慈濟傳播人文志業基金會
大愛の道を広く世界に 古から変わらぬ長い情の道を
恐怖、苦痛、恩讐は
人心に悪に種を繁らせ
世界に無尽の災難をもたらす
情を長くして大愛を拡げ
人心に愛の種を撒いて
この世に希望の花を咲かせよう
 
シリア内戦が勃発して四年。これまで約四百万人が故郷を後に逃げ出しています。彼ら難民は、風雪の中を荷物を背負い、幼子を抱いて長い泥道を歩き、途中少なからずの人たちが命を落としています。たとえ苦労のすえに他国へ辿り着いても、その門が閉ざされていることもしばしばです。
人がもたらした禍の苦しみを見るに忍びません。ヨルダン、トルコ、ドイツの慈済人は長期にわたってシリアの難民に物資や医療を提供し、子供の教育に関心を寄せ世話をしています。奉仕の時には宗教や民族の壁を取り払って、相手を尊重し誠意をもっていたわり、この世にも温かい愛のあることを実感させています。
トルコでは百万人以上のシリア難民を収容していますが、労働の場を提供することができません。そこで多くの難民家庭では子供たちがアルバイトすることによってやっと一家の生計を維持しており、過酷な生活を送っています。難民児童は残酷な戦争によって祖国を後にしなければならず、異国で過酷な労働の試練に直面しています。彼らは精神的な苦痛を強いられており、もしも恐怖や苦痛、恨みの種が心に植えつけられれば、その将来を憂慮させられます。
トルコの慈済ボランティアとトルコ政府、そしてシリアの知識人は協力して、難民児童が学校に戻り、教育によって彼らが恨みや復讐心をなくし明るい世界に向かっていくことを願っています。さらに彼らの心田に愛と善の種をまくことができるように願っています。
時間、空間、人間の「三間」には、人と人との情だけをとどめることができます。この世の平和平安にとって「誠」はなくてはならないものです。ですから「誠の情誼はこの世の吉兆である」ということができます。
今年の年末祝賀会を催すにあたり、私たちは「大愛の道を世界に向けて広げ、情の道を長く古から今に至るまでつなげよう」を来年のテーマとすることにしました。慈済が設立してから五十年来、九十二カ国に慈善活動の足跡を残してきました。世界中で天災と人災が頻発しているこの時代に、大愛の情を長く持続的に展開し、慈悲と智慧を以て精進し、苦難の人々を助けていかねばなりません。
毎年行われている「海外委員研修会・慈誠精神研修会」が、十一月七日から二十四日まで開催され、三十カ国以上の慈済人が参加しました。そのうちの千七百人は現地ですでに慈済委員や慈誠の見習い訓練を終えており、今回台湾で認証を受けました。
台湾の委員たちは、世界各地で愛の奉仕をしている人たちがはるばる帰ってきたことに感謝し、喜んでおもてなしをしていました。帰ってきた海外の人たちも、細やかな誠意に満ちたもてなしに応え、お互いの間には感謝と尊重の愛がありました。
海外や本国の慈済人の発心因縁はそれぞれ異なっていますが、仏縁と私との子弟縁にいささかも変わりはありません。慈済の大家庭の中で皆は「仏の心を以て師の志を己の志とする」という志を抱き、仏と同等の広い心、何物にも染まらない清らかな大愛を以て、師の志願を実践し、天下の苦難の人々に抜苦与楽をしています。そして、人々は明るい大道へと導かれ、なお正しい方向へと邁進しています。
人々はみな清らかな本性を持っていますが、一念がずれてしまうと分別心がなくなるのは真に惜しいことです。そして貪欲な愛、対立、仇や恨みはこの世にさまざまな禍をもたらしています。慈済は「仏教のために、衆生のために」の志をもって、半世紀以来「人心の浄化」「愛の心の啓発」に終始一貫努めてまいりました。それは社会や人心の安定と、人間に平和を促す重要な力でもあるのです。
 
日々善の心を起こし
時事善事を行い
無明の雑草を刈り取って
悪に影響を受けないように
 
人々は皆仏と同等の清らかな本性を持っていますが、残念なことに幾世も無明に染まっていたために、煩悩が複製されて良からぬ習気が成長して、世界が堪忍世界となりそれが絶え間ない苦しみとなっているのです。
心根が乾燥していると、少しの風にも砂塵が舞い上がり、暗く覆います。しかし精進法を聴くと、内心にまで吸収した法の一滴一滴が、心を潤して清い本性に立ち返って少しのそよ風にも砂塵は舞い上がりません。
仏陀のお教えに「諸悪を作るなかれ、衆善を奉行せよ」とあります。その実、皆にはそれができるのです。それは善念を培う所から始めて、日々善の心を起こし常に善を行えばそれだけでいいのです。善行の習慣があれば、悪習にしばられず、毎日が楽しく自在になります。
一般の人は自分の好きな物を見つけると、欲念を起こして自分の物にしたがるために、消費の習気になります。また口欲を満たすために惜しげもなく、動物の命を犠牲にします。それには、わずかでも不善を取り除くことから始めて、愛欲を節制し、貪らず、口欲を野放しにせず生きとし生きるものの命を尊重することです。人、事、物に対して意にならなくても忍べば、大空のように心が広々とします。さらに進んで、愛を必要とする人に分け与え、布施をすることです。
要するに善の種を心にまくと雑念は生じません。もしも角つき合えば心は晴れ晴れとせず、自分が造った無明煩悩の業力に自分を困らせるだけです。善法を心に取り入れ、日々善事を行うと心身ともに安らかになります。無名の雑草が心田にはびこらせないように護ると慧命はすこやかに成長します。
 
一切の煩悩を消滅し
広く一切の衆生を済度し
初発心を永久に持ち続け
菩提の大道は真っすぐに
 
《法句譬喩経》に記載されています。
仏陀が霊鷲山でお経の講釈をされていた時、一人が前に出て、出家して修行したいと言いました。仏陀が「なぜ修行するのか」と聞くと、「家では妻と子のために生涯忙しく、気がかりがなくても苦しいのです。仏に私の出家をお願いして、世間の真理を体得して仏法を大衆に広めたいのです」と。
出家した後、彼は山に登り日々樹木、草花、水の流れを観察して「この世は無常」という自然の法則を会得しました。こうして三年が過ぎ、何の得る所もないので、むしろ家に帰って家庭の団欒を享受したほうがよいと思いました。
仏陀はそれを知ると、神通力を使って出家僧の身になり、比丘の所へ行って路を聞くふりをして、彼と一緒に山を降りました。すると突然年取った猿がいるのを見て、出家僧は「おかしいな。この猿は林の中にいなくてはならないのにどうして平地にいるのだろう?」と聞きました。
比丘は「私はこの猿を三年間も観察していました。猿には妻も子もいるので毎日樹林の中を忙しく、家族のために、山を登ったり降りたりして水や果物を取っていたので、手足がこんなになってしまったのです。あまりの苦労を逃れ、休むために山を降りたのでしょう」と言いました。
しばらくして猿がまた山へ戻ったのを見て、出家僧は「おかしいね、山から降りたのになぜまた山に登るのだろう」と言うと、比丘は「猿は家族のことが忘れられず、恋しくてまた山へ登って行ったのでしょう」と答えました。
比丘が話し終わると、眼前の出家僧は仏陀だと気がつきました。仏陀は出家僧に身を変えられて、心に迷いのできた比丘を済度されたのです。比丘は恥ずかしい思いで、ひれ伏し、仏陀に懺悔しました。
仏陀は「絶え間なく流れる河の水のように、人の信念もとどまらずにたえず変動します。もしも堅い初発心を持つことができなければ、時はむなしく流れ去り、六道輪廻の中では、この猿と何の違いがあるのでしょう?」と諭されました。衆生済度の情熱が冷め自修するだけでは、自分の済度だけを求めることになってしまいます。
仏陀はさらに「愛の結びは藤のつるのようなものです」「人心の貪の愛はこの藤のつるのようにがんじがらめに身にまとわりつきます。愛欲が尽きず、煩悩が清められないと、この猿のように樹林の中を行ったり来たりして、苦しみに合います。智慧を以て煩悩の根源を断ち切らなければなりません」と教えられました。
比丘は毎日、花が開きしぼむさま、川の水が逆流しないさまを観察していても、さらに深く考えて、過ぎ去った命は帰らないことを体得していませんでした。そして日々自修にだけ努め、衆生済度の願いを失っていたのです。
比丘は仏陀に感謝して僧団に帰り修行しました。
多くの人は初発心を起こした時は熱心に精進し、自分と人の済度に情熱を傾けます。しかし発心をいつまでも持ち続けるのは困難で、次々と直面するさまざまな試練に耐えられず、煩悩雑念が日々累積すると続けることができなくなり、最後にはあきらめてただの自修、自分だけの済度になります。
仏陀はこの世にこられて「開、示」を人々に求め、「悟、入」は菩薩道で努め励むことです。《法華経》では人々が大心を起こして、大願を立て、菩薩道を通して成仏することと励ましておられます。
人間菩薩として発心立願したからには、常に初発心を保ち続けているかと反省する必要があります。
《法華経‧化城喩品》の中に、衆人が危険極まりない悪道、曠野無人の恐ろしい所に来ていても、導いてくれる師がいるならば、皆をこの悪い場所から離れさせ、真の宝蔵のある所へ導くとあります。ただし衆人が前途渺茫の道で、ただ休息の所を探しているのなら、前進は望めません。
導師が皆を励まして、険しく長い道を歩いてきたのは、宝を求めるためではありませんか? 「それなのになぜその宝を放棄しようとするのですか?」と。そして前方に城を出現させて一時休息させました。
疲れきった大衆は前方にある城を見て、安心して休める所があると非常に喜びます。しかし入った後、あまりの快適さについ最初の目標を忘れて、いつまでもこの生活