慈濟傳播人文志業基金會
海外篇

月刊誌が繋ぐ会員との絆

            ◎日本 張秀民
                   
日本で人と会話をするとき、宗教を話題にするとよい印象を持たれませんが、「慈済月刊」があると興味を持ってもらえます。日本人と結婚した方は、友人との集まりで「慈済月刊」の中の上人の言葉や記事を紹介しているそうです。時には、日本在住の台湾人が花蓮を旅行した時に精舎を訪れて住所を残していったと本部から連絡を受けて、「慈済月刊」を送ることもありました。住む場所は違っても、同じ雑誌を読むことで繋がりを感じられるものです。
 
少し前のことですが、一九九四年に名古屋で中華航空機墜落事故が起きた時、東京支部の担当者はすぐに連絡を取り合い、翌日には支援とケアに向かいました。また、同時に「慈済月刊」で募金を呼びかけることができました。一九九九年の九二一台湾中部大地震の時にも、「慈済月刊」に掲載された記事で被害の様子を知った日本の方たちから、すぐに多くの募金が集まり、「希望工程(慈済の学校建設援助計画)」の支援をすることができました。
 
インターネットのまだない時代に、文字による報道はどれほど大きな支えとなったことでしょう。一九九二年、私たちは隔月誌の「慈済日本」を創刊し、日本での活動を紹介するようになりました。当時群馬県に住んでいた私は、自宅から日本支部がある都内まで、車で四時間の道のりの間に原稿を仕上げたりしたものです。リサイクル活動、老人ホーム訪問、読書会など、どこに行くにも二冊の雑誌を持参しています。離れていても、雑誌が結ぶ絆のおかげで会員同士はよい関係を続けることができ、大変ありがたいと思っています。
 
 

 

幼少期に根づいた善の心が花開く

               ◎タイ 王鐘賢
                   
 私は母親の影響で「慈済月刊」を読んで大きくなりました。もちろん漫画も好きでしたから、蔡志忠の老子、荘子、「萬法唯心」なども読みました。高校で『静思語』に触れ、菩薩の心を少し垣間見たような気がしました。
 
大学で慈青社を設立した時も、その拠り所となったのは「慈済月刊」でした。それなのに、タイに渡り父の工場を任された頃は、うまくいかず、心労が重なったせいか、慈済から心が離れていったのです。そして二〇〇七年、タイの青年達と共に花蓮を訪れる機会がありました。その時、上人は、「名もない草でもハーブと一緒に飾るとよい香りがするもので、雑草と一緒にすると枯れてしまうのですよ」と言って、私たちを励ましてくださいました。私たちは精舎で温かく迎えられ、たくさんの感動を胸に抱いて帰国しました。
 
それから数年の間に、タイ支部はボランティア訓練チームを組織し、国連と共に難民への施療活動を実施しました。他の団体とも連絡を取り合い、世界中の難民に施療を拡大していく予定です。これもすべて幼少期に「慈済月刊」を読んで、善の精神を身につけたおかげだと思っています。
 
 
 

作文の参考書として  

                           ◎ミャンマー 王棉棉
 
私はビルマで報道記者兼カメラマンをしていますが、「慈済月刊」は中国語を学ぶための貴重な参考書となっています。幼い頃からミャンマーの現地教育を受けた私にとって、中国語を書き綴ることは難しいからです。小さい頃は、中国仏教系のお寺で開かれている無料の中国語教室に通ったのですが、周囲の人との会話もままならず、行ったり行かなかったりでした。慈済に入会し、取材の撮影を手伝うことになり、最初はマレーシアからきたボランティアの方と中国語で話していましたが、何度も教えて頂いてやっと通じる程度でした。それから「慈済月刊」を読んで語彙を増やし、文章をどのように構成したらよいのか考えるようになりました。夜間学校にも通って中国語を学び、やっと自分の言いたいことを適切に表現できるようになりました。とくに「衲履足跡」の中にある上人と客人との対話はとても勉強になります。言葉に込められた意味を深く考えることを教えて下さいました。原稿を書く時も、内に気持ちを込めるよう意識して言葉を選ぶようになったことで、今では私の中国語を笑う人は誰もいません。私も少し進歩したような気がしています。
 
学習は永遠に続きます。私が頂いた法名は「慮綿」ですが、綿密に思慮を重ねて丁寧な報道をするように、との願いを込めていただいたのだと思っています。ミャンマーの農民には「毎日一つかみの米を蓄えて布施する」習慣があります。このことを慈済の皆さんに伝えるため撮影をしたことを、とても光栄に思っています。これからも、気持ちを新たに善の物語を探し続け、全世界に届けていきたいと思っています。
 
 
 
 

文字に霊感を尋ねて

         ◎シンガポール 楊淑元
                   
一九九二年、夫の仕事によりシンガポールへ渡りました。子供が特別進学クラスに入学したので、私もそのお手伝いとして教材を作るボランティアを始めました。その時、「慈済月刊」は分かりやすく仏教の話を学ぶことのできる、数少ない教材でした。なかなか手に入らず、宝物のように思えました。
 
そしてシンガポールでも「慈済世界」を出版することになり、私も執筆を手伝いました。最初は何をどう書いたらいいのか分からず、いつも「慈済月刊」を読んではその中の言葉に感化され、少しずつ成長することができました。今の若い人たちは、写真は好きですが、あまり活字を読みません。支部でも意見が分かれますが、私は印刷された「慈済月刊」が好きで、頁をめくり、印象に残った文章を何度も読み返すのが楽しみです。
 
編集の仕事にも携わりました。一番の思い出は、インドネシア・バタン島の子供について書いた文章が「慈済月刊」に掲載されたことです。顔面に腫瘍を患ったその子をシンガポール支部が支援して、花蓮慈済病院で手術を受けることになったという記事です。手術は成功したのですが、残念ながら完治には至りませんでした。しかし、その子にとって花蓮での日々は、わずかな間でしたが、美しい思い出となったようです。記録として残すことができて、私はとても光栄に思っています。
                  
 
No.249