医者となって三十年、患者から「お医者さん、あなたは思いやりのあるいい人」と言われると、呉三江は顔をほころばせ、人を救う医者を志した若い時の思い出がよみがえる。
壁からにじみ出る涼しさに気づいた若い呉三江は椅子から立ち上がり、視線を目の前の厚い本からそらした。机にかじりついて本を読んでもう何時間になるか記憶にない。
呉三江はかつて軍に属する高雄総合病院で四年間、入院患者の診察と治療を受け持つ医師になるための訓練を受けた。そのうち三年目は、金門の「花崗石」病院へ支援に派遣された。太武山の麓に位置するその現代的な病院は軍が山の花崗岩を掘った坑道内に造った。坑道の全長は一千八百メートル。彼は毎日忙しい医師の仕事を終えると夜は眠る前に坑道内の質素な小さい部屋で静かに本を読む。部屋の壁は花崗岩を掘ってできたとは思えないほど滑らかだ。彼は退勤して部屋に戻ると医者の白衣を脱いで壁にかけ、緊張をほぐすために力強く呼吸する。そして思いを巡らす。今の自分はあたかも長い年月を経た古い石と土の匂いが空気中に漂う地下の酒蔵の中で、歳月の経つのと醸造の技術によってより良い銘酒になるのを望まれている酒のようだと。
壁の掛け時計が午前二時を指しているある晩、呉三江はゆっくり歩いて長い地下の坑道から出た。正面から吹きつける冷たい風に身震いしたので、腰を伸ばし頭を上げて墨汁のように暗い夜空を見上げたら、光り輝く満天の星がちりばめられている。宇宙の中心に根づいたようで彼の心は星のように明るい、これからの人生で歩くべき道を彼は確かに自覚している。
毎日夜の二、三時頃まで自由に本を読み続け、翌朝の五、六時には起床する生活を送り、「努力すれば明るい未来に恵まれる」ことを信じて呉三江は仕事に精を出していた。しかし四方八方が静まり返った時、海を行き来する船を見ながら家が恋しくなることがしばしばある。
呉三江は一九五〇年代に裕福ではない家に生まれた。わずか十数坪の小さな家で全家族が暮らしていた。彼は弟と二段ベッドで寝起きし、幼い頃から全ての家事を手伝った。家計は良くないものの、生活は単純で喜びに満ちていたことを覚えている。両親は彼の前途のために特別な取り計らいをしたことはない。「進学するもよし。進学しないなら就職しなさい」と言われたので台南の第一高校から国防医学院に進学した。勉強は辛くないと言う。
入院患者のケアをする医師を勤めた何年かの間も、呉三江はできる限りの時間を割いて新しい知識の習得に励んだ。高収入を得るのが目的なのではなく、医術の優れた医師になろうと望んでいるからだ。
医師と患者の間柄から友達へ
呉三江は自分の思うことをやり遂げようと日夜を問わずに奮発した。その努力が報われ、住院医師(入院患者の世話をする医者)になって二年目、医学季刊に研究論文を発表した。その後順調に主治医師に昇格し、腎臓の病気を治療する分野の専門医師になった。非常に早く、多くの人が彼には腎臓病を診察、治療する高い技術があるのに気づき、診療を受ける患者はますます多くなった。国防部管轄の病院から退役した後、彼は高雄市立の総合病院に転勤し副院長まで勤めた。
二〇〇三年に呉三江は自分でクリニックを開業した。一般からの評判は相変わらず大変いい。彼は笑みを浮かべた和やかな表情で患者に接するので、患者の緊張が解かれるのだ。さらに根気よく患者の病状についての訴えを聞いてから診断する。医者になって三十年この方患者との医療のトラブルを起こしたことはなかったばかりか、多くのかつての病人といい友達になった。
緊張とトラブルが多い現在の医療現場で、自分の携帯電話の番号を患者に知らせる医師は大変まれで、呉三江はその少ない中の一人である。それで深夜に患者もしくは家族から慌ただしい口調で「病状が急変し不安でたまらない」との連絡を受けたり、あるいは救急センターから助けを求める電話を受け取る時もある。そんな場合彼は詳しくかつ最も分かりやすい言葉で説明する。その電話で自分の生活が邪魔されるのを気にしない。なぜなら彼もかつては病人の家族だったからだ。母親が肺がんを患った時、彼は正確に物事を判断できないほどに心配で怖れを感じた。
