慈濟傳播人文志業基金會
長寿雑誌「慈済月刊」を支えてきたもの
「慈済月刊」をめくると、この半世紀の台湾の移り変わりが見える。
この一冊の長寿雑誌は、無数の功労者の努力によって支えられてきた。
永遠に止まることのない善の行動を記録してゆかねばならない。
 
呉麗玉は眼鏡を押し上げながら、ゆっくりと一冊の雑誌をめくっていた。向かいに座っている林慧美が、その雑誌の記事に興味を持って、呉麗玉に話しかけると、七十八歳の呉麗玉は話し始めた。
 
「ハリケーン・トラジーが襲ってきた時、被災者が村役場へ避難したけれど、椅子さえなかったのです。私は毎朝コック長に頼んで、熱い朝食を運んでもらっていました。私はここで生まれ育ったから、いろいろな融通が利いたのです。小学校の教室を一部屋借りさせてもらえました」と、自分でも信じられない程の行動力があった当時の救済活動を思い出していた。
 
「私はその時、どんな方法でやっていたのかしら。もしも、慈済に入っていなかったらそんなことはできなかった」。結婚した後、家の中で毛糸を編んでいた内気な呉麗玉は、静思語の「自分を軽く見てはならない。人には無限の可能性がある」という一句が自分を成長させてくれたと語ってくれた。
 
二○○一年の「慈済月刊」八月号には、前月の七月に花蓮と南投を襲った台風八号(ハリケーン・トラジー)の救助活動の記録がある。呉麗玉は花蓮の凰林に住んでいた。一帯で家屋や橋が倒壊し、家を失った被災者の臨時収容所を探さなければならなかった。普段から住民は、慈済人を自分たちの地域の人と見なして親しくしている。村長、町長と学校が組織する救助活動に、慈済も日頃から参加しているからだ。
 
●初期は新聞の体裁で発行していた。1973年8月に雑誌に改め、今日の「慈済月刊」の様式になった。
 
その頃、呉麗玉は平日に組長の林慧美と訪問ケアをしていた。そして、台風八号の救済の時には、毎日バケツ一杯の水を車に乗せて、仮設トイレの清掃をしていた。
 
雑誌は文字や写真を通して記憶を呼び覚ます。心温まるストーリーは枚挙に暇がない。その時苦労を共にした皆が集まると、過ぎし日の記憶が呼び起こされるのだった。
 

雑誌の大半は出納簿

記載することにより信用を得る 

 
「慈済月刊」は、善人や善事や善法を伝えることに主眼を置いた仏教出版物である。慈済功徳会が創立して以来、その活動には多くの女性が参画してきた。それは、創立者の證厳法師が女性の力を見い出し、家庭の主婦たちに一日五毛銭を貯蓄して貧民病苦の救済にあてるよう呼びかけたことに始まる。これは一種の民間の社会保険に相当するだろう。
 
この本土型慈善組織に寄せられた浄財が誰から来て誰のために使われたのか、双方の人名と金額のすべてをこの雑誌に記載している。時とともに寄付者と救済対象が増加して、雑誌の大半が家計簿のようになった。米や医薬品、葬儀や生活の費用などの支出が、寄付による収入を上回っている。
 
「慈済」は慈済功徳会が設立された二年目に創刊され、以後十六カ月にわたり、救済したケースの人名と住所、支援に至った状況を詳細に記した。その中で野菜売りの女性を支援したケースを報道した。野菜売りの蘆丹桂さんのケースは、李時によって書かれた記事である。
 
李時の息子のクラスメートが破れた服を着ているので、お古をあげようとした時、野菜売りの母親、蘆丹桂さんが、緑内障を患っていて失明寸前ということを知った。李時は支援しようと、友達の間を駆けずり回って五百元を集めたが、これ以上のお金を捻出するのは無理だった。その時、ある尼僧が困っている人を助けているという噂を聞いたので、本当かどうか確かめに行った。すると、その尼僧、すなわち慈悲深い證厳法師は、すぐに宜蘭県の大きな町、羅東へ行って、手術して徹底的に治すように言われた。そして、蘆丹桂さんは五百元を持って羅東へ行った。退院の時、入院費、手術費、食費の請求書は二千六百元を越していたが、慈済功徳会が一カ月に生活補助費として六千元近くを支給したので、それでまかなうことができた。
 
