慈濟傳播人文志業基金會
その車両に入ると
各地から駆けつけた消防隊員や救助隊員が全力を尽くし、
変形した車両の中へ出入りを繰り返した。
彼らは天使のように、自分のことは顧みず、
ただ現場の負傷者と犠牲者の気持ちだけを考え、
その忘れることのできない空間から早く脱出させようとした。
それは最も心が痛む一歩であった。
 
四月二日午前、私は花連慈済病院整形外科で診察をしていた。九時過ぎに電話で、タロコ号脱線事故の第一報が入り、十時過ぎに受けた二度目の電話で、現場には多くの負傷者が閉じ込められているという報告を受けて、この事故がただ事ではないことがわかった。救助隊の仲間は皆そこにいるのだ。私は診察室を出ると、待合室にいた患者さんたちに謝罪した。「今日は本当に申し訳ありませんが、診察をこれで終わりにします。事故現場へ行かなければなりません」。

負傷者を励まし、救援に当たる

花連では各郷と鎮(台湾の行政区分)にそれぞれ緊急救助隊が置かれている。救助隊にはボランティアがいて、救急車に同行すると警察官と消防隊員に協力して患者を病院まで運ぶ。慈済病院の多くの医療スタッフはそのメンバーである。私はその花連県消防ボランティア大隊の救助隊隊長をしている。白衣を着替える時間もなく、その上から消防隊の制服と装備を着け、その日は十一時に現場に着いた。消防署の仲間の先導で車両の屋根を乗り越えて地上に降り、続いて六号車を超え、七号車に辿り着いた。最も負傷者が多い場所だ。まず負傷者の救助を第一目標と定め、グループに分かれた。グループがそれぞれに、変形した車両の中からなんとか負傷者を救助すると線路脇に移動させ、搬送を待った。
 
車両という空間は通り抜けられて当たり前だと思っていたが、今回は通り抜けられなかった。その形が想像を絶するほど変形していたからだ。線路もバラバラになっていた。車両同士が押し合って曲がっていた。犠牲者は衝突の瞬間に亡くなっていたのだ。私は隊員に言葉をかけた。ここにいるのは善良な人たちばかりだから、勇気を奮い起こして連れて帰ろう。きっと感謝してくれるはずだ。
 
一人の女性が車体から投げ出され、その遺体が地上に横たわっていた。私は救助隊の制服を脱いでかけてやると、また救助活動を続けた。
 
一人の父親が二人の子供を連れていた。長女は頭部を負傷していたが、抱き抱えていた子の方が重傷だった。その子の頸動脈に触ると、まだ微弱だが動いていたので、搬送待ちの最優先にし、その後ろを父親と長女にした。
 
その次には腰を怪我した女性を救助した。続いて私は七号車と八号車のドアの隙間に誰かが挟まれているのを発見した。這って近づくと彼を引っ張り、救助した。陳さんというその人は寒くてたまらないと訴えた。両足が切れて出血が酷かったが、その時私には防寒着も何もなく、白衣しかなかったので、それを着せて励ました。「頑張ってください。すぐに助けが来ますから!」
 
清水トンネルで任務を遂行する消防特別捜査隊と救助隊。救助隊隊長の呉坤佶医師(白衣)も負傷者の救助にあたった。(撮影・蔡哲文)

最後の一歩がこれほどにも痛い

トンネルの中で負傷者が次々に運ばれて行った。中でも事故のショックを受けた子供のことが忘れられない。取り乱して母親にすがりつき、医者を見てさらに怖がったので、私は母親に声をかけ、抱かせてくれるようお願いした。
 
「お母さんは怪我をしているけど、心配しなくていいよ。今日は注射をしないから。」一歳過ぎのその子は、初めは混乱していたが、やがて聞き分けて私に身を預けた。勇気がある子だった。私は母親に、応急処置を済ませたら子供も一緒に病院へ行くから心配しないで!と言った。子供が落ち着いたことで、その場にいた人たちも落ち着きを取り戻した。
 
