長年の内戦で二百万人のシリア人が戦禍を逃れてトルコに避難した。しかし、逃避行は困窮の始まりであり、異境での生活は長期的な試練に直面している。
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●1人のシリア人難民がトルコ、サルタンガジ市のある市場の一角で祈りを捧げていた。
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私は家族全員が一緒に暮らせるだけでいいのですが、今はそれさえもかないません」。トルコ・サルタンガジ市の街角で、痩せた小柄なアマドが憂いをたたえた目で興奮気味に言った。五人の子供を抱えた四十三歳のアマドはシリア最大の都市アレッポからトルコのイスタンブールに避難してきて二年が経つ。避難当時、仲介業者は一人当たり千五百米ドルの報酬を受け取る代わりに、最終的に一家七人をドイツにいる姉の所に送り届けるはずだったが、トルコに着いてお金を受け取ると姿をくらませてしまった。アマドは仕方なく残ったお金でまず四人の子供をドイツに送り、自分と妻、末の娘の三人がイスタンブールに残ってもう一人の姉の所に身を寄せている。
私たちが会ったその日、彼は家族と一緒に支援物資を受け取りに来た。戦火の下にある故郷や避難の道中に話が及ぶと、皆、当時の悪夢が蘇ったように不安な眼差しになった。全員の記念写真を撮ろうと提案すると、アマド以外は無理しながらも笑顔を浮かべてくれた。それは彼にとって永遠に家族写真と呼べるものではないのかもしれない。
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●アレッポから来たアマド一家は歩いて物資を受け取りに来た。4人の子供を先にドイツに渡らせるために彼は貯蓄を使い果たした。今はイスタンブールで懸命に生計を立てながら、いつか一家が揃うことを願っている。
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押し寄せる難民がトルコ社会を揺さぶる
トルコにはアマドと同じように戦禍を逃れて来たシリア人難民が二百万人いる。人口がわずか六十万人のサルタンガジ市だけでも十万人近いシリア人難民がいる。現地の主な産業は伝統的な家内工業的な靴の製造や縫製で、非正規の違法労働に就けるチャンスが比較的多いため、難民が多く集まるのである。慈済基金会と協力しているジュマ教授もそこの住民で、それもあって、そこが物資配付の重点地区になっている。
二〇一一年にシリアで内戦が勃発して以来、二十万人が死亡し、四百万人が故郷を離れ難民となっている。トルコと隣接したシリアの間には隔てる海はなく、地理的な条件から難民がヨーローッパに渡る前の飛び板的な場所になっている。それ故、内戦勃発以来、絶えずシリア人難民が流入しているのである。
トルコはこれまでに難民関係に費やした経費は四十五億ドルに上り、近隣中東各国よりも設備が整った難民キャンプを二十二カ所も建設してきた。
トルコ人もシリア人もイスラム教を信仰しているが、アラビア文化を根源に持つシリア人はトルコ人とは数多くの点で異なっている。最大の問題は言葉が通じないために様々な摩擦が起きることである。
トルコが傷ついた隣人に援助の手を差し伸べるのは人道的な観点からであるが、押し寄せる難民がもたらす派生的な問題は大きくなる一方である。その一例は、国境沿いに流れ込んだ難民の数が現地の人口をすでに超えていることである。トルコの法律では許可のない外国人は仕事に就けないことになっているが、実際は本腰を据えて取り締まりを強化してはいない。そうとはいっても、違法に仕事をしているシリア人難民は労働保険を取得することができない上、労働時間が非常に長い。難民の数が増え続ける中、トルコは財政面で試練に直面している。大量の難民は大きな労働力には違いないが、現地の労働市場に直接影響を及ぼしている。トルコ人の月額最低賃金は二千リラ(約八万五千円)であるが、シリア人難民を七百リラから千三百リラで雇っている工場もあり、賃金の安いシリア人を雇って現地人の失業率を上げる結果となっている。また、仕事を見つけられない難民は路上で物乞いになるため、より大きな社会問題になっている。
