慈濟傳播人文志業基金會
修行は深くして 善縁を結ぶように
 

信根が深く広くあれば

強風にも不動    

逆境をも受けいれれば

悪縁は解ける    

深く修め善縁を以て

福因は広く造ること

 

フィリピンのハイエン風災から二年が経ちました。この災難は七千人余りの貴い命を奪い、フィリピン中部に深刻な破壊をもたらしました。慈済はその直後から開始した救難活動から現在の長期復興支援に至るまで、今でもとぎれることなく支援を続けています。九月中旬からタクロバン市、オルモック市、パロ町、タナウアンなどの被災地に、六万袋の台湾の愛がつまった白米を贈っています。

現地の青年たちは慈済ボランティアと一緒に家庭訪問をして配付名簿を作成していました。当日は配付の行われる会場の整理、米をもらった高齢者や子供には家まで米を担いで送った後、自分の米を受け取っていました。その中の一人は、「お米をもらっただけでなく、自分に人を助ける奉仕の能力があったことが嬉しかった」と言いました。

彼らの笑顔から、彼らが心から楽しんでいることを推し量ることができました。楽しみの中に豊かな愛があり、奉仕する中で生命の価値を創造していました。この感謝と愛に満ちた様子は本当に美しいものです。

タナウアン鎮の米配付会場で、住民は竹筒募金の話を聞いて、次々に空のペットボトルに銅貨を入れていました。一人ひとりの少ない銅貨でも寄せ集まれば大きな力になって人助けができます。一滴一滴の愛が集まれば無限の大愛となるのです。

親しい間柄でもなく、言語、肌の色も違いますが、風災による因縁で奉仕に行った慈済人と、お互いの距離が縮められました。物資に困っている現地の住民は心を広げて、慈済の心からのいたわりと奉仕を受け入れて、今では慈済のように自分たちもボランティアになって助けを必要とする同胞に寄り添い奉仕しています。 

アフリカ南部の慈済ボランティアもまた、貧困の村々に台湾の愛が込められている米を贈りました。ある村の人は、気が荒く常に衝突事件を起す上に治安が悪く、よそ者を入れませんでした。しかし、慈済ボランティアは真心から村中の寄る辺ない高齢者や障害者の世話をして、慈悲と智慧を用いて少しずつ近づくうちに、大愛の情が成立しました。今年の配付で村人はお礼に「阿弥陀仏」または「ハレルヤ」と言って、親切にボランティアにこたえていました。

フィリピンでもアフリカでも、慈済人は長い間にわたって、この世に造福する使命感を抱き、宗教の差別なく愛を持って接触しています。苦難にいる人々を助け起こすだけでなく、彼らの心霊に愛を啓かせ、その人たちもボランティアになって、苦難の人々に温かく接するようにと努力しています。 

南アフリカの黒人菩薩のように、彼ら自身の生活は苦しくても、心に法があると人生の苦に通達することができて、恨みや痛みから抜け出すことができます。他人からの救助を待つだけでなく、さらに進んで奉仕し村人の困難も助けるだけでなく、他国の貧困者のケアもしています。彼らの身の上から、人々には仏性が具わっているので、どんな人にも人を助ける能力のあることが実証されます。              

嘉義にいる精神障害者の青年は、いつもゴミを拾っては持ち帰り、家の中はゴミがうず高くなっていました。ある時放火に遭い、燃えている所を刀を持って振りまわし、近所の人たちは非常に困っていましたが恐ろしくて近寄ることができませんでした。

公衆の安全のため、隣組長は彼の父親の同意を得て、慈済人にゴミを片づけてもらうことにしました。しかしボランティアが行った時、青年は中へ入れません。彼の叔父さんが彼をなだめて、ボランティアに台所から入るように言いましたが、見つかって彼は「泥棒がきた」と叫びました。

慈誠隊員は彼の注意をそらそうと話しかけ、彼に胸にかけているお守りの神様と喧嘩するかと聞きました。彼はお守りを指さし「これは王様だ、これは観音菩薩で、神様だから喧嘩しないよ」と。ボランティアは彼に慈済人は観音菩薩のお使いであなたの手伝いにきたのだから怖がらないでと言うと、彼はやっと静かになってボランティアが部屋を掃除するのを止めなくなりました。

五十人の慈済ボランティアと地域発展協会の人たちが、大量のゴミを整理している中で、四十本以上の刀が出てきたのを布袋に入れて、万一彼に発作が起きた時人を傷つけないよう配慮して始末しました。

十年以上も徐々に積み重なったゴミの山は青年の寝る所がなく、ゴミの上で寝るしかありませんでした。今見るとゴミの山に覆われていた壁や床は姿を現し、きれいに洗われています。その上ボランティアはベッドまで運んできて部屋の中は一新しました。それを見て滅多に笑い顔を見せない青年に笑い顔が見られ、ボランティアはこれから度々来ることを約束しました。

お互い縁もゆかりもありませんが、慈済人は「不請之師(請われなくても師となる)」になって根気強く相手の同意を得て喜んで尽くしています。悪臭と汚いゴミを見ても気にせずひるまず、堅い奉仕の一心はただ彼の環境が良くなることを願い、地域に蚊や害虫の発生しないように望んでいました。

清掃作業がどんなに苦労でも、慈済人が喜んでやっているのは、その中で苦諦を理解し、自分の身が健康であるから奉仕できることに感謝しているのです。

「経者、道也。道者、路也」と、人のために経文の道理を話すよりも、寄り添い身を以て導き正しい道を示すことが肝心です。奉仕は見返りを求めず、暗闇や苦難にいる人が一日も早く平坦な大道に邁進し、助けを受けた人が成功して助ける人になることを願っています。