トンネルの中は暗い。特別捜索隊や消防署チームは酸素ボンベを背負っていたが、それがない救助員もいる。血の匂いが密閉されて通気の悪い空間に立ち込めていた。私は咄嗟に衝動に駆られて外へ出て新鮮な空気を吸い、そして水を一口飲むと、また中へ戻ってやるべきことを続けた。
 
各地から駆けつけた消防隊員や救助隊員が全力を尽くし、変形した列車の車両への出入りを繰り返して救助にあたった。彼らは天使のように、自分のことは顧みず、ただ現場の負傷者と亡くなった人の気持ちだけを考えて、その忘れることのできない空間から早く脱出できるように救助を続けた。それは、最も心が痛む一歩でもあった。

悪夢から離れ 周りの人に関心を寄せる

最初に移送した重傷者と三名の遺体は、列車で当初移送の中継地にした崇德駅に運んだが、列車とホームの高低差が大き過ぎて、搬送に不便だったため、指揮センターは改めて新城駅を中継地に定めた。
 
二回目に運んだのは大部分が遺体だった。私たちが新城駅に到着して検察官の検視に協力していると、慈済ボランティアが早速行動を起こしているのが見えた。ブルーの間仕切りで、通路と臨時の遺体安置区域を作り、家族が駆けつけて最後のお別れができるようにしていた。そして、私たちは夜まで一日中、最後の一人の「尊厳を伴う往生」まで力を尽くした。そのことが私の心を大きく打ち震わせた。
 
そして今、私は記憶にあるトンネルの中の出来事を全て消そうと努力している。今日手術を予定している患者さんのことに集中したいのだ。早くいつも通りの生活を取り戻したいと思っているし、他にも喜びや、考えてあげたい人たちのことがある。みんなそうだと思う。心に傷を抱えながら、落ち着いた暮らしをする方がいい。ただ陳さんと名乗った人のことを聞いた時は、ほっとしたものだ。手術を終えて容体も落ち着いたそうだ。彼が一番早く悪夢から抜け出せるのではないだろうか。すでに周りの人を気遣っているそうで、奥さんが疲れすぎていないか、自分にも何かできることはないかなど、模索し始めたとのことだ。
 
一人の医師として私がしたことは、実際わずかでしかない。この台湾にいる医師なら誰でもできることであり、おそらく私よりよくできたはずだ。
 
破損した車両の脇で救助隊員は困難を克服して生存者の捜索を続けた。作業が終わりに近づいた時、呉医師はショックを受けて母親にしがみついていた子供を慰め、移送されるまで怪我をした母親に付き添った。(撮影‥左・呉坤佶、右・蔡哲文)
 
【負傷者家族の声】   ◎文‧雷宜達
 
ただ感謝しかありません!
 
東部幹線、それは故郷へ帰るいつもの道。四〇八号、それは故郷へ帰る時によく乗っていた列車。
 
そんないつもの道といつもの列車で「生と死の間を行き交う」旅をすることになるなど、誰が考えただろうか。
 
その日、妻は子供を連れて台東の実家へ帰るところだった。乗っていたのは八号車だ。連絡が取れない時間が二時間半続いた後、やっと妻から電話があった。「お父さん、私たちが乗っていた列車が脱線したの。子供は大丈夫だけど、私は足が座席の下敷きになっているの。側にいた人に子供を見てもらって、今救助を待っているところだから、後でまた連絡するね」。
 
その時、彼女は地面に横になっていて、すでに力が尽きそうで、眠けが襲って来たが、呉医師が来て手を握りしめ、子供のためにもしっかりするようにと励ました。
 
「生と死の間を行き交った時に、励まし、助けて、寄り添ってくれた方一人一人に感謝を申し上げたい。皆さんは私の恩人です。私たち家族がもう一度集まることができて、まるで生まれ変わったようです」。
 
 大切な人が怪我を負っても亡くなっても、それは苦しみの始まりにすぎない。この痛みを一緒に乗り越えていけると信じたい。
(慈済月刊六五四期より)

 

No.293