慈濟傳播人文志業基金會
故郷に勝る場所はない
マレーシアでの生活はどうかと言われれば、
「少なくとも安全」としか言えない。
マレーシアは自由だが、空気の匂いがミャンマーとは違う。
いつになっても、故郷に勝る場所はない。
 
二○一七年一月二十二日、私はミャンマーを離れた。密航業者の手配で、弟と同郷の人と共に真っ暗闇の中、木造の小船に乗った。船には百四十五人いたが、皆運命を天に任せていた。
 
「どうしてマレーシアに来たのですか」と聞かれれば、ロヒンギャなら誰でもこう答えるだろう。「生き残るためです」。私たちが故郷で迫害を受けてきたことは、誰でも知っている。元気な若者や学歴のある人たちは皆、武装勢力に狙われた。軍人は好きな時に発砲し、殴ることができた。私たちの生活はいつも恐怖と隣り合わせで、一瞬も命の保証はなかったのだ。
 
子の命が危険にさらされるのを望む親がどこにいるだろう。両親は私と弟にすぐ逃げるよう言った。財産を売り払い、貯金をはたいて密航業者に二万八千リンギット(約八十万円)を支払った。それで私たちは無事に船に乗ることができた。
 
ただ、お金が足りなかったので、両親と姉は費用の安いバングラデシュの難民キャンプに逃れるしかなかった。一か八かの賭けだった。私たちには何も残されていなかった。

選択は正しかったのか?

船に乗る前は、生き残るためにはマレーシアに逃れるしかなく、入国さえできれば助かるのだとばかり思っていた。しかし、船に乗った瞬間、自分の思い違いに気づいた。船には何もなかったのだ。人が生きるための最低限の物さえなく、ましてや安全対策など皆無だった。船のエンジンは二十馬力しかなく、定員オーバーの状態で、ただ大海原に漂っていた。雨でも降れば、船ごと海底に飲み込まれそうになるのを感じていた。思い返してみると、生死を分けたのは、意志の力を別とすれば、神のご加護と言うよりほかに考えられない。
 
計画では七日以内にタイに到着し、そこから徒歩でマレーシアに入るはずだった。だから、私たちは七日分の食糧しか持って来ていなかったのだ。ところが、タイでは上陸が許可されなかった。ああ、どうすればいいのだろう。それから何日もの間、私たちは海を漂い続けた。食糧はなくなり、力尽きて亡くなる人もいた。私は、「こんなはずじゃなかった!逃げたりしなければよかった!」と思った。
 
タイ政府から二度入国拒否された私たちは、前後合わせて十六日間、海の上を漂った後、仕方なくマレーシアに向かった。二月六日、ペナンに上陸すると、すぐに逮捕された。監獄で二カ月、拘置所で四カ月を過ごした後、私はようやく難民カードを手にし、ロヒンギャの同胞を頼って生活を始めることができた。釈放されてまもなく、バングラデシュに逃れた両親が亡くなったことを知った……。
 
15万人以上のミャンマー難民が暮らすマレーシア。祖父母から孫まで3世代で暮らす人たちもいる。(撮影・覃平福)

明るい未来は来るのか

今、弟はパハン州で働いている。私は今のところ、同胞の紹介で、宗教学校の教師をしている。故郷でも教職に就いていたからだ。
 
マレーシアの生活はどうかと聞かれれば、「少なくとも故郷よりは安全だ」としか言えない。間違いを犯さなければ、警察に出会ってもそれほど心配する必要はないし、最悪でも逮捕されるだけで、命を取られるようなことはないのだから。
 
故郷では、私たちは身分が認められないばかりか、社会から犯罪者扱いされてきた。しかし、それでもなお故郷が懐かしいのだ。自由にもいろいろあると思う。ここでも自由があり、命の心配はない。しかし、空気の匂いがミャンマーとは違うのだ。マレーシアはいいところだが、しかし、いつだって故郷に勝る場所はない。
 
皆と同じように、私にも夢がある。いつかロヒンギャという身分の問題が解決し、故郷に帰れるようになることだ。もちろんそれだけでなく、次の世代のロヒンギャが教育を受け、リーダーシップを身につけ、民族のために声を挙げてくれることを願っている。
 
私はマレーシアで妻に出会った。彼女はマレーシア人で、子どもも生まれた。多くの同胞に比べれば、私は恵まれていると言える。少なくとも私の子はマレーシアの国籍を申請でき、身分も国籍も認められているのだから。
 
しかし、それでも私は自分の国に帰れる日を待ち望んでいる。その日が来たら、妻も一緒に私の故郷に帰り、家族に会いたくなったらいつでもマレーシアに戻る。そんな暮らしができるとしたら、それはなんて素晴らしい未来だろう。
(慈済月刊六六六期より)
NO.307