生死の境を彷徨う粉塵爆発の被害者たち
青春の肌は剥がれ落ち、肉親は白髪が増えた。
血と涙の治療過程において、
一日一日が勇敢に闘って来た足跡である。
過去には戻れなくとも
未来は変えられる
六月二十七日夜、新北市八里区八仙楽園のライブイベントで粉塵爆発事故が起き、四百九十九人が負傷した。九月十七日現在、未だに百四十二人が入院中だが、その中の二十八人がICUに入ったままで、十一人が危篤状態にある。残念なことにこれまでに十二人が亡くなっている。
七月半ば、私は慈済ボランティアと一緒に新北市中和区双和病院に負傷者を訪ねた。それは事故発生以来、彼らにとって何回目の見舞いなのか数え切れない。病院の近くに住む林春金は揚げたての美味しそうなエリンギを持ってきた。そして、方素真も自家製のコーンスープを持ってきて、休憩室で患者の家族と一緒に食事を摂った。
親しい友人に対するように、患者の父親がボランティアに涙を流しながら語った。「私は人生でこのようにして涙を流すとは思ってもいませんでした」。娘の容態は安定していたが、思いも寄らず肺に吸入火傷を起こしている可能性が出てきたのだ。本来なら今日にでも普通病棟に移る予定だったが、それは失望に変わった。このところ、毎日、予期しない事態に心を揺さぶられてきた。
他の負傷者の中には小腸を切断した人や手の指が壊死した人、ICUを出たが再び戻った人、呼吸カテーテルを外した後に再び取りつけた人のことなどを聞いてきた。「負傷者の誰かが容態が変化したと聞くと、自分の娘のことが心配になるのです」と父親は焦りを見せた。内心の恐怖が終わることはなく、これからどうしたらいいのか分らなかった。
退院は喜ばしいことかもしれないが、世話する家族にとっては新たなプレッシャーの始まりでもある。ある女性は医者が退院手続きを始めるよう指示したのを聞いて慌てた。というのも、入院していた間は医療人員が介護してくれたが、「帰宅後、主人の脚の包帯の取り替えや風呂、洗髪などどうしたらいいのか?」と彼女はあれこれ考えて眠れなくなった。
事故から一カ月
傷痕の増殖と痙攣に直面して
七月十八日、爆発事故から一カ月近くが経った時、台湾全土の四千人を超えるボランティアが二十五カ所の支部をインターネットで繋ぎ、火傷患者支援団体である陽光基金会・陽光之家の杜秀秀主任の「火傷患者の世話に関する知識概論―患者の心身両面の過程」と題する講演を聞いた。
講演の内容は的確であった。
「傷痕の細胞増殖による痙攣はビニール袋を火に近づけた時のようなものです」
「火傷患者にとって火もそうですが、水も恐ろしいものです。傷口に水が触れると、普通の人には想像もつかないほどの痛みを覚えるのです」
「火傷患者が立ち上がった時、下肢が充血し、数万匹の蟻に咬まれているように感じられるので、絶えず動いたり小走りしたりします。他人にはそれが理解できず、唐突に感じられるのです。患者は体力がなく、地下鉄に乗る時に優先席に座るため、あざ笑われることもあります。それ故、患者は身も心も傷つくのです」
傷痕の痙攣、気圧服、リハビリ用補助棒など聞き慣れない専門用語を書きながらも、講演の内容を患者と家族を世話するボランティアに知ってもらい、より適切な世話ができるだろうと思った。というよりも、患者が退院し、社会に復帰した時の状況を多くの人が理解していないため、より多くの人に知ってもらいたいのである。
火傷負傷者はいつも社会に存在しているがあまり見かけることがないような気がする。私たちが彼らを見て見ぬふりしているのか、彼らが極力外出しないようにしているのか。それとも人々の偏見や不適切な対応が彼らの復帰を妨げる障害になっているのだろうか。
長いリハビリの道
皮膚は損傷しても心が傷ついてはならない
九月九日、多数の粉塵爆発による負傷者とその家族が慈済関渡園区を訪れ、證厳法師に二カ月弱にわたる心の遍歴を語った。顔をほころばせる家族もあれば、顔を曇らせたままの家族もあり、退院してリハビリを始めた人や危険な状態を脱したばかりで普通病棟に移った人、未だにICUで葛藤している人など様々である。
