善行を広め、悪行を隠し
さらに大勢の人を導いて善事を行う
「善」と「悪」の綱引きは、人が多くいる方が勝つ
私は中学を卒業するまで中国語の教育を受けましたが、中国語で長い文章を書いたことはありませんでした。それが慈済に入ってから、思いがけず中国語で文章を書く人生が始まりました。
読解を通し
文字の深い意味を味わう
一九九六年に「アジア週刊」という雑誌で證厳法師についての報道を読み、慈済が台湾や世界各地でたくさんの善事を行っていることを知りました。そして、もしシンガポールに慈済があれば素晴らしいなあ、と思っていました。
二年後のある日、姑を病院に送る途中、「慈済文化センター」の看板を見つけました。「まあ、シンガポールにも慈済があるの!」と、私は嬉しくなって早速尋ねて中に入り、『静思語』を購入したのです。読んでみると、分かりやすい言葉だけれどその意味はとても深いものでした。證厳法師は大変智慧のある方だと思いました。
しかし、その後まもなく看板がなくなりました。私は「慈済文化センターはどこに移動したのだろう?」と疑問に思っていました。それから一年後にチャイナタウンを通った時、偶然に慈済の看板に出会いました。「ここに移っていたのね」と思い、早速中に入ると、林淑婷師姐(師姐は女性ボランティアの呼称)が慈済の設立の歴史とさまざまな活動について説明してくれました。私はとても感動し、その日、会員になりました。
ある日、慈済連絡拠点の秘書をしている郭友義さんから電話がかかってきて、「原稿のタイプを手伝っていただけませんか?」と聞かれました。私が会員資料に中国語のタイプができると書いていたからです。私は喜んで承諾しました。それから郭師兄(師兄は男性ボランティアの呼称)から不定期に手書きの原稿が届くようになりました。原稿をタイプしているうちに、時々文章が分かりにくいことが気になったので、「文章を直してもよろしいですか」と伺ってみたのです。こうして私は、原稿タイプから慈済人文真善美の筆耕ボランティア(メディアボランティア)の一員となりました。本当に思ってもいなかったことでした。
中学時代には台湾の作家の本をよく読みました。香港の金庸さんと梁羽生さんの武芸小説も、夜更かしをして夢中で読みました。それから中国の作家の余秋雨さんの作品も好きで、『文化苦旅』『山居筆記』など、とくに『文化苦旅』は何回も読みました。文化に造詣が深く、言葉巧みに描かれた場面は生き生きしていて、まるで目の前にスクリーンが現れたようでした。私は中国語の書物からとても影響を受け、中国文化の奥深さを感じました。とても真似のできるものではありませんでした。
真心込めた報道を
シンガポール支部が設立した当初は、筆耕ボランティアがとても少なかったのです。二〇〇四年に姑が亡くなった後、時間にも余裕ができたので、さらに多くの慈済の志業に参加しました。その時、シンガポール支部の活動が急速に発展し、いくつかニュースで取り上げられた医療支援ケースがありました。例えば歯に巨大な腫瘍を抱えたインドネシアのパタン島の男の子や、先天性筋ジストロフィーを患うシンガポールの潘兄妹が、台湾の慈済病院で治療を受けることになり、私は彼らにずっと寄り添い、ケアをしながら報道しました。
その頃、シンガポール人医会もよく海を越え、インドネシアのパタン島に施療に行っていました。私も同行し、その様子を執筆しました。その記録はシンガポール支部が発行する「慈済世界」に載せていただき、だんだんと書く自信がついてきたのです。
はじめは慈済特有の用語が分からなかったので、いつも質問していました。「どうして花蓮静思精舎を訪ねることを『行く』ではなく『帰る』と言うのですか?」などと質問したものです。花蓮は慈済人みんなの「心の故郷」なので、「帰る」と言うのが当たり前だということが、やっと分かるようになりました。またある日、「膚慰」という聞きなれない単語に出くわし、「撫慰」とはどう違うのかと疑問に思いました。證厳法師の開示によると、「傷ついた人に寄り添って慰めてあげましょう」とありました。手で触れると、相手は落ち着きを取り戻せるからです。それほど心を込めてケアをするということです。慈済で使われる言葉の意味を、深く読み取りたいと思いました。
また、テレビなど一般のマスコミ報道は、ともすれば三面記事に偏りがちですが、大愛テレビには慈済ボランティアの善行の報道が溢れています。「慈済の慈善活動を社会に知らせたい気持ちがあるからだろうか」と最初は思いましたが、原稿を書き続けるうちに、悪いことを知らせることより、人々を善行に導くことの方が大切なのだと思うようになりました。これはまるで善と悪の綱引きのようです。
よい文章を書くために、私はよく台湾の「慈済月刊」を参考にします。シンガポールに送られてくる冊数には限りがあるので、見かけると、古いものでも手に取ります。私の手本です。皆さんがどんな見方をしているのかがよく分かり、とても勉強になります。
最近、スリランカに関する報道を多く書きました。二〇〇四年にスマトラ島沖地震が発生してから、シンガポール支部はスリランカを援助し続けてきました。私も四十回以上往復し、急難救助の様子や大愛村と学校建設の中長期計画、そして施療活動などに携わりました。
二〇一三年から私はスリランカ支部の総務にも携わることになり、執筆と平行して行っています。昨年と今年の六月、ハンバントータで土石崩れが起きたので、実地調査と震災援助の記録だけでなく、撮影と報告用の資料作成を担当しました。
撮影を担当したことで新しい見方を学び、執筆と両方の技術が進歩したような気がします。これから仏教の教えを日常生活に取り入れた慈済の活動をさらに深く報道し、誰でも菩薩になれるという真理を伝えていきたいと思っています。それはまた、私にとって大切な学びの機会であり、私の人生を豊かにしてくれています。おかげさまで今生に悔いはありません!
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