李時はこの出来事をきっかけに慈済委員となる。創刊号に記載されている慈済功徳会のメンバーは、法師を含めて十名だけだった。その時、李時と陳阿玉の募金は毎月各自五十元、さらに二十二人の会員が一人について五円から三十元、そのほかの人は平均して一人十九元を募金し、合計四百三十五元が集まった。これが初期の状況だった。
 
三十五周年記念の時、記者のインタビューに応えた李時は「私はとても恥ずかしいです。慈済に対する借りは一生かけても返せません」と言って、蘆丹桂さんの支援のいきさつを話した。記者は「ただ一心に歩いてきた三十五年」と題し、「慈済月刊」四一三号で報道した。
 
早期の頃、彼女を含めた古参委員はいつも精舎に出入りしていたので、尼僧たちが炒った塩を豆腐にかけた食事を取るなど、質素倹約で、自給自足の苦難な暮らしをしていたことをよく知っている。それでも證厳法師は、貧しい人たちが苦しい生活から抜け出して自立できるように、また病気の人が治癒できるように世話しておられた。
 
●50年前の台湾は貧困と苦難に喘ぐ時代だった。知識も経済力も乏しい婦女たちが證厳法師に従って、毎日黙々とわずかながらの善を行った。女性の慈悲と柔らかな力が、社会に貢献し、異なる人生を展開していた。左から陳阿玉、李時、洪碧雲、陳雪梅、證厳法師、陳貞如。陳貞如は法師に追従した最初の善女。
 
證厳法師の重責を少しでも担えるように、李時は募金集めに全力投球した。北へ南へ奔走しては、慈済について話し、慈済の善なる種を蒔いて、枝葉が茂り、発展するよう努力してきたのだった。
 
 

「慈済月刊」を手に、募金に走る

 
「慈済月刊」を読んだのがきっかけで、慈済に加入して来る人は少なくない。話すのが苦手でも、募金をお願いする時に「慈済月刊」を持って行くと、説明しなくても慈済のしていることをよく理解してもらえるからだ。
 
七十一歳の林慧秀の母は、慈済功徳会が設立した二年後に募金を始めた。その時、高校生だった林慧秀は母の募金を手伝っていた。二十九歳で結婚した後に慈済委員になった時に授かった委員番号は「九十」で、娘の時から祖母になるまで慈済の道を歩いたことになる。
 
昔の台湾には今のような個人情報を保護する法律はなく、毎月、新しく支援対象となった人の名前とその内容について掲載していた。それを見て、本当かどうかを確かめに行く人もいれば、その人を助けに行かなかったことを悔やむ人もいた。真実の報道は、多くの人に堅い護持の信心を与えていた。
 
一九八一年のことだった。十年以上静思精舎の印刷を請け負ってきた印刷所が、人手不足のため数カ月も期日通りに印刷できなかった時期があり、證厳法師は大変心配された。台北、高雄、台南の慈済委員にとって「慈済月刊」は会員から募金を募ったり、新しい会員を募集する際に、とても大事な役割を担っていたため、出版されないことの影響は大きかった。
 
●早期の支援ケースについて、支援を行った日時や家庭の状況を「慈済月刊」に掲載した。これを読んだ心ある人が手を差し伸べるようになった。
 
證厳法師は、発行部数が一万二千部を超える「慈済月刊」の発行が遅れれば、慈済委員が募金を振り込むのに大きく影響すると心配された。それ以外に、会員数の増加にしたがって印刷量も膨大になるため、もっと大きな印刷所を見つけなければならなかった。その時、法師はお詫びの掲示を印刷し、連合会の席上で、台北の慈済委員に印刷所を探すよう指示された。
 
一九八六年、普門文庫を慈済に寄付した因縁で、慈済文化センターが台北で設立された。創刊以来、ずっと花蓮で印刷して二十年になる「慈済月刊」は、発行部数の増加から印刷業務を台北に移転することとなった。
 
