慈濟傳播人文志業基金會
信頼を求めて 創刊した「慈済月刊」
一九六七年七月、「慈済」という新聞紙一枚の機関紙が創刊された。愛の心を差し出してくれた人々に、献金がどのように使われ、どのような人々を助けることができたのかを知ってもらうためであった。
 
證厳法師はこうおっしゃった。「皆さんから頂いたお金を、一元たりとも無駄に使わないことが『正しい道』であり、それを実行しているからこそ信用されるのです。そうすれば、多くの衆生が集まることでしょう」
 
慈済功徳会が創設されてから十四カ月後の一九六七年七月二十日、新聞と同じB3サイズで「慈済」が創刊された。證厳法師は、「創刊にあたって」と題して、創刊の主旨を次のように記された。
 
この「慈済」という出版物には、その名の通り、「慈悲の心で、救済を志とする」という思いがこめられています。それは狭義に偏らず、広義的にとらえ、ネガティブではなくポジティブに行動しようというものです。創刊の趣旨は「仏教の真髄を宣揚し、仏教に基づく生き生きとした活動を報道する」というものです。この世の善人、善事を人々に紹介し、堕落した風潮を清流に引き戻したいという思いが込められています。「仏教真髄の宣揚」と「仏教活動の報道」が慈悲の出発点であり、「済世救民」を最終の目的としています。
 
證厳法師は、「慈済」は紙幅は少ないけれども、非常に貴重な出版物だと次のように強調されている。
 
我々は一文字一行さえ無駄にはしません。無意味な話や、世の中の役に立たないことを書いたりしないということです。この趣旨と意志に反することはしません。つまり、周りに影響されて、「慈悲」や「世の救済」と無関係なことに関わることはありません。
 
「慈悲を念頭に、救済を信念に」との原則に沿ったこの刊行物は、白黒で印刷し、新聞紙一枚、四面立ての体裁で、隔週で発行した。創刊号の発行部数は三千部であった。
 

信頼を求める力の発揮

 
昔、台湾の寺院で法事を行う際に、信者がお米や金銭などを寄付していた。寺院は寄付の内容をリストアップして、その明細を寺院の壁に張り出す。この伝統的なやり方に従って、證厳法師は功徳会を創立してから各委員に対し、寄付されたお金を詳細に募金記録簿に記入するように命じた。そして、随時それを公開して、寄付者たちの信頼を求めたのである。
 
会員数が日々増加するのに従って、募金明細は一枚の紙にはおさまらなくなった。もし刊行物があれば、寄付者と寄付金の額を詳細に記載できるほか、人々にもその寄付金の使途を知らせることができる。善行したい人の善念を一層引き出すこともできるかもしれない。
 
ところが、一九六七年の台湾は依然として戒厳令が敷かれていた時期であった。集会や結社、言論、旅行、出版などのいずれも戒厳法によって規制されていた。刊行物を出すことも簡単なことではなかった。当時台湾最大手紙だった「中央日報」の花蓮支局長を務めていた林志勝さんが、花蓮の新聞記者聯誼会の理事長であった。メディア業界に勤めていた慈済委員の陳貞如を通じ、林志勝さんの協力を得ることができたため、「慈済」の発行登録申請を行った。
 
●1967年7月に創刊した「慈済」。すべての義援金は一銭残らず救済に使われる。人々や社会の役に立たない無意味な話を書いて誌面を無駄遣いすることはない。「慈悲」と「世の救済」を発刊の目的とするとはっきり言明した。
 
本籍が中国山東省の林志勝さんは、爽やかなタイプの人で、顔が広い。彼は「慈済」の発行者となることを快諾してくれた。「中華日報」花蓮特派員の侯蔚萍さん、「中国時報」花蓮特派員の温煥元さんは、「慈済」の発行の申請手続きを手伝ってくれた。この三人は花蓮のメディア業界でかなりの影響力を持ち、「地方の顔役三仙人」と呼ばれていた。彼らは證厳法師の、貧しい山間部の貧困者を救済したいという精神に感動し、積極的に協力してくれたので、「慈済」の発行許可が順調に下りた。
 
そして、陳貞如と、同じく慈済委員の呉玉鳳が、それぞれ「慈済」の社長と副社長を担い、侯蔚萍さんは編集長に、「民声日報」特派員の李業漢さんが兼任記者となる。創刊当初は毎号の紙代と印刷代に約千五百元かかり、その費用はすべて陳貞如と呉玉鳳が負担した。
 

