一つまた一つ、真実を語る美しい善の
ストーリーに魅了され、
私は慈済の世界にのめり込んでいった。
月刊誌の仕事に携わりながら
瞬く間に過ぎた三十年であった。
私は就学のため高校の時から家を離れていた。帰省すると、いつも応接間のテーブルに薄い雑誌が置いてあり、その雑誌の表紙の「卍」のマークが目に留まった。「慈済」と書いてあった。
母は「毎月百元の寄付をしているのよ。花蓮に人助けをしている法師様がおられて、この月刊誌を届けてくださるの」と言った。毎月その月刊誌にびっしりと記された寄付者のリストを念入りに見て、母は必ず家族の名前を見つけるのだった。こうして私と慈済とのつながりがこの月刊誌から始まった。
興味は仏教の探求へと
大学時代の私は老荘思想に夢中だった。一九八七年の夏、大学院の入学試験で私が目指していたのは、中国哲学を研究の中心とする中国文学科であった。補欠で一番となったが、残念ながら入学することはできなかった。やむを得ず短期の仕事を探し、来年また挑戦しようと決めた。
「慈済ですって? 私がずっと寄付を続けて来た慈善団体よ。そこで働くのはいいことだわ。世の中のためになるのだもの」と励ます母に付き添われ、私は台北市長安東路の「普門文庫」へ行って、慈済文化センターの記者の採用面接を受け、採用された。当時の陳慧剣編集長には心から感謝している。仏教のことも分かっておらず、大学を出たばかりの私に、またとない機会を与えてくれたのだ。これが人生初めての仕事であった。
一九八七年七月一日は私が初めて慈済に足を踏み入れた日である。当時慈済は設立して二十年を迎え、七年の歳月をかけて建てられた花蓮慈済病院も、一周年記念日を迎える準備をしていたところだった。その記念すべき年に入った新人記者の私は、病院建設の縁の下の力持ちであった「栄誉董事」と呼ばれる、幹部ボランティア達の伝記を書くことになった。隔月の「慈済道侶」と月刊の「慈済月刊」に掲載される記事だった。
翌年八月、花蓮慈済病院は台湾大学付属病院から十数名の医師を迎えた。開業二年目になり医者が不足するという厳しい状況を救う強力なサポーターとなってくれた。私は幸いなことに「慈済月刊」の取材を通して、若きエリート医師である陳英和医師、郭漢崇医師、簡守信医師と李仁智医師を訪問するチャンスに恵まれた。彼らは活気にあふれ、はるばる台湾東部で人命を救うとの理想に燃えており、私はその精神に心から敬服していた。
取材しながら一つまた一つと真実を語る美しい善のストーリーに魅了され、私は慈済の世界にどんどん引き込まれていった。老子と荘子の哲学を探求したいという気持ちは、次第に仏教への興味に変わった。そして「一時的」のつもりだった「慈済月刊」の記者の仕事も、楽しさのあまり一年また一年と延びた。そして慈済に入って六年目の一九九二年、「慈済月刊」の編集者となった。
会員との信頼関係を築く目的から人文的刊行物へ
私を慈済に入るよう導いてきたこの月刊誌は当初、会員との信頼関係を築き、「誠正信実」という慈善の理念を実践することを発行の目的としていた。だが思いがけず、この月刊誌によって、一九六〇~一九七〇年代の台湾の辺境に生きた貧しい人々の様子が、記録として残されることとなった。
「慈済功徳会の設立は貧困者を救援するためなのに、なぜ救援すればするほど増えるのだろう?」。これは、慈善活動を始めた頃、證厳法師が抱えていた疑問である。貧困に至る原因を突きとめるため、證厳法師は、社会から取り残された片隅を自ら訪ね歩かれた。日めくりカレンダーに鉛筆や青や赤のボールペンや毛筆で細かく綴られた文字は、山を越え、川を渡って、人々の苦しむ姿を見てきた證厳法師がお書きになった実際の記録だった。それを侯慰萍や陳貞如ら記者たちが記事として書き起こし、「慈済月刊」に掲載したのである。
證厳法師はこの世を自分の研究室だと見なされていた。だとすれば、早期の「慈済月刊」に掲載された文章は、上人が発表された研究論文とも言える。一九六〇~一九七〇年代の交通が閉ざされた台湾の僻地に暮らす貧困者や社会的弱者の実状について、詳しく言及されている。
一九八〇年代、花蓮に病院を建てるため、慈済は人々に向けて共に福田を耕すよう呼びかけた。「慈済月刊」も会員との信頼関係を築くことからその目的を拡げ、続々と「隨師行記」「静思晨語」などの特別コラムを増やしていった。私が楊歆師姐(徳清師父の出家前の名前)から編集の仕事を引き継いだとき、「慈済月刊」は文化的な内容が充実した読み物で、その上慈済ボランティアにとって欠かせない大切な拠り所となっていた。
慈済人文志業センターの王端正執行長には心から感謝している。「慈済月刊」の編集長に任命されて不安でいっぱいだった私に、明確な目標を示して下さったのだ。「心を浄化する霊水として世に行き渡り、社会の平和の支柱となること。そして苦しみの声に耳目を傾けること」。さらに人々が心の落ち着きを欠いている時代に、「邪念に惑わされず真理に至ろうという心を保つ」役割を担っていかなければならない。
二〇一七年の七月で私が慈済に入ってから三十年が過ぎた。思えばあっという間であった。「慈済月刊」はもう五十歳だ。非営利団体の雑誌として半世紀を歩み、人々の心を善の方向へ導く清流メディアの役目を今も堅く守っている。そして次の五十年のスタートラインに立った今、歴史の事象を検証し、慈済を記す大蔵経となることが、編集者や取材者全員の永遠なる理想と願いなのである。
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