仕事に余暇があると呉三江はゴルフを楽しんだ。だが時間がもったいないと思い、テニスに換えた。しかし間もなく運動障害のために放棄せざるを得なかった。月日が経つのは早いもので、彼は小さい子供の頃の何の悩みもない楽しい毎日と、若かりし日の努力すれば報われるとの信念で送っていた単純な生活を思い出し、今の状況を考えた。「自分の生き方はこのままでいいのか?」「私は有名になったが、どうして空しい思いがするのか?」と疑問がいつも真夜中の静かな時に頭に浮かんで離れない。

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呉三江は医者になって30年この方患者との医療のトラブルを起こしたことがなく、多くのかつての患者といい友達になった。
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往診の時に
心がけるべき大事なこと
「私は何のために医者になったのか?」と呉三江は常に自問する。もちろんその答えは当初医師を志した時の発願と変わらない。「病気を治療して病人の苦痛を和らげる」のだと。その使命の尊さを噛みしめていると急に金門にいた時に見た夜空に輝く星が記憶によみがえった。ちょうどその時薬剤師の郭束が彼に聞いた。
「呉院長、慈済人医会に参加しませんか?」と。
彼は普段から郭束が親切に病人に接している態度に感心しているので、ためらわずに彼女に「いいよ」と答えた。
慈済人医会の人たちが辺鄙な山里へ入って診療奉仕する場合は呉三江は毎回快く参加した。狭い山道を辿って一戸ずつ訪れ、お年寄りや長年行動の不自由な病人を見舞ったり診察したりする。山奥は診療の資源が少ない上に、自身の健康の具合をきちんと話せる人は稀にしかない。しかし彼は長年の経験を活かし、簡単な質問と聴診器を使った観察で、すぐにその病人の具合の悪いところを正確に診断する。
高雄市桃源区髙中村への往診で、呉三江はあるお年寄りの家に入りました。
「おじいさん、どこの具合が悪い?」と聞いた。
お年寄りは口をもぐもぐして答えたが、何を言ったか誰も聞き取れない。二、三人の看護師がそのお年寄りの具合をもっと知ろうと試みている間、彼は聴診器でお年寄りの心臓の鼓動を聞いたり、背中をさすったり、手を触ったり、膝小僧を軽く叩いたり、さらにお年寄りの服用している薬の包を詳しく見た後に、「おじいさん、あなたの尿酸は比較的に高い。痛風もある。腎臓が悪くなっているよ」と告げた。それを聞いたお年寄りは分かるようで、分からないようでもあった。さらにお年寄りの部屋を見回したら、寝床の下に成分と製造元が不明のサプリの空き瓶がたくさん転がっているのを見て、彼は根気よく詳細に薬を正しく使う観念をお年寄りに教えた。
このような往診は時間がかかる。ひと朝に診れる病人はせいぜい四名が限界である。診療奉仕に参加した優秀な医者に診てもらう病人を多く集められなかったのは失策であり、また医療資源の浪費でもある。慈済ボランティアたちは呉三江に大変済まないと思っている。しかし彼自身は気にしていない。微笑みながら皆に言った。「私に学んだことを応用するチャンスをくれてありがとう」と。
慈済人医会の診療奉仕に参加するたびに、呉三江は詳細に「タバコを吸わない、酒を飲まない、ビンローを食べない」基本衛生常識を診療する相手に教える。集落の人十名の中一人が聞き入れれば「進歩」、二人いれば「感謝」するべき、三人が聞いてくれるなら往診は「成功」だと彼は言う。
思いもよらない成り行き
診療奉仕を何とも思わない人に出会う場合がある。そんな時、熱心に奉仕する意気込みが伝わらないと思って気が抜ける。しかし多くの患者が診察前のしかめっ面から診察後は笑顔にかわり、さらに「お医者さん、貴方は大変いい人です」と言うのを聞くと、呉三江は若い時に抱いた人を助けるという大きな志がよみがえる。さらに患者の感謝を込めた熱意ある握手を求められると人情の温かみを感じないわけにいかない。