誠の心を以て

正しい道を信じ実践する

 
創刊号の一ページ目に、仏の弟子となり、仏陀の慈悲を体験し、大士に追従するよう呼びかける次のような記事が掲載された。
 
仏法とは善行の力により苦しみが除かれ、楽が与えられることを宗旨とし、生死苦悩を解脱して誠を拠り所とするものです。目の前にある貧しさや病、孤独、災難などの苦しみに対し、憐憫の心を一層発揮し、救援すれば、よい方向に向かうでしょう。ましてや今は目の前の土地が汚染され、社会が混乱し、苦難が多いのですから、私たちは仏陀の弟子として仏陀の慈悲の悟を会得し、大士の行道に追従し、力を出して他人を助けてあげましょう。この理念に従って、「慈済功徳会」が立ち上げられ、会員を募集し、納められた寄付金を月ごとに詳細に記録して公開し、その浄財によって苦難の淵にある人々を助けて参りました。善行によって募った寄付金は第一信用合作社に預金し、許居士聡敏を管理者としてお願いしました。毎月二十四日は證厳法師が薬師経を読経し、厄除けや長寿などを祈願したのです。
 
仏陀は苦難の人を救うことを優先しなさいと語っています。善行はこの世で最高の楽であると言われます。慈済功徳会の設立によって会員が増え、浄財も集まり、さらに多くの人を救済できるようになりました。一方、善行をしたい方も日増しに増えてています。そうした人たちについて、この紙面に掲載いたします。
                                                                       慈済功徳会 敬白
 
この文章は證厳法師が帰依した印順法師が寄せられた言葉で、困難を乗り越え、慈善活動に従事する弟子に送った励ましの言葉である。
 
●善人や善事を報道し、人の心を善に向かわせることが、「慈済」が伝えたい理念の一つである。
 
創刊された「慈済」が担った最も重要な役目は、「信頼を得る」責任を果たすことである。だから毎号に必ず寄付者の名前と寄付金の額を一人残らず記載した。寄付金のほとんどは五元、十元などの少額であった。それにもかかわらず、證厳法師は一銭も漏らさず、はっきり記載するように求めた。「寄付者氏名不明」という記載は許さなかったという。
 
また、愛の心を寄せてくれた人に、寄付金の使途や、誰を救済したかを知らせるため、「援助を受けた人のリスト」を記載した。
 
「一銭たりとも手を抜かず、正しくあること。正しいからこそ信頼され、さらに寄付者を募ることができる」と證厳法師は強調した。一方、慈済委員は募金活動のほかに、苦難の人々に寄り添い、実際の行動によって奉仕した。「訪問や見舞いに時間をかけ、交通費も自己負担する。このように心から喜んでやることは誠である」
 
誠正実のほかに信が必要である。證厳法師は、「馬車に腕木が必要であるように、信は慈済と会員の間の腕木である。信があるからこそ人間の善根を啓発して功徳を養うことができる」と言われた。
 
誠‧正‧信‧実という四つの文字は、證厳法師が弟子に度々言い聞かせる教えであり、「慈済」という刊行物はその教えを広める使命を与えられたのである。
 
寄付金の情報公開のほかに、創刊号には功徳会が初めて長期ケアを行った林曽さんのことや、八百屋の盧丹桂さんの目の手術と治療のために、長期にわたって援助を提供することなどが記載された。
 
毎日の日めくりカレンダーの裏を使って證厳法師がこれらの物事を細かく記録したものが原稿である。訪問で見聞したことを詳細に記入してある。それを侯尉萍さんや陳貞如が記事に書き直し、「慈済」に掲載した。日めくりカレンダーの紙に、鉛筆や青や赤のボールペン、毛筆などで書いた文字がびっしりと重なっている。これは證厳法師が自ら山を登り、川を渡って、人々の苦労を見極められた記録である。
「慈済」は、功徳会と会員を結ぶ橋となったと同時に、大衆の愛の心を啓発するための大切な酵母になったのである。
 

一九六七年台風三十七号

被災地支援のための募金

 
秋の終わりから冬の初めの頃は西北の太平洋の海水温度が低下するため、台湾に台風がやってくることは稀だ。ところが「慈済」創刊の年、立冬が過ぎたばかりの十一月十八日の昼前、猛烈な台風三十七号が台湾東部に上陸した。気象観測史上、一年の中で一番遅い時期に台湾を襲った台風であった。
 
