慈濟傳播人文志業基金會
歩行練習と共に 始まる新たな人生

❖黄子羨  26歳  サラリーマン

八仙楽園粉塵爆発事故で全身に七十六パーセントの火傷を負った。入院して四十五日だが、体が目に見えない鎖で縛られたように行動が不自由である。それでも、彼は日陰で生きようと思わない。

歩行の練習から始めるのだが、彼は前向きに進むことができる。それは時間が証明してくれる。例え一生体に傷痕が残っても、心の傷は次第に瘡蓋ができ、やがて癒えるだろう。

黄子羨(左)は退院後週に3日、大林慈済病院で集中的にリハビリを行っている。リハビリ療法士の指導の下に、彼は努力して引き上げ動作や腕から肩に掛けての筋肉を伸ばしていた。それは萎縮したり固まるのを防ぎ、身体機能を維持する目的である。

 

ゆっくりとリハビリ科に入っていくと、ほとんどが年配の患者の中に混じって、嫌でも若い人が目につく。しかし、黄子羨は何とも思わず、八月中旬から毎週三回大林慈済病院に通っており、それはすでに彼の生活の一部になっている。

職能治療室で、左右の腕にそれぞれ一キロの砂袋を縛りつけ、右手を左方向へ首と頭部を経過して力いっぱい上に引き上げたり、その手で小さな積み木を高い場所に置くという動作を繰り返していた。それは重力を利用して腕と肩の筋肉を広げる訓練で、痙攣と凝り固まりを防ぐためのものである。

そして、物理療法室では揺れ動く平衡感覚を養う板に立ち、両手を手すりで支えながらしゃがむ動作を行った。両足は強いだるい痛みを覚え、固くなった膝も痛んだが、我慢できないほどではない。

最後に彼は一直線を歩いた。「もっと歩幅を大きくして!」。リハビリ療法士が声を上げた。続いて後ろ向きに歩いた。後ろが見えないので少しよろけた。それは膝や足首及び踵の筋肉を鍛える訓練である。彼の場合、最もひどく火傷したのが両足で、早く伸ばしたり引っぱったりしなければ、傷口が癒えた後ではリハビリが余計困難になり、その効果も大幅に下がってしまう。

二時間が過ぎ、黄子羨は顔の汗を拭いてから疲れた体で父親が迎えに来るのを待つため、病院の入り口に向かった。途中で彼は休憩し、腰を屈めて膝を揉んでから再び歩き出した。自称「スポーツ強要シンドローム」の彼にとって、前代未聞のことである。以前はどんなに走ったり飛び跳ねても疲れを知らなかったが、今は歩くだけでも容易なことではない。

負傷してからは以前できたことが今はできない。行動は大きく制限され、目に見えない鎖に縛られたような感じだ。今は過渡期であり、彼は勇敢にそれを突破することができる。しかし、今回の事故で、彼は家庭の大切さを思い知らされた。以前、彼にとって家は道の途中にあるもので、長居することはなかった。今回、重傷を負ってから、父親は献身的にケアをしてきた。彼は、父親が歳を取ってきていると共に、自分も歳を重ねてきていることに気づき、もっと成長して物分かりが良くなるべきだと悟った。

ロック歌手が経験したシンセ・パーティー

二十六歳の黄子羨は雲林北港出身で、北部に働きに出てきた。不動産仲介業者や警備員職などを経験したが、明るく話し好きで社交的な青年である。大学時代、バンドを結成してボーカルを担当した。彼はロック歌手のように髪を伸ばし、ヘビーメタルを好んだ。

「僕は本当はシンセ・パーティーには興味がなかったのですが、友人が入場券を四枚買ってきて、招待してくれたのでついて行ったのです」。こともあろうに、神様はあんな大きな試練を与えた。事故当時、彼はパーティー会場の前方中程の所にいた。突然、舞台の方から火花が飛び、一瞬にして会場が火の海になった。彼は一口大きく息を吸い込んでから後ろの方に走った。走っている間、熱いと感じただけで、痛みは感じなかった。外に出た後、自分の足の裏の皮がすでに前の方まで剥け、血まみれになっていたのを見てびっくりした。

