曽文ダム付近にある大埔医療所は、
台湾一赤字の巡回医療所。
十二年間、漢方医の葉明憲医師は山間部での医療に従事してきた。
これまでに往診で回った距離は地球四周分にもなる。
山に囲まれ風光明媚な碧色の水辺には、病に苦しむ人たちがひっそりと暮らしている。
生まれつき立つ力の弱い吟淑がまた転び、母親の林鳳為は吟淑を連れて慈済大埔医療所は駆け込んだ。鳳為はポケットから心臓病の薬「救心」を取り出して飲み込んだ。
二、三度深呼吸をして目頭に涙を浮かべ、「この子を私より先に死なせないで……」と訴えた。障害を持つ子の親の心からの悲痛な言葉だった。孤立無援の時、彼女の足は大埔医療所に向かう。ここには安らかな心のよりどころがあったからだ。
吟淑は生まれた時、重度脳性麻痺と脊髄小脳変性症の合併症があって、真っすぐに立つことができず、歩く時はふらふらして、言葉もはっきり発せられない。もともと裕福ではない暮らしに、吟淑の病は重くのしかかった。
嘲笑、批判、偏見の目に耐え、歩行不全によって転ぶ度にできる傷跡を見ては涙した。娘が生きる道を見出せることを願っていた。
嘉義県大埔郷は山々に囲まれた風光明媚な土地だが、ここに住む人の生存条件は厳しいものである。財産もない林鳳為は家計を維持するためあらゆる仕事をかけもちし、夫は農務のかたわら道路補修工事現場や建築現場の作業員として働き、夫婦は休む間もなかった。黒く日焼けした顔や手、疲労による全身の痛みや慢性病など、山に住む人たちは必然のものと受け止めている。
林凰為は将来を思って、南部の屏東にある障害者特別学校に娘を入学させた。片時も離れずにいた娘を遠くに送ったことは身を切られるほど辛いことだった。
吟淑は山地に住む人にとって当然の苦労をまた自分自身も経験してきた。努力して専門学校を卒業したが、身体と言葉に障害があり、職に就くことができなかった。障害者として冷たい仕打ちを受けたのち、唯一残された道は故郷に帰る以外になかった。
吟淑の栄養不足を気にかけて、葉明憲医師が山へ行くリハビリ師に託して栄養品を渡していることに、林凰為は感動していた。葉医師が関心を寄せていたのは彼女一人だけでなく、診療時間が終わっても患者を断ったことはなく、山の上に重症患者がいると自分から出向いて治療し、患者の一日も早い回復を願っていた。
通信回診によって両方の患者を護る
この辺りはたけのこの産地で、少なからずの外貨を得ている反面、この厳しい農務や収穫は大埔郷の農民にとって大きな圧力になっている。阿恵さんはナイフの反復作業によって腰を痛めたが、サポーターをつけながら生活のため仕事を続けてきた。大埔診療所で葉医師の針灸とリハビリの治療を受けて、十年来手放せなかったサポーターをつけなくても作業ができるようになった。
二○○七年、大林慈済病院と嘉義県衛生局が提携して山で健康検査を行った。この時、林俊龍院長が林鳳為の心臓閉塞を見つけて、即刻治療を始めた。
当時、大林慈済病院の専門医チームが大埔診療所の後ろ盾になって、遠隔地への回診を行い、村民は遠くの病院まで行く時間が省けて、林鳳為の心臓と血圧は平常値を保つことができた。医師、看護師、リハビリ師は彼らが頼りにする人たちであり、友達でもある。
村人が困っている時に大埔診療所へ行くと、葉医師やスタッフは彼らの苦しみに耳を傾け、やさしく寄り添って励ます。林鳳為もどんな苦労も診療所の愛に慰められていると言う。
この世から取り残されたような大埔診療所
広大な曽文ダムは台湾最大の貯水量を有し、嘉南平原に多大な恩恵をもたらしている。しかし貯水池の近くに位置する大埔郷は数十年来、黙々と平野部に発達と繁栄をもたらしているのにもかかわらず、山地の大埔郷は何の恩恵も受けていない。
以前ダムの下方にはにぎやかな街があったが、水位の上昇に従って大埔の人たちはこの地に移転してきた。水源保護区には工業はなく、建設も許されず、満天の星の下に孤立した寒村の風光明媚は都会人のあこがれの地だが、若者や医師はここにとどまらない。
