慈濟傳播人文志業基金會
美しい地球にする
趙美球さんの物語
 
言ったことは必ずやり遂げる。趙美球さんは自分が環境保全のために生まれて来たのだと言った。「私の名前は『趙美球』ですから、この手で美しい地球にしたいのです」。
㊟中国語で「趙」の発音は「造」に似ている。
 
「苦難にある人はとても多く、證厳法師はこんなにも慈悲深いのです。法師こそ私が追随すべき師であり、慈済は私が生涯かけて追求する道です」。涙を浮かべ、力強く語るたおやかな外見に似合わず、両手は、樹の皮のようにゴツゴツとしている。
 
「一冬で、百枚ぐらいの絆創膏を使います」。長年、環境保全に携わってきた趙美球(ツァオ・メイチュウ)さんの手は、毎年冬にはひび割れを繰り返し、古傷に血がにじむ。
 
趙さんは毎朝三時に起床して顔を洗い、自転車に乗って慈済の福鼎連絡所へ出かける。真っ先に連絡所に着くと、慣れた手つきでパソコンを起動し、静思精舎の朝のお勤めにライブで参加して、「法の香りに浸る」開示を聞いたり、会務の報告をする。それが終わってから、家に帰って素早くご飯を食べて家事を済ませると、また連絡所へ戻る。そして、リサイクル品回収のために車を出したり、リサイクルステーションの整理をする。
 
家と連絡所を往復する毎日だが、疲れを感じることはない。連絡所はまるで別宅のようである。「私はいつも、慈済に来るのは修行のためだと思います。修行する心で慈済に来てこそ、いつまでも変わらずにいられます。仏法は止まることなく、終わりのないものです」。

人が集まれば力になる

趙さんは、まだ慈済についてよく知らなかった頃から毎日お経を誦み、香を薫き、仏様を拝んでいたので、自分は敬虔な仏教徒だと考えていた。二〇〇四年に姉の趙美英さんから慈済に誘われた時、「自分には向いていないから寄付だけすると言いました。あの頃の私は道理を知らなかったので、毎日他人と自分を比較ばかりしていました。他人が稼いでいるのを見れば自分も稼ぎたいと思い、人が大きな家に住んでいるのを見れば、もっと大きな家に住みたいと考えていました」。
 
二〇〇五年、彼女は福鼎慈済中学校の親子サマーキャンプに参加し、また年末には福鼎市磻溪鎮で行われた慈済の冬季配付に参加した。「空がまだ暗いうちに出発したのですが、そこにはもう数千人の人々が待っていました。私は配付の位置につき、腰をかがめて、相手に『感謝します』と言いながら両手を添えて物資を渡しました。とても寒い日で、道路は凍っていましたが、穴の開いたぼろぼろの靴を履いた人もいました」。
 
この光景を目の当たりにした彼女は、世界にはこれほど苦しい人々がいること、そして自分がどれほど幸せであるのかを初めて知った。「家族はやさしく、夫婦の収入も生活も安定しているのに、これ以上何を望むことがあるのでしょう?」。
 
冬季配付を終えた彼女は、自分を変えて、この両手で苦難の人々を癒そうと決意した。平日は仕事があるため、週末を利用することにし、土曜日には王念蟬(ワン・ニェンツャン)師兄(スーシォン)と共に病室慰問ボランティアをし、日曜日には慈済のボランティア室で当直を務めた。毎月の郊外への慈善訪問に必ず参加し、平日の夜の読書会には一日も欠かすことなく通った。「十数年来、私の初心は変わっていません。仕事の時以外は、慈済の活動に参加しています」。
 
●中国福建省の福鼎市立病院で、慈済ボランティアが新規採用された医師や看護師、研修生のために人文講座を開いた。趙美球さん(右2人目)が、環境保全10カ条を解説した。(撮影・王凰)
 
二〇〇七年、楊德釵(ヤン・ドーツァイ)師姐(スージェ)の勧めにより、彼女はリサイクル活動を始めた。楊師姐は早朝五時過ぎから福鼎市立病院にある慈済のリサイクルセンターで回収に励んでいた。夏はとても蒸し暑く、回収された牛乳パックがひどく臭う時にも、それらを一つ一つハサミで切り開いてからきれいに洗うその姿に、趙美球さんは深く感銘を受けた。
 
「昼間は仕事があるので、夜に分別の仕事をしようと考えました」。趙さんの呼びかけにより、福鼎連絡所では夜間のリサイクル活動が始まった。彼女はいつも一番早く到着し、一番遅く帰った。ステーションを掃除してから家に帰ると十二時近くなることもあったが、翌日にはお昼の休憩時間を利用して病院のリサイクルステーションへ行き、回収物を計量して回収業者の車に乗せた。会社に行く時間に近くなっても作業が終わらないこともあり、いつも大忙しだった。
 