気を静めて周りを見渡すと、泣き叫んでいる人でいっぱいで、友人の姿は見当たらなかった。彼は遠くない所に飲み物を入れた大きな樽があるのを見つけ、疲れきった体を這ってそこまで行き、樽の氷水に足を浸けた。しばらくして誰かが彼を流水プールの中に運んだ。そこには多くの負傷者がいた。「僕はずっと眠たかったのですが、側にいた人が眠らせてくれませんでした」。彼がショック死するのを恐れて目を覚ましているよう励ましたのだ。その間、一人の慈済ボランティアが「怖がらないで!」と彼を慰めてくれた。三時間近く待って、やっと救急車に乗せられた。

台北慈済病院に着いた時は十一時を回っていた。手元に携帯電話がなかったので、両親の電話番号を思い出すことができなかったが、実家の電話番号だけは覚えていた。ソーシャルウォーカーの林家德が連絡を取ってくれたが、九十三歳のお祖母さんが振り込め詐欺だと思って取り合わなかった。林家德はフェイスブックを使って連絡を取ることを思いつき、やっと子羨の友人という形で、座禅の修行に精を出していた父親にメッセージを送ることができた。

翌朝、父親がやって来て、子羨の友人と共にICUに入った。友人は泣き続けていた。というのも、友人はここに来る前に別の病院で昏睡状態の友人を見舞って来たばかりだったのだ。

黄子羨は火傷面積が七十六・一パーセントと診断され、一時は生命の危険を通達された。泣いている友人を見て、意識がはっきりしている子羨は、「胸の苦しみも動悸もなく、呼吸が正常で意識もはっきりしているので、大丈夫なはずだ!」と心の中で思った。

 

黄子羨は7月下旬にICUを出た。父親は大喜びで出迎え、医療チームも普通病棟までつき添った。
(写真の提供・台北慈済病院)
 

 

冷静で落ち着いた奴

事故当時、黄子羨は口と鼻を覆っていたので、吸入性火傷は軽くて済み、不快なカテーテルを入れた治療からは免れた。しかし、体の大きな面積における火傷治療の薬の取り替えが彼に最悪の苦痛をもたらした。「僕は『薬交換恐怖症』で、看護師が近づいてくると、緊張と恐怖が走りました。本当に痛かったのです」と彼は正直に言った。

そして毎回創傷清拭手術してICUに戻ってくると、体力が弱って体が冷えきり、布団を三枚かけた。例え、照り焼きの機械を使っても寒さに震えていただろう。

激しい痛みのため、鎮痛剤で抑えるしかなかったが、少し痛みが収まると、彼は首を回して看護師たちの仕事を眺めた。そこで彼らが本当に忙しく、一刻も手を休めることがないのに気づいた。患者が水を飲みたいと思ったりトイレに行きたい時は、ベルを鳴らせば、看護師がやってくる。「それでは自分は廃人と同じで、何事も他人に頼らなければならない」

体がどんなに痛くても、二時間に一回、体の向きを変え、血圧を測ったりレントゲン検査があり、夜、睡眠が十分でない時は、昼間に眠る。「よく眠れましたか?」「喉は乾きますか?」と看護師の方から聞いてきたり、心理療法士が尋ねてくるが、普段彼はあまり返事をせず、眠っていたいだけだった。

ICUにいると、一日中天井を見つめるだけの生活で、その一カ月近くの間、一日が一年のように長く感じられた。毎日、一番待ちこがれたのが朝晩二回の面会時間で、仲の良い友人が大勢来てモニターを通して会話してくれた。父親もフェイスブックに書かれた見舞いや励ましの言葉を全部書き出して、一字一句読んで聞かせてくれた。その時が彼にとって最大の慰めであった。

「僕はずっと回復できると信じていました。『死』を考えたことはありません」と黄子羨が言った。彼は終始自信を失うことはなく、肯定的に物を考えていた。心理療法士が彼と対話した時に、悪夢を見たり突然びっくりするようなことはあるかと聞くと、彼はいつも「ない」と答えた。そういうわけで、周りは彼のことを「冷静で落ち着いた奴」と言うようになった。