ある姉弟は爆発事故で負傷し、姉の方は重症の末亡くなり、弟は未だにICUに入っている。母親によると、息子がいつも姉の様子を知りたがっているが、どうやって返事したらいいのか分らない。父親の悲しむ様にボランティアたちは心を痛め、皆で彼が作った苦茶油を買い、一日でも早く仕事に復帰し、日常生活を維持しながら歩み続けられることを期待している。
患者の中には一命を取り留めるために脚の切断を余儀なくされる者もいる。ある青年は両足を失った上、今回は感染症を防ぐために右手まで切断して大切な生命を守るしかなくなった。毎日彼に付き添っている父親は涙を涸らしたことはなく、「私たちはごく普通の親です。こんなことが起きるなんて思ってもいませんでした。だから、これをどうやって受け止めたらいいのか分りません」と泣きながら言った。彼は子供に大金持ちになって欲しいと思ったことはなく、平穏無事であることを願っているだけなのだ。息子はまだ二十二歳で、これからどのような人生を歩むのか。「考えがまとまりませんが、受け止めなければなりません。今日までやって来れたのは、実は息子が私に悲しい顔をしないでと励ましてくれているからです。今はもう一つの手の指が数本しかなくても、残してやって欲しいと祈っています」
母親はそれを機に一緒に来た患者や家族に、「今現在あなたたちが所有しているものを大切にして、リハビリを頑張ってください。そして、リハビリでとても痛い思いをした時、私の子供のことを思い出してあげてください」と言った。彼女は息子が一カ月後に喉からチューブを抜き、初めて口から水を飲んだ時のあの感動を覚えている。「すごい!」。彼女は息子の強い意志に敬服すると同時に、生きてさえいれば希望があるのだと思った。
ある退院した患者は、「事故当日、僕は楽しさと恐怖と昏睡を経験し、果ては一時心臓が止まりましたが、今日は愛されていることを感じました」と言った。治療期間中、彼はこの難関を乗り越えることができるのだろうかと心配した。しかし、母が彼を失うことをとても恐れていることを知り、「強くならないわけにはいかない」と彼は思った。創傷清拭、水治療、薬の取り替え、リハビリと堪え難い痛みに襲われながらも、彼は叫んだり泣いたりせず、彼を心配してくれている人たちをこれ以上悲しませようとしなかった。また、リハビリスタッフに「大丈夫、続けて!」とも言った。何が何でも健康になり、「両親に孝行し、事故で亡くなった友人のためにも勇敢に生きていこうと思いました。」
粉塵爆発事故による十二の負傷者家族の話を聞き終えた證嚴法師は次のように語った。「怪我は子供たちの身の上に起きましたが、私たちの心の中もまた痛んでいます。慈済ボランティアが皆さんに付き添い続けられることを望んでいます。そして、子供たちが皮膚は傷んでも心が傷まないよう祈っています」
この数カ月間、「慈済月刊誌」の記者は各病院に世話しに行くボランティアと同行して、火傷患者が直面している医療リハビリを深く理解すると共に、家族の感情面でのプレッシャーを感じ取ることができた。そして、一線に立っている医療人員が肉親に対するようにケアしていることに感嘆し、ボランティアたちが通常以上に無私の態度で付き添っていることに感動した。
関連文書によると、火傷面積が四十パーセントに達すると、死亡率は五十パーセントに高まる。衛生福利部健康保険署の統計では、五百人近い粉塵爆発による負傷者の平均火傷面積は四十四パーセントに達し、台湾全土の医療機関による懸命な治療の結果、七割の負傷者が既に退院し、リハビリに取り組んでいる。慈済医療志業の林俊龍執行長によれば、このところ多くの国際的医療関係者が「これは奇跡だ!」と賞賛している。彼自身も医療関係者の専門知識と献心的な最大限の治療に敬服している。「これも世界記録の一つに入るでしょう」と言った。
直接患者に取材する時、彼らの将来を考えると私たちも気が重かった。しかし、時間の経過と共に、彼らが回復に向って奮闘している様子を見、感動と生命力に満ちた希望を感じ取ることができた。
私は杜秀秀主任の言葉を思い出した。彼らが退院して我家に帰った後、自由を奪われた体を見つめ直すと共に、社会に復帰した時、他人の目を受け止めなければならなくなる。火傷した後の人生では、毎日、数多くの試練と挑戦が彼らを待ち受けている。今回の一連の取材を通して、多くの火傷患者や同じ道を歩んで来た人が痛ましい記憶を蘇らせながら自分たちの経験と体得したことを語ることで、若い負傷者とその傍らで成す術もない愛する家族を励ましていることに、私たちは感謝している。
人生の中で予期しない重大事故に遭った彼ら、火傷負傷者はリハビリに取り組んでいるが、社会の大衆は同情心で以て見守ってあげるべきである。幾重にも包まれた包帯や傷痕にレッテルを貼るのではなく、より良く理解してあげることが彼らに対する最も現実的な励ましなのだ。
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8月下旬、ボランティアは新北市亞東病院で創傷病棟に見舞いに来る家族に隔離服を着せる手伝いをした。日常生活に関する些細な事でも、ボランティアは粉塵爆発事故の患者と家族が過ごして来た大変な時期も付き添って来た。(攝影・楊舜斌) |
火傷負傷に関する常識あれこれ・・・・・・・・
❒退院イコール回復ではなく、傷口の治癒も回復ではない。
❒火傷負傷者が数年または数十年の間に直面する諸々の手術:
段階一:創傷清拭、植皮などによる生命維持のための手術
段階二:皮膚移植など機能面を助ける手術。続いて整形、調整、保養などケア面での手術。
❒火傷によるケロイドには、負傷した部分と移植する皮膚を取ったり植皮した部分とがある。例えば、火傷面積が六十パーセントだとすると、退院後、傷跡は八十パーセントになっている。そして、異なった原因による傷跡には異なったケア方法が必要である。
❒傷跡が完治していない時期は長いもので数年に達することもあり、増殖や痙攣、水疱、硬直、皮膚のひび割れや損傷、下肢の充血など行動に影響を及ぼし、ケアが必要となる。
❒傷跡の増殖と痙攣は体全体や五官に変化をもたらす可能性がある。そのため、一定期間後に患者に接すると、容貌が変化していることに気づく。
❒一部分の傷跡でも全身に影響を及ぼすことがある。もし、リハビリが遅れれば、顔面部に火傷を負った場合、傷跡の痙攣が首の上げ下げや口に合わさり、瞼の開閉に支障をきたし、日常生活の質が大きく影響される。
❒腕や掌、手の甲に火傷を負った場合、リハビリが遅れると、手の指が反ったりするため、リハビリと手術を繰り返さなければならない。
❒加圧服は傷跡を垂直方面に加圧することはできるが、長期間、着続けなければならない。平均的に圧力が掛かれば増殖が起きても、最低限且つ平均的に抑えることができ、回復後の傷跡の見栄えが良くなる。
❒傷跡の痙攣は持続的に起き、一日中感じられるためその対応に追われる。一時間程の風呂の時間を除いて、寝る時も家族の手を借りて「牽引」や「添え木」でリハビリをしなければならない。
❒退院しても傷痕の皮膚は非常に弱く、簡単にひび割れしたり、リハビリ時に裂けることもある。また、加圧服が擦れて傷ができることもあり、それによって世話する家族が気落ちすることもある。
❒火傷負傷した後、長期間、病床に横たわっていたために、持久力が急低下し、あまり立ち上がれなくなる人もいる。患者の体格が大きくても、実際は長く立っていることができず、友人などの期待と落差が生まれてしまう。
❒火傷患者が退院した後、心肺機能や皮膚、精神面による障害のために頻繁にあちこちの病院や様々な外来で医者で通うことになる。そのため、自宅に近い薬剤師に頼んで「薬物管理」を徹底してもらうことが大事である。
❒火傷患者の中には安心感がないため「座ったまま眠る」人がいる。万が一の時に素早く反応できるからである。余りにも危機感が高いため、すぐに目が覚めたり悪夢を見る。そして、睡眠の質が悪いために、日中の体力とリハビリに影響する。
❒娯楽や趣味の中断、人間関係の変化、社会参与の減少、容易に得られない家族の支持、行動障害、容貌に対する劣等感、人々の差別などは患者が社会に復帰する時の障害になる。
❒喪失感と挫折感は創傷患者にとって、事故発生の当日だけでなく、絶えず日常生活の細々とした事の中でも味わうことになる。
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