慈濟傳播人文志業基金會
患者自主権・安らかな生と死
台湾で施行三年目を迎える「患者自主権利法」は、患者の医療自主権を中心理念とするアジア初の特別法だ。同法の制定は、命と尊厳に関するより活発な対話を生み出し、また家族が互いによく理解し合い、生命が終わる辛い瞬間を円満で思い残すことなく迎えることの大切さにも気づかせてくれた。
 
世界では三秒に一人が認知症と診断されている。また台湾のがん患者統計から計算される「がん時計」も年々時間が縮まり、現在は四分間に一人が、がんを発症している状況だ。高齢化や少子化の問題も深刻化している今、人生の最後に深くかかわる「患者自主権利法」に関心を持ち、また人生の必修科目である「善終(善い最期の迎え方)」についてよく考えることの重要性が、これまで以上に高まっているのだ。
 
台湾の桃園県に住む林美榕(リン・メイロン)さんは二十年前に胃がん末期と診断され、手術で胃と胆のうと脾臓を切除した。治療後は、病気を抱えたままホスピス病棟のボランティアになり、自分自身の経験を生かして重病患者やその家族に寄り添っている。
 
そのような経験を経た彼女は、「ホスピス緩和・生命維持医療の事前選択意向書」(DNR、通称「蘇生措置不要同意書」)に署名し、将来自身の命が終わる時に人工的な延命措置を取らないことを選択していた。また「患者自主権利法」の施行後は、夫と共に台北慈済病院に行き、「医療事前指示書に関する相談」(ACP:アドバンス・ケア・プラニング)を経て「医療事前指示書」(AD:アドバンス・デシジョン)に署名し、いつ訪れるのか分からない人生の終わり方について事前の準備を整えた。
 
●台湾では、「患者自主権利法」の成立後、診察・相談・署名・登録通知の手続きを経て、自分の選択した医療方法を健康保険カードに登録することができるようになった。
 
ホスピスケア基金会が二〇二〇年十月に発表した調査結果によれば、「最期まで蘇生措置を行うべきだ」という台湾の伝統的な医療理念に少しずつ変化が起きており、末期患者に対する臨終前の延命措置については約七割が不要であると回答している。また、死への関心が十年前の調査時よりも高まり、重病で余命が明らかになった時のことについては、五割の回答者が残された日々の過ごし方を自分で決めたいと答え、九割七分の回答者が事前に遺書を残すことに賛成すると答えている。だが一方で、そのうちの六割の回答者が実際には何の行動も起こしていないことも示されている。
 
台湾は一九九〇年という早い時期からホスピス緩和医療を推進しており、世界で最も早くホスピス緩和医療を施行した地域の一つであった。そして「ホスピス緩和条例」施行から二十年を経た二〇一九年一月、「患者自主権利法」が台湾で施行され、患者の医療自主権を中心理念としたアジア初の法律が成立した。同法によれば、満二十歳以上で行為能力を有する人なら誰でも、医療機関の相談チームによる「医療事前指示書に関する相談」を経たうえで、「医療に関する事前指示書」に署名することができる。そうすれば将来、五種類の法定臨床条件にあてはまる状況になった時、重要な医療事項を自分自身の意思で決定することができるのだ。

身体が思いどおりにならなくなった時

この二年間では、台湾の著名な作家である張曼娟(ヅァン・マンジュェン)さんとベテラン芸能人である譚艾珍(タン・アイヅン)さんが、それぞれ両親と娘に付き添われて病院に行き、医療事前指示書に関する相談と署名を行った。また作家の龍応台(ロン・インタイ)さんも署名を行い、その時の気持ちなどをSNSで発表した。これらのニュースは、いずれも同法に対する人々の関心と議論を呼び起こした。
 
もしかすると、一般の人は「患者自主権利法」の主旨には賛同するけれど、「自分には関係ない」と考えているかもしれない。
 
健康な時に無常を感じることは難しい。自分が倒れた後の医療費や保険金の問題を気にする人は多いが、「どんなふうに扱われたいか」という医療処置の問題について思いを巡らせる人は少ない。そのため、いざ自分が倒れて重要な医療措置を決定しなければならなくなった時、すでに自分の思いどおりにならないことが多く、重要な決断を全て家族に委ねることになりやすい。医療技術の進歩によって、治療のためのお金や薬がないというかつてのような苦境は台湾ではもうあまり見られなくなった。その代わりに聞こえてくるのは、「終わりたくても終わらせてくれない」という声だ。
 
また、「善終(善い最期の迎え方)」について事前に家族とよく話し合っておかなければ、チューブを抜いて治療を停止するかどうかという選択を迫られた時、家族は倫理と感情の板挟みという苦しい思いをすることになる。また家族との間で共通の認識が得られなければ、愛情の破綻や対立を生むことになる。そのため、「命に関することは自分自身が決め、効果のない医療措置による苦痛を回避したい」という理由以外にも、「家族に決断の苦労をかけたくない」という理由で相談に訪れる人も多い。
 
●台北慈済病院の「心蓮病棟(ホスピス病棟)」前の廊下では、静かな雰囲気の中で、ときおり焦燥感が入り混じる。多くの不安や未知に直面する末期患者の家族が、医療スタッフに小声で相談していた。
 
「患者自主権利法」を主に推進してきた楊玉欣立法委員、そして彼女の夫である台湾大学哲学科の孫効智教授は、長年にわたって医学倫理と生命教育に力を尽くしてきた。メディアで「難病の天使」と呼ばれた楊委員は、自身も三好型筋ジストロフィーの患者だ。これは筋肉が次第に萎縮して全身麻痺に至る病気で、病状には身体器官の衰弱も伴う。そのため、いかに生き、いかに最期を迎えるかということは、彼女の一生にわたる関心事なのである。
 