この他、EU各国の難民政策もトルコに影響を与えている。国連難民高等弁務室の資料によると、二〇一五年九月までに約四十万人のシリア人がEU二十八カ国に亡命の申請をしている。ドイツのメルケル首相のように公に各国に対して難民の受け入れを促している国もあるが、第二次大戦以来最大の難民危機に直面して、EU各国政府と民間の間で意見が分かれている。多くのヨーロッパ市民は新しい移民が自国の就職や教育、社会福祉に影響を及ぼすことを懸念している。ハンガリーのような後からEUに加盟した国は、国境を閉鎖して新たな難民の流入を防いでいる。
もし、EU各国がシリア人難民の受け入れを拒否するようなことになれば、トルコに滞在している難民はトルコ社会により大きな衝撃を与えることになるだろう。
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●難民は身分証明書を提示して米と小麦粉などの差し迫った物資を受け取っていた。
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厳しい生活を強いられる難民
千年以上も前から交易の要所であったイスタンブールの繁華街は、世界各地の観光客を魅了してきた。ヨーロッパとアジアにまたがる地理的条件によって、この都市は融合した文明の光を放ってきたが、その偉大な建築物から路上に目を移すと、常に子供連れの難民一家が路上生活をしていたり、物乞いしているのが目につく。
私たちはスハラの後について街を通り抜け、家賃が月八百リラ(約三万五千円)のこじんまりとしたアパートに着いた。以前はシリアで服飾デザイナーをしていたスハラは、五カ月前にアレッポからイスタンブールに密入国して来た時の服をいまだに着ていた。末の息子アダハジが人見知りしながらも彼女の側で避難して来た時に持ってきた玩具で遊んでいた。物静かな彼女は、シリアでは心配のない生活を送っていたが、今は夫と長男が工場で月給千八百リラの仕事をしながら貧しい生活を送っている。
モハメッド・フセイン一家は細長い小さな応接室に私たちを迎え入れた。彼は以前、脊椎を損傷したために働くことができず、仕方なく十三歳と十一歳の子供を働かせている。「長男は仕事から帰ってくると、疲れてそのままソファで眠ってしまったり、ストレスのあまり大声で叫ぶ時があります」。モハメッドは可哀想には思うが、どうにもならない。
「シリア人の子供は学校に行くことができなければ、街で物乞いするか、未成年労働者になって一日に十二時間労働の仕事に就くしかありません。それは将来、トルコの大きな社会問題になるでしょう」と台湾駐トルコ事務所代表の鄭泰祥氏が言った。「難民の子供たちは教育を受けて状況を好転させることができなければ、永遠に社会のどん底で暮らすマイノリティーになってしまうでしょう。トルコ全域で約三十万人のシリア人難民の子供が教育を受けられないでいます。イスタンブールだけでも六万六千人ほどおり、彼らは家計の必要性に迫られて外に出て働いているのです」
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慈済基金会はサルタンガジ市野菜市場で物資の配付活動を行った。入り口は日用品を受け取りに来た難民でひしめきあった。 |

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メナヘル小中学校で始業式が行われ、生徒が整列して教室に入るのを待っていた。
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学費支援計画で希望が見えてきた
トルコ人はシリア人難民のことをどのように見ているのだろうか? 私はイスタンブールのメナヘル小中学校の前で子供を学校に送ってきたトルコ人のアリにこの問題を聞いてみた。「私たちは皆、兄弟であり、互いに助け合うのは当たり前のことです」と彼は平然と言った。
午後二時半、太陽は眩しかったが暑いほどではなかった。メナヘル小中学校第一校区のトルコ人生徒たちがスクールバスに向かって走って行った。一番楽しい時刻である。校庭のもう一方には六百人近い生徒が隊列を作って整列し、同じ教室で授業を受けるために入る準備をしていた。午前中はトルコの伝統的なコーラン経学校であり、午後はシリア人の子供たちに教育を受けさせる場として提供している。
台湾慈済基金会の支援とイスタンブール市政府の協力の下に、二〇一五年初頭から難民の子供たちのために二つの学校を立ち上げた。すでに千六百人の生徒がここでトルコ語、シリア語、歴史などを勉強している。