こんな時、呉三江はかつて出会った一人の病人を思い出す。心臓の手術を受けたあと腎臓の透析をしている病人で症状は安定していた。しかし思いもよらず十六年後に膀胱がんに罹った。最良の治療を受けさせて、膀胱がんが治ったと思ったら、腎臓がんに見舞われた。その病人が死神と厳しい戦いをしている間、彼はいつも見守っていた。病人が腎臓がんに続いて肝臓がんを罹ったあと、その病人の心臓の持病が悪化して再度の手術を強いられた。彼は病人に言った。「三回もがんに襲われたが君はそれを一つ一つ克服した。今回の手術も君は無事に乗り越えられる」と。執刀医と病人それから彼も自信と希望に満ちていたにもかかわらず、その手術は失敗し病人は他界した。何日か後その死者の家族が彼に電話で長い間の治療に感謝した。この電話で彼は人生の無常と生命の尊さをしみじみ感じ、何事も時間を把握して取りかかることが大事と改めて悟った。
病人に最も良いこと
腎臓内科の医師ではあるが、呉三江は自分を家庭医と位置づけている。彼のクリニックには面白い現象が見られる。一般のクリニックでは病人は薬をもらったらすぐに家に帰るのが普通であるが、彼は病人をしばらく残して、看護師や薬剤師が担当して一人一人に正確な薬の飲み方と飲食で注意すべきことを教える。
場合によっては病人にとって最もいいのは、医者の優れた医術ではない。病気を治す薬でもない。病気を癒すのに大変役立つのは、病人の訴えを根気よく聞くことである。病人に存分な時間を与え、その言うことに耳を傾ければ、意外にも診察で言ったことと違うことを言うことがある。ある老婦人ははじめふくらはぎのむくみに苦しんでいた。しかし、あとで分かったのは膝関節の退化による痛みであったことである。別の中年男性は血糖値が思うようにコントロールできないのに悩み、薬を変えて欲しいと訴えた。詳細に聞いて判明したのは薬の問題ではなく、健康にいいとのことで果物をたくさん食べ過ぎたために糖分を撮り過ぎたのだった。
昨年の六月、呉三江は慈済人医会の医療ボランティアと一緒に高雄市塩埕区のトタン屋根の慈済環境保全ステーションに出向いて、資源回収に勤しむボランティアの健康検査と衛生教育をした。ステーションの中は狭く混んでいるので蒸し暑いが、親切な応対で誰も気にしない。ボランティアは年配者がほとんどなので足腰の不具合も多い。雨の日も風の日も休まないボランティアに「休みなさい」と言っても無駄であると分かっている彼は、自ら「アヒルの歩き方」を示範して、皆に関節の鍛錬とケアの方法を教えた。
そのあとに続いて呉三江は環境保全ボランティアたちに腎臓の病気の予防について分かりやすく説明した。「腎臓は環境保全ボランティアと同じように役に立つ物を残す役割を果たします……」と始めた。トタン屋根の下は蒸し暑いが、ボランティアたちはみな真面目に彼の演説に耳を傾けた。
雷がゴロゴロ鳴って雨がついに降りだし、道行く人はそれぞれに雨宿りする場所を探した。天気もやや涼しくなった。部屋一杯のボランティアと片隅で忙しく立ち働く慈済人医会のメンバーを見て、呉三江はしばらくの間頭に蘇ったのは例の古い石と土の匂いがする地下坑道の病院にいた時の思い出だった。
にわか雨はやがて止んだ。ステーションの外に植えてある木は、太陽の光に照らされて輝いている。呉三江が地下の坑道から出て夜空を見上げた時の星の輝きそっくりだ。今の彼の心は若い時と同じようにやる気に満ちている。そのほかに若い時には持っていない帰属意識を持つようになった。医師の道を歩く志を持った同士を慈済人医会に見つけたのである。彼は笑いながら言う。「歳を取るほど楽しい」と。彼の医者としての人生は、あたかも年代物のお酒のように、年月の経つに連れて香りもますます濃くなっている。
(慈済月刊五八五期より)
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