戒を守り、上善を修め、人々を仏と見做して敬い、名利を求めず、求めも企図もなく、志は一心に衆生に利益する、これが人間菩薩です。菩薩の道を歩く上で、一人ではあまりにも寂しく、二人でも足らず、三人でもまだ力が足りません。百手千手に呼びかけて一緒に正しい悟りの道を切り開いて、人々を正確な方向へ導きましょう。

現在を把握し
一瞬をとこしえに
善行を怠らず
休みなく
この善念を永劫のものにしよう

苦難の多い世間では、平穏の人は福を大切にし、さらに多くの福を造ること。

台北に住む廖定興と李佳樺の夫妻は慈済功徳会に参加して三十五年になりました。早期に私が病院建設の念願を発表した時、佳樺は協力することに発心立願して熱心に支援金を募り、十年間も貯蓄して買った金塊を病院のレンガに替えました。当時警察官だった廖定興は病院でボランティアをするという妻に賛成し、自分も退勤後は活動に参加して、慈誠十八隊の隊員になっています。病院開業後は医療ボランティア、その後はカメラを持って慈済記録係のボランティア十九号になりました。一九九九年の台湾中部大地震後の希望工程(学校建設支援)や慈善、医療、教育、人文などのあらゆる建設工事の記録を残す上で、彼はなくてはならない存在です。

佳樺は二度も大きな自動車事故に遭っていますが、慈済ボランティアとして精進する道は途絶えたことがありません。廖定興は今年九十歳になりますが、健康で慈誠隊員の当直でも欠席したことがなく、勤務時間のない時は環境保全センターで手伝っています。この精神は長者としての模範です。夫婦は純粋で広い心を持つ同志であり、三十年来良いと思うことはやり、慈済に深く投入していることに感服させられます。

慈済は、慈善活動を行っているだけでなく、宗教精神を兼ね備えた団体です。「宗」とは人生の宗旨であり、「教」は終生に亘る教育です。この大家庭に投入する一人ひとりが修心養成を願い、端正な行為で、人々に奉仕し、老いてもなお学ぶよう願っています。

一日は八万六千四百秒ですから、この秒間の一念に着実な行動を以て善美の歴史を書き下ろすか、それとも心の起伏で安定しないなら八万六千四百の煩悩に満ちてしまいます。貴い時間をつまらないことに浪費していると、容易に社会問題を引き起こすことになります。どうすれば一念の善を永劫のものにすることができるのでしょうか? それは、この一瞬を把握して刹那を永久のものにすることです。「一日過ぎると命もそれに従って一日短くなる」のですから、分秒を惜しんで絶えず正法を吸収して着実な行動を以て正確な方向に向かって奉仕をするのです。自分の生命に責任を負うだけでなく、多くの人を導いて菩薩道へと前進して、正法を永続させることです。

時は長河の流れのようにあっという間に流れ去ります。持続を必要として法を聴き、法を説き、法を伝えるには一歩一歩入念にしていれば、たとえ日一日と老いても、慧命は日一日と成長します。

悪念が起きると
心は猛獣と化す    
善根を培い
信力は堅固にして     
悪癖を調伏させること

カナダにいる六歳の少女はいつも些細なことで喧嘩し譲り合わない両親を見て、母親に言いました。

「ママはパパの友達になる準備をしたら?」

ママは答えて「そうね」と。

「では試してみたら? お高くとまっている悪い癖を直して、低くして良い癖に直すと仲良くなれるよ」と少女は言いました。

それから続けて、「悪い世界に生きていたら、最後には皆が猛獣になってしまうよ。もしもこの世界に良い人が少しでも残っていたら、私たちも食べられてしまう。そしたらこの世界に良い人がいなくなって、猛獣ばかりになるでしょう。だから私たち頑張って良い人になろうよ」。子供は真剣な態度で、優しく大人に話しかけ、笑って、もう怒らないでと言うのです。

この映画のストーリーは世界の注目を集め、子供の言った幼い言葉ですが智慧に満ちています。

凡夫には各々の考えと習性があって、悪念が起きると心は猛獣のようになって、世間に災難を多発させます。仏陀には十の尊称があり、その一つに「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」があります。仏に学ぶ者は常に己を観察し、己を調和できているか、つまり内心は猛獣になっていないか、悪癖は調伏できるかと自問するのです。善根を培い堅い信の力があれば、どんな習気も治すことができます。

信心の樹根は深くしっかりと土の中にあれば、試練に耐えることができて、強風が吹いても倒れません。常に「聞、思、修」を心がけ、法を深く心に聴き、細心に思惟し身を以て努め励めれば何事にも通じます。そして皆が清らかな本性に戻ると社会は平安になることができます。              

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人生での思い通りにならないことは十中八九ありますが、遭っても恨まず、たとえ逆境であっても「逆増上縁」の試練と思って感謝することです。過去世にどんな因を造って、どんな縁があったかによって、今生の境遇につながります。逆風がくれば甘んじて受け、智慧を使って悪縁を善縁に化すことです。

農夫が種まきをするように、季節という因縁を把握して、一心に耕せば豊作になります。清らかな本性とは正因のことで、深い修行の善縁があると因は熟成することができます。単純な心を以て今すぐに人と良い縁を造り、良いことは機会を逃さず、未来のために福因を造りましょう。

反対に逆境に遭って無明が起きると、人とのいざこざに纏わりつかれて、さらに多くの業を複製します。間違いにさらに間違いを重ねると、業に業が加わって苦しい人生になります。

ですからわずかな悪念でも、察知したらただちに改めることです。その上堅い善心があればぼんやりとして因縁のままに引きずられません。今生の方向が偏らなければ、来世には良い自分があって業力に引っ張られず、自分の正しい方向を掌握することができます。皆さん心して精進して下さい。

NO.227