二回の植皮手術をしたが、彼の回復は良好で、ICUから出る頃は看護師たちに「どこに住んでいるの? 何時まで仕事?」などと会話するようになっていた。これは彼からの謝礼なのだろう。その「冷静で落ち着いた奴」は言葉にこそ出さないが、心の中では医療チームの昼夜を問わないケアに深く感謝しているはずだ。

ベッドから下りて立ち上がり、歩く練習をする

普通病棟に移ってから、「暗闇から輝く場所に来たような感じ」と黄子羨は形容した。彼自身も別人にでもなったかのように、元気が出てきた。医療関係者だけでなく、親しい友人たちもびっくりした。彼が入っている個室には、壁いっぱいに友人たちが書いた祝福の言葉や日常生活の写真で埋めつくされ、いつも誰かが食べ物を持って来て一緒に食べていた。

最初の一日、二日はベッドに横たわり、父親の手を借りて大小の世話をしてもらう必要があったが、やがてベッドを降りようと試みたところ、長くベッドに横たわっていたために真っすぐ立っているだけでも難しいことに気づき、悩んだ。数日後、体につないであったチューブを一本ずつ取り外すことができるようになってから、歩行器を使って立ったり歩いたり練習を始めた。リハビリ療法士の指導と矯正によって次第にうまく歩けるようになった。

入院期間中、一番よく世話してくれたのは父親である。彼がまだICUにいた頃、父親は毎日、息子と他の負傷者を加護してくれるよう、病室の外でお経を念じていた。普通病棟に移ってから、彼は初めは鼻チューブを通して栄養を摂っていたので、父親は持ってきた高タンパクの栄養食品を時間をかけて与えていた。また、チューブを洗浄、消毒したり冷蔵庫に収納するにも時間がかかった。それが終わって一時間もすると、同じ動作を繰り返した。一日六本の栄養分を点滴し終えるのが午前一時近くになることもよくあった。

この他、夜中にトイレに行きたい時は、父親が尿瓶を持って来たり、彼を支えてトイレに行った。彼の食事は主に流動食なので水便が多く、父親はオムツを取り替える時、水便が出ていたらすぐにベッドシーツも取り替えた。父親は一度も疲れを訴えたり文句を言ったことはなく、逆に息子がICUにいた間、介護人員がどれだけ大変な思いで彼を世話していたかをつくづく理解した。

四十日間
病床に付き添ってくれた父

「父は僕の世話で、疲れ果てたと思う」と黄子羨が言った。彼はかつて父に対して愛情表現をした記憶がほとんどない。

彼の父は敬虔な仏教徒で、父の彼に対する教育方針は自由にはさせるが、向上心と善の心を持つよう注意を喚起してきた。「頼まれれば拒まず、自ら事を求めず」というのが父の教えである。普段、父はあまり子供のことに構うことはないが、何かあって、父にやってもらいたい時は必ず来てくれる。子羨も父に生活の近況を報告する。父子はそれほど親しくはしないが、心は通じ合っている。

子羨の交遊が広いのは父も知っており、いいことだと思っていた。事故の後、あれほどたくさんの友人が心配して来てくれるのを見て、息子を自慢に思った。

今回の事故に際して、父親は内心大した感情の起伏もなく、事に当たっては感情の移入をしてはならず、泣いたりわめいたり、または怒りをぶつけても何の足しにもならないと言った。「悲しんでも事実を変えることはできず、起きてしまったことは勇敢に受け止め、自分が苦しみを味わえば、他人の苦しみも分かるのです。子羨が今回の災難を通してより深く体得してくれることを望んでいます」。父親の話は子羨にも影響を与えた。

「以前からずっと父は僕の手本なのです」と子羨が言った。以前、大学で教鞭を取っていた父が、カテーテル治療をしていた祖父の世話をするために早期退職した。後に祖母の世話をすることになり、余計に遠出ができなくなった。今回、父は北部に来て彼の世話をしているが、家を離れて四十日以上経っており、最長記録である。