史上最大風速の強風が花蓮を襲い、日本統治時代から残された伝統的な木造建物の多くが倒壊した。花蓮県で全壊や半壊した建物の数は三千七百棟以上に上り、最初の一時間で避難指示を受けた住民は一万人を超えた。
 
わずか数時間のうちに、台湾全域では死者五名、負傷者五十七名という大きな被害が出た。倒壊した家屋は一万軒以上に上った。冬になると、東北の寒い季節風が段々強くなってきた。自身も粗末な板間に住んでおられた證厳法師は、避難者の苦しみを感じられた。「天気はますます寒くなっている。貧しい上にさらに先の台風で被災した人たちは、この厳しい冬を無事に乗り越えられるだろうか」と心配された。
 
被災後の二日目の十一月二十日に発行した「慈済」第九号の一ページ目に、「台風三十七号猛襲 花蓮に甚大な被害 各界からの支援を期待 今こそ義援金に協力して被災者を救援しよう」と大見出しを書き、被災地の復興支援のため、大衆の協力を呼びかけた。
 
●「慈済」創刊後の9カ月後、隔週誌から月刊誌に変更。毎号とも各委員が集めた募金金額をびっしりと記載しいる5元、10元と少額の寄付金を積み立てて、貧困者の救援資金にあてていた。
 
国民党花蓮県支部は大衆に金銭や衣服、食糧などの寄付を呼びかけた。功徳会は直ちにその呼びかけに応じて、一軒一軒回って古着を一枚一枚集め、三元、五元と寄付金を集めた。そして募集した支援物資の全てを国民党花蓮県支部に渡し、党支部から各市村のサービス隊を通して、被災者に配った。
 
義援金と支援物資を取りまとめて政府の統合運用のために渡したほかに、被災した慈済が長期ケアしている多くの人たちの援助もできればと、證厳法師は考えていた。ところが、その時はちょうど李阿拋さんの家を建てるサポートをしていて、それに必要な金額は四千二百元にも上ったので、長期ケアの人に援助する余裕はなかった。
 
そのために、声楽家の陳貞如はチャリティーコンサートを開催して義援金を募ろうと考えた。一九六八年一月十二日、功徳会と陳貞如が勤務する「民声日報」が合同で、中米劇場で二回にわたり、チャリティーコンサートを開いた。
 
中米劇場は花蓮市内で一番にぎやかな目抜き通りにあり、台湾東部最大のデパートのすぐ近くにある。コンサートの夜、当時二十八歳だった歌手、謝雷さんが大流行していた「苦酒満杯」を歌い、拍手喝采を受けた。そのほか、「小さな歌姫」と言われた徐珮さんや流行歌「氷点」で一躍有名になった新星、蔡一紅さん、そして新人歌手の高明さんなどの歌声が、辺鄙な裏山と言われた花蓮の人々を励ました。
 
この二回のコンサートで九千三百九十八元二銭の収益があり、功徳会はそれを分けて運用することができた。まずその一部を慈済がケアしている十九世帯に、百元から七百元の補助金として当てた。残りの三千九百十八元は台湾東部警備本部が実施する「冬季貧民給食」に寄付した。
 
毎月の五日と二十日に発行される「慈済」は、台風被害への支援者を募る役割を果たしたといえる。創刊から九カ月後の一九六八年四月、「慈済」は月刊誌に変わった。そして一九六九年七月、創刊から二年を経て「慈済月刊」は正式に「花蓮仏教慈済功徳会」から発行されることとなった。
 
慈善を人文という手段で記録し、伝えてこそ、理念を固く長く持ち続けられる。「慈済月刊」は誠正信実という慈善人文の礎となり、慈済人文志業の始まりとなった。これから未来の数十年間も、「恒久に、気迫を以て、慈悲喜捨の心で善行から退かない」との信念を持ち続け、この世の菩薩道を歩いて行こう。 
 
●旧静思精舎の壁に毎月の救済活動の収支リストを張り出してある。ところが、リストが多すぎて貼り出す場所がなくなってしまった。「慈済」は創刊後、この一番重要な役目を請け負い、人々の信頼を得る責任を負った。
 
No.249