その年の七月、花蓮慈済病院がオープンし、一躍慈済の知名度が上がると、国内外から多くの支持者が絶えず行き来するようになり、「慈済月刊」の供給は需要に追いつけなくなってゆく。
 
「慈済月刊」は、慈済功徳会の慈善事業の足並みにぴったりと沿って成長してきた。だが、限りある誌面では、残念ながら無数の感動的な物語を一つ残らず掲載することはできない。
 
證厳法師はお年寄りと子供に対してもよく配慮している。「童心映月」というコーナーを設けて、仏法を三歳の子供でも理解できる内容にしたり、親孝行の話を載せたりした。また、「草の根の菩提」というコーナーでは、環境保全活動に参加しているお年寄りを取上げ、年を取っても大いに社会のために役立っているストーリーを掲載している。
 

庶民の力と台湾の美談を伝える

 
慈済創立から五十一年目に邁進し、證厳法師は「前塵を顧みて」という文章を「慈済月刊」に寄せた。その中で、何か一つ志業を始める度に、慈済委員と会員は支持してくれたが、一九九一年に始めた中国救済では、多くの反対の声が上がったことが書かれている。
 
一九九八年の元旦、大愛テレビ局が開設される前まで、「慈済月刊」と、一九九六年九月に創刊された隔週誌「慈済道侶」が、読者とコミュニケーションを取る重要な役割を演じていた。
 
「慈済月刊」三○○号に、「法師随行期」「中国風災チャリティーバザー座談会」という記事がある。その中に、高雄で證厳法師が大陸救済を決定したことについて、「台湾も救済し終えていないのに、中国まで……」と慈済委員の間でも意見が分かれたという記載があった。反対意見が多く、中国での救済活動を展開することはできなかった。
 
證厳法師はとくに高雄の慈済委員を招集して、「今日私は皆さんにお願いをしたいと思います。偏見をおいて、共にこの神聖な任務に団結して努力してゆきましょう」と呼びかけられている。同じ号に掲載された「法師随行記」では、中国支援隊の出発前夜、李宗吉がメンバーの渡航費を受け持つと言うと、證厳法師は「救済活動が始まると志願する人が増えます。ですから交通費と食費は各自負担とし、浄財は一元も漏らさずに現地支援に当てましょう」とおっしゃった。その言葉が、以後、ボランティアが支援活動に参加する時の規律となった。
 
臓器提供、骨髄バンク、献体の問題では、ボランティアが率先して、中華系住民や仏教の伝統的な観念を打破して、社会から受け入れられるようになった。
 
生活が豊かになるにしたがって、台湾ではゴミ問題が深刻化していた。それを心配された證厳法師は、台中新民商工学校で一九九○年八月、「拍手する両手で環境保全に努めましょう」という演題で講演された。「拍手する両手」とは、環境保全の重要性を説くと人々は拍手するが、その拍手する両手を実際に動かして環境保全活動に参画しよう、という意味である。こうして、環境保全活動は瞬く間に台湾全土に広がっていった。その年の九月、證厳法師が台中へ行脚に行かれた際、台中のボランティアたちは、資源回収で得た所得を献金した。
 
十年前。「慈済月刊」は環境保全に呼応して、電子化し、紙の使用を減らした。しかし、古参委員たちは今でも古い「慈済月刊」を読んでは、かつての様々なことを懐かしく思い出す。とくに證厳法師の開示は温故知新であり、いつまでも褪せることなく、いかなる時にもすぐに役に立っている。
 
メディアの形態が絶えず新しくなっても、その内容の良し悪しは、やはり報道する対象である慈済人の行動によって決まる。「慈済月刊」を発行して五十年、この長寿雑誌の背後に無数の絶え間なく善行に努力し行動する人々があったからこそ、永遠にストーリーを書き下ろすことができる。
 
●【表紙の移り変わり】「慈済」の表紙は、最初の新聞の体裁(最上段左)から、観世音菩薩の迷津慈航(最上段右と上から2段目左)、実社会での救済(上から2段目右)、見守りケアの写真など、仏教の世界と現実社会を取り上げている。10年前からは電子化され、印刷部数を減少し、環境保全に呼応している。だが、印刷された「慈済月刊」を希望する読者もまだ多い。
 
No.249