「僕が父を巻き込んだのです」と子羨が言った。「父のようにきめ細かく世話してくれる人は多くありません。父は看護師に教えてもらい、果てはシーツの取り替えも手慣れたものになりました」。八月半ばに退院して北港に戻ってからも、父は今まで以上に世話するようになり、毎日細心の注意を払って作った三食のほか、おやつまで用意してくれる。そして、一日毎に彼を大林慈済病院にリハビリに連れて行き、薬の取り替えまで学んできた。

父親は陽光基金会の人に教えてもらって傷口の老化した皮膚の処理をした。まずガーゼで覆い、次に生理食塩水をかけ、三~五分浸透するのを待ってからガーゼを取り除き、その後、軽くこすれば、皮膚がボロボロ落ちてくる。処理した後の皮膚はつやつやして柔らかく、その上にベビーオイルや乳液を塗って保湿し、痒みを軽減させている。

この五、六年間、黄子羨は他県の大学に行き、就職していたので、父親とは遠く離れて暮らしてきた。しかし、事故発生以来、彼らの距離は縮まり、親子間に言葉は多くはなかったが、細かい動作の中に確かに父親の息子に対する深い愛を見ることができた。

負傷してから新たに学び始めないといけないことがたくさんある。例えば、腰を曲げて床にある靴を拾い上げるのも大変なことである。しかし、黄子羨は忍耐強く、一つ一つ克服している。
 

心の傷痕を癒す

父親の努力を黄子羨は見ていたし、感謝している。友人が家に見舞いに来ると必ず、「安全に注意を払い、命を大切にしなさい。絶対に他人を巻き込んではいけません」と父親は言った。

それは経験した者の心から出た言葉である。自分の傷ついた体で以て教えを示すことで、世の中の人々が警戒心を持ってくれるのであれば、彼は表に出る用意がある。また、傷口が治っても跡が残ることに対しては、「僕は男だから、傷が多少増えてもどうということはありません。一番大切なのは身体機能を維持することで、多少醜くなっても構いません」と彼は冷静に状況を受け止めている。

大林慈済病院のロビーを歩いていると、好奇の目で見る人もおり、「君は粉塵爆発事故の負傷者なのか?」と聞いてくる人もいる。彼は臆することなく認めるので、相手は「頑張れ!」と励ましてくれる。

何事も自分の態度一つで決まる。黄子羨は陰に隠れて生きていくのではなく、勇敢に社会に出てゆきたいのだ。リハビリにも精を出し、できれば一、二年の間に社会に復帰したいと思っている。傷は十パーセント以下まで縮小しているが、下肢を伸縮する時にはまだ、かなり痛み、長くベッドに横たわった後はまず、体を反らしてからでないとうまく立てない。しかし、彼は痛みに耐えるのは問題ないと言う。「薬の取り替えを八か九の痛みとすると、リハビリは一の痛みしかありません」

 

2時間のリハビリが終わると、黄子羨は疲れるが、汗を拭いた後、腰を伸ばして前に進む。彼は父親の細心の世話によって自分に自信を与えてくれたことに感謝している。

 

彼の最も傷ついた場所は両足で、深度が三度だが、胸や背中と上肢は二度であり、幸いにも手の指は火傷していない。それ故、彼は自分でいろいろなことができ、手を回して背中を掻くこともできる。髪の毛を剃った彼は、脚にはまだ、包帯をいっぱい巻いている。しかし、怖じけることなく、時間が証明してくれるように、全身の傷は次第に癒えていく。たとえ傷痕が一生つきまとっても、やがて心の傷痕には瘡蓋ができ、癒えるだろうと彼は信じている。

それよりも彼は父親の励ましを忘れることはない。「将来、衆生の苦しみに自分の責任を感じ取って欲しい」。何と素晴しい言葉だろう。「絶対に心に銘記し、人の役に立って、人生をもっと有意義なものにします!」

 

NO.227