「あの頃は、涙も出ないほど大変でした」。辛いこともあったが、證厳法師の望まれることをやり続けている。夜間のリサイクル活動に菩薩(ボランティアのこと)を募ったことで、仕事を持つ人々にも社会貢献のチャンスを与えた。
 
それ以来、福鼎連絡所のリサイクル活動で起こったすべての出来事は、彼女の目にしっかりと焼き付いている。リサイクルステーションの変遷や、それに携わった一人一人の努力や貢献は、彼女にとってかけがえのない宝物なのだ。中でも特に思い出されるのは、二〇一二年六月、ある事情により、ステーションが幼稚園から現在の慈済連絡所に引っ越すことになった。当時の慈済連絡所は郊外にあって、夜間の回収活動を行なっていたが、夜九時以降はバスが走らない場所だった。電動スクーターを運転できない菩薩たちも多かったので、みんな夜間の回収活動はやめてしまうだろうと思っていた。ところが彼らは全員、早い時刻のバスに乗ってリサイクルセンターまでやってきて、夜九時までになるべく急いで仕事を片づけるようにしたのだ。また間に合わないときには、環境ボランティアの陳忠(チェン・ジョン)さんが慈済の車を運転して年老いた菩薩たちを一人一人家まで安全に送り届けてくれた。
 
人々の支持に励まされて、趙さんの願力はより強いものになった。彼女は「みんなが善いと言ってくれれば、やり遂げる力が生まれます。みんなが善くないといえば、その力は生まれません。私がここまでやってこられたのは、みなさんの力のおかげです。一人でできることには限りがあり、みんなで協力してこそ力が生まれるのだと実感しました」と語る。
●趙美球さんは仏門に入り、善行を始めて13年間、環境保全に力を尽くしてきた。(撮影・鄭爾婷)

慈悲の心で、蒼生を抱擁する

彼女の熱心な呼びかけにより、夜間に始まった福鼎連絡所のリサイクル活動は、昼間を含めて週四日になり、今では毎日に発展している。ボランティアの数も日に日に増えていった。年老いた菩薩たちにとって、彼女は家族のように思われている。だから体調の悪い菩薩がいれば、親身になって具合を尋ね、電話をしたり、自宅を訪問したりして祝福を届けている。
 
彼女はまた、日々の生活においても環境保全の達人である。この十年間、洋服ダンスに入っているのは、いずれもリサイクルステーションで回収した服ばかりだ。水や電気を節約し、家ではエアコンをつけない。小さなタオルを湯おけの水に浸して顔を洗い、衣服も手洗いする。出かける時は、エコバッグを持っていなければ、絶対に何も買わない。全て、環境保全を考えて行動している。
 
二〇〇八年に四川大地震が起きた時は、慈済の災害支援活動に参加した。被災地である什邡市洛水鎮の学校では、位牌の一枚一枚に可愛い笑顔の写真が添えられていた。生命のはかなさと人生の無常を悟った彼女は、食事のたびに子供たちのために祈り、ベジタリアンとなることを決意した。
 
●福鼎の慈済ボランティアたちは、夜間にリサイクル活動していたが、週4日から、今では毎日行っている。趙美球さんもこれに参加している。(撮影・劉幼眉)
彼女の夫は初めの頃、仏の道に熱心すぎるのではないかと言って、妻を笑っていた。だが二〇〇五年、妻と共に慈済の歳末祝福会に参加した時、彼は歌曲『蒼生を抱擁する』の歌詞にある「そっと歩こう、大地が痛がらないように」という一節を聞き、涙を流してこう言った。「證厳法師は学校や病院を建てて、困った人がいれば助けに行く。これこそが社会の求める、正真正銘の善いことだね。仏法を生活の中で実践するとは、こういうことなんだ」。
 
それからは、彼女が慈済や仕事、家事で忙しくしていても、夫は文句を言わなくなった。単に理解や思いやりを示してくれることもあれば、炊事や洗濯をしてくれることもあった。娘も頼もしくなり、母親を心配させたりはしなくなった。家族の支持を得た彼女は心配が消えた。「慈済の因縁がすべてを導いてくれたのです。本当に不思議なことですね」と感謝の気持ちを抱きながらこう言った。
 
有言実行。趙美球さんは、大愛で大地を守る道を切り開き、一歩一歩着実に歩んでいる。彼女は自分が環境を守り、地球を守るために生まれてきたのだと言う。「違いますか?私の名前は『趙美球(造美球)』ですから、この手で美しい地球にしたいのです」。
(慈済月刊六四八期より二〇二〇年に翻訳)
No.289