自身も難病患者である彼女は、自分と似た症状を持つ患者や彼らが臨終前に直面しうる困難に特に注目している。だが臨終前に苦痛を増加させるような延命治療を受け入れるかどうかという決断は、実は誰にでも訪れうる課題なのだ。彼女は医療不足と医療過剰はどちらも医療倫理にそぐわないものだと考えている。「善終(善い最期の迎え方)とは何か」というテーマは、私たち皆が取り組むべき人生の重要課題なのである。
 
●台北慈済病院の「心蓮病棟」には仏堂と祈祷室が設けられている。患者は人生の最期を迎える時、身体のことは医療チームに任せるが、心は信仰の導きを必要としている。

家族のサポートの必要性

「患者自主権利法」の施行から二年経った二〇二〇年十二月初頭までに、台湾全土で約二万人が「医療事前指示書」への署名と健康保険カードへの登録を済ませた。だが一般人や医療スタッフを含め、「患者自主権利法」の内容についてあいまいな理解しか持っていない人は依然として多く、診察相談の利用のしやすさの改善が待たれる。
 
現在、台湾全土の一八〇を越える病院で「医療事前指示書に関する相談」サービスが提供されているが、利用にあたっては電話やインターネットでの事前予約が必要で、多くの病院では週に一、二回の相談診療時間が設けられているだけである。一回の相談には六十分が必要で、少なくとも一人の二親等以内の家族が付き添い、二人の立会人が立ち合い署名をしなければならない。また健康保険の範囲外であるため、患者は全額を自己負担しなければならない。これらのさまざまな要因が、相談サービスの利用や署名への意欲に少なからず影響を与えている。
 
政府は特定集団に対する補助や無料相談を提供しているが、それでも使用頻度は少ないままだ。台北市立聯合病院ソーシャルワーク室の楊君宜(ヤン・ジュンイー)主任の分析によれば、台北市立聯合病院(七院の合計)における二〇二〇年七月までの三千例の相談者のうち、心身障害者、重病患者と高度障害者、中・低所得世帯、認知症患者、独居およびホームレスなど無料相談を受けられる集団に属する人々はわずか十八%だけであったという。またそのうち中・低所得者に至っては、八十八名しかいなかった。
 
台湾における高齢者人口は三百七十万人で、人口全体の十六%を占めている。また台東県東河郷における比率は二十二・五%にも上る。東河郷にある都蘭診療所の頼瑋伶(ライ・ウエイリン)医師によれば、医療事前指示書に関する医療相談と署名に対応しているのは台東県全体でも三カ所の病院のみであり、将来的には「在宅相談」や「在宅終末医療」の推進が必要になるであろうという。
 
台湾全土には三百六十八の郷・鎮・市・区という行政単位があるが、中でも最も高齢化が進んでいるのは新北市平渓区で、二〇二〇年五月の内政部の人口統計による高齢者人口比率はすでに三〇%を超えている。慈済の医療ボランティアチームは長年にわたって平渓区で施療・往診サービスを行っているため、当地の高齢化や独居老人の現実や問題をよく理解している。
 
患者自主権利法
●2019年1月6日施行。
●終末医療における患者の知る権利、選択する権利、決定する権利を保障することを主旨とした台湾初の「善終(善い最期の迎え方)」特別法で、「ホスピス緩和医療条例」に続いて定められた。
●志願者は意識がはっきりした健康な時に「医療事前指示書に関する相談」を受け、「医療事前指示書」に署名することで、将来において末期患者、不可逆性昏睡状態、永久植物人間状態、極めて重度な認知症患者及び担当部署が公示する疾病など5種の特定臨床条件にあてはまる状況が発生した時、延命治療や人工栄養法、経管栄養補給などの措置を受け入れないことを選択し、「善終(善い最期の迎え方)」が可能となる。
 
二〇二〇年三月、台北慈済病院は平渓保健所での「医療事前指示書に関する相談」に関する支援を開始したが、費用の問題や人々の考え方が保守的であることなどの原因で、予約に訪れる人はまだいない。近年、「患者自主権利法」を推進してきた台北慈済病院の常佑康(チャン・ヨウカン)医師によれば、平渓区に九十歳を超える老人が「医療事前指示書」に署名したいと言っているが、家族が事前相談に同行することができず、その望みは叶えられていない。
 
「善終(善い最期の迎え方)」という概念は広く受け止められ、支持されているが、その具体的な実施内容や細部の理念、実務上の解釈については意見が分かれている。台湾においては、「患者自主権利法」の理念を引き続き紹介し、宣伝して広めていくことが必要である。死を語ることをタブーとせず、家族と「善終(善い最期の迎え方)」について話し合い、医療事前指示書に関する相談に参加することは、出だしの一歩にすぎない。前述の相談費用というハードル、相談診療の利用のしやすさ、政府による宣伝などの課題を克服する必要があるほか、医師の患者とのコミュニケーション能力や終末医療に関する知識と能力、ホスピス病棟の病床数、在宅医療および在宅終末医療などの構造的な課題について、社会の各界がより注目し、議論していくことが必要であろう。
 
「平和で安らかな最期は不可能ではないのです」。ある「患者自主権利法」に関する座談会で、楊玉欣委員がそう強調した。「そうでなければ、命が無意味で不条理なものになってしまいます」。彼女は「患者自主権利法」が「善終(善い最期の迎え方)」を自分で選ぶきっかけとなり、また、人々が命の終着点を考えることで愛という出発点に立ち返ることを願っている。(参考文献‥ホスピスケア基金会、台湾生命教育学会患者自主研究センター)
(慈済月刊六五〇期より)
No.291