かつて政府は大埔郷に診療所を開設したが、長くは続かなかった。一九九六年に再び診療所をオープンする予定だったが、来る医師がいなかった。その後、二○○二年に大林慈済病院が引き受けてから、内科の林繁幸医師が駐在し、漢方医の葉明憲医師が毎週診察に行くようになった。
曲がりくねった台三号線の山道は大雨になると、土砂崩れで大雨の度に復旧工事を繰り返している。この道は大埔郷の人たちが外へ出る唯一の道である。十年以上も葉明憲医師は堅い意志を持って山地での医療奉仕を行ってきた。
「私は大埔の山水風景に魅せられた」と言う葉医師に、大埔との因縁を聞くと何のためらいもなく、「すべてが当たり前のことですよ」と言う。
実習医の頃、慈済人医会の大埔郷の施療に参加していた時、曲がりくねった山道に車酔いする人もいたが、彼は窓外の景色に見とれていた。そして、大林慈済病院が大埔診療所に漢方部門を開設すると勇躍志願した。
大林の市街を出発して、中埔、番路を経て大埔まで車で往復三時間以上はかかる。二○○七年の夏、豪雨の後大きな山崩れがあった。そこを運転していた葉医師は、ぬかるみに車輪が滑って、ハンドルを切り返した途端山壁の脇の溝に落ちた。救いを求めようにも携帯電話は通じず、途方にくれていた時、大埔衛生所の看護師がそれを知ってクレーン車に連絡してくれた。そしてかけつけたクレーン車の運転手が慈済ボランティア陳励華の息子だった。
長年陳励華の夫は脳卒中で、気管支に管を入れる必要があったが、健康保険の制限によって病院を転々と変えなければならなかった。一年前、陳励華は夫を大埔へ連れて帰り、葉医師は毎日診察を終えてから彼の家へ出向いて鍼灸治療を施し、今では体と精神状態が大分回復している。
路は切れても情は切れず
責任は未だ終わっていない
約一年前、治療にきた患者が葉医師に車の運転に気をつけるように注意をしたが気に止めなかった。それからしばらくして山道の大きなカーブで向かい側から突然大型トラックが現れ、ブレーキを踏む間もなく、あっという間にすれ違った。幸い大事に至らずサイドミラーが壊れただけだった。
彼は気が静まってから考えた。すべてに暗黙の加護があったから大事に至らなかったのだと。山の人たちが自分を必要としているからで、それに自分もこの地の人たちのおかげで幸福でいられるのだと思った。
十二年来、唯一休診したのは風災後重大な山崩れで交通が遮断された時だった。大埔診療所の診察から患者の往診に車を走らせた道のりは実に地球四周分にも相当する。彼が常に思っていることは、「私が車を走らせれば患者が出てこなくてもよい」ということだ。
寒村では能力のある人は生活のために忙しく働いている。バスもなく、行動が不自由な人や年寄りは診療所まで一人で歩いてこなければならない。ある年寄りは傷ついた足を引きずって六キロの道を歩いて診療所まで来た。そんな村人たちの苦労を見かねて彼は奔走している。
「この診療所で質の高い治療はできませんが、村人は喜んでくれます」と。医師と患者が互いに思いやっているのが、大埔診療所運営の特色だ。
健康保険署が大埔診療所の漢方科に支払う金額は実際の半分程度で、その往診の頻度の多さに健康保険署の検査員は驚き、全国一の赤字診療所とのレッテルをはられた。今まで何の憂いもなく山村に貢献できたのは、ひとえに大林慈済病院の支持があったからだ。
十二年間ケアしてきたお年寄りがさらに老いている今、自分の責任はまだ果たされていない。村人たちに必要とされていることが活力を与えている。「私は彼らのケアをしていると言いますが、その実私は彼らの世話になっているのです」と。
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