十二歳のアハアは父親が他界し、兄も戦争で亡くなった。一家は母親ともう一人の兄の三人だけだ。慈済の学費支援計画に参加する前、彼は家計を助けるために仕事をしていたが、やっと学生の身分に戻り、今は六年生である。彼の同級生であるアヤは二年間働いていて、縫製工場で働いている父親と共に家計を背負ってきた。慈済の学費支援計画は学費を支援するだけではなく、一月三百から八百リラの生活補助金を出して、勉学によって家計に影響が出ないようにしている。
十月十七日の朝、アルナヴトコイ市立駐車場の外は物資の配付を待つ難民であふれ返った。慈済基金会は二〇一四年から大規模な物資の配付活動を続けて来ているが、消息が広まるにつれ、物資を受け取りに来る人は毎回増え続けている。
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少なからぬシリア人は慈済の支援を受けた後、配付活動会場でボランティアとして配付物資の整理を手伝った。言葉は違っても、彼らは台湾からの善意と情熱を感じ取っていた。
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「私は毎月借金して生活するしかありません」。名前を明かしてくれなかった女性は2人の娘と家賃600リラの小さいアパートに住んでいるが、それ以上に出費を減らしたいと思っている。シリア人難民が増えるにつれて借家の需要が増加し、サルタンガジ市の家賃は上昇を続けている。それを負担できない数多くの難民は他に移るしかなく、引っ越しする度に小さくなり、家賃は高くなる。
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<学校に戻る願望>
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●(左)スハラは長男の写真を手に持って、爆弾が故郷に落ちて来た時の様子を語った。以前、シリアで不自由のない生活をしていた彼女は教育の大切さを知っている。彼女は学校に行けず、働いている長男が再び高校に通えるようになることを願っている。
●(右)42歳のナバフは80歳の父親と9歳の息子を連れて、別の地区から一時間半かけて物資を受け取りに来た。一家9人はトルコに来て1年半になる。今のところ仕事は安定しているが、息子は学校には行っていない。「学校に行くべきですが、行かせられないのです。また、妻は足を怪我して手術しなければなりません。どうしたらいいか分りません」。ナバフはアラーに感謝すると同時にあきらめたような口調で言った。
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モハメッド・フセイン一家は細長い小さな応接間に集まった。2人の子供は働かなければならなかったが、慈済の学費支援計画に参加してから、やっと工場を離れ、学校に戻ることができた。 |
各国は難民と共存する試練に立たされている
難民は経済成長の力になれる一方、国を破綻させる可能性も秘めている。しかし、彼らの困窮した状況は数字だけで解決できることではなく、国境を越えてやって来る数字の中の一人ひとりが生身の人間であり、一つひとつの家庭の移動なのだ。
難民を受け入れるトルコとEU各国にとって、難民政策は大きな賭けのようなものである。しかし、先の長い人生を歩み始めたばかりで、遠く故郷を追われたシリア難民の子供たちにとっては、他人の学校を借りて授業を受け、放課後も字を書く練習に励まなくてはならないが、人生の希望はここから始まると同時に、知識だけが彼らの境遇を変えてくれる唯一のものである。
慈済の支援チームがサルタンガジ市で物資の配付をしていたのと時を同じくして、ドイツのメルケル首相がイスタンブールでトルコの首相に会い、押し寄せる難民の解決策を話し合っていた。EU各国は大量の難民がヨーロッパに流入するのを抑えるために、三十四億ユーロを拠出してトルコを支援することを首脳会談で合意した。それと共に、トルコのEU加盟を加速すると同時に、トルコ国民のEUへのビザをなくすことで、難民をトルコに留まらせる案が検討されている。難民が自力で必死に生活する一方で、彼らの運命は大国間の政治的な駆け引きに左右されようとしている。
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慈済ボランティアは朝日が射す中、難民の家を訪問し、彼らのニーズを理解して最適な支援をしようとしている。
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