ、長期介護のストレスに夫はだいぶ参っていた。そこで、長期介護2・0が提供する「レスパイトケア」を利用して、ジュディ先生は軽安居に入居することになった。
 
愛情深い夫は毎日のように彼女の顔を見に来た。コロナが流行してからは、毎日ビデオ通話をするほか、いつも日用品や果物、彼女の好きなスイーツなどを持って来ては、職員を介して妻に届けた。郭さんはこう話す。
 
「ジュディ先生は施設の生活にすっかり馴染んで、よく他の利用者と一緒に廊下で運動したり、職員に英語を教えたりしていました。みんなが言葉に詰まった時に、『教師に戻って』、励ましたり、どう言えばいいのかアドバイスしたりしてくれるので、八階のスタッフは英会話がずいぶん上手になった気がすると言っています」。
 

看護師(中央)が、利用者の健康状態を記録しながら、実習に来た専門学校生に注意点を伝えていた。

高齢化は時代の趨勢 第二の家

隔週水曜日の午後は、慈済大林病院老年医学科主任の張舜欽(ツァン・シュンチン)先生が、軽安居に来て巡回診療する日だ。午後二時、交流ホールの椅子は利用者で埋まり、並んで先生の「指導」を待っていた。張先生はいつも受話器型の補聴器を身に着け、耳が遠いお年寄りを気遣って、それをお年寄りの耳元に近づけ、ゆっくり話したり、音量を上げたりする。診察が終わるころには声が枯れることもあるが、嫌な顔一つしない。そんな医師の姿に廖さんは感動している。
 
軽安居の入居者の約六割は慈済大林病院からの紹介で、その多くは以前から大林病院に通っている患者である。施設が病院内にあるからこそ、家族も安心してお年寄りを預けているのだと廖さんは言う。
 
高齢者は「子ども返り」することがある。ある女性は入居前、いつも決まって家庭医学科の孔睦寰(コン・ムーホワン)医師に診察してもらっていた。家族によれば「病院に通いやすくなるからとみんなに丸め込まれて、おばあちゃんも喜んで入所してくれた」のだそうだ。郭さんは、「言うことを聞いてくれない時は、孔先生が言ったんですと言えば何でも受け入れてくれます。孔先生にも、彼女は先生のファンなんですよと言いました」と笑った。
 
軽安居をぐるりと見渡すと、落ち着いた柔らかな色調とぬくもりのある暖色の照明がアットホームな雰囲気を作り出している。ここでは、それぞれの階を里(台湾の行政区分の一つ)になぞらえ、入居者を「里民(里の住民)」と呼ぶ。
 
廖さんの説明によると、寝たきりの方が中心の七階は、完璧な(善美を尽くした)介護が受けられるようにとの願いを込め、「美善里」と名付けられている。また、八階の「大喜里」は自分の身の回りのことができる人が毎日楽しく「喜び」の中で暮らせるように、九階の「無憂里」は将来、認知症の高齢者が何の「憂いもなく」暮らせるようにという願いが込められているのだという。
 
「家族から手紙や荷物が届く時、宛先に『軽安居大喜里』と書いてあることがあって、ほっこりします。ここはお年寄りの第二の家のようなものなのです」。多くの高齢者がここで家族のように絆を深めている。
 
長年慢性腎臓病を患っている九十二歳の劉さんは、軽安居で二年暮らした後、腎臓透析をやめることにした。家に帰りたいという母親の願いを叶えるため、帰宅した後は、子どもたちが交代で仕事を休んで、介護に当たった。亡くなる間際に劉さんは、軽安居に連れて行ってほしいと子どもたちに頼んだ。
 
「ここを家だと思っているから、ここの兄弟姉妹にお別れを言いたかったのです」。
 
その日はみんながホールに集まり、お茶を飲みながら、一緒に暮らしていた頃の楽しい思い出話に花を咲かせたという。その二日ほど後に、彼女は自宅で穏やかに旅立った。郭看護師長は寂しかった反面、「彼女の願いを叶えることができてよかった」と話す。
 
「私たちは、最期まで自宅で過ごしたいという高齢者の希望を叶えたいと心から願っていますが、一方で、少子化や家族構成の変化により、在宅介護の負担は益々重くなっています。施設介護はどうしても必要です」。張医師は、高齢化が避けられない以上、「私たちが高齢者になる前にできることは、何とかして自分の健康寿命を延ばし、寝たきりの時間を減らすことだ」と考えている。
 
軽安居は終の住み処ではない。介護する家族が休息の時間を持ち、高齢者本人が生活能力を維持して健康に「自宅で最期を迎える」ための、「旅の宿」なのだ。
(慈済月刊六六六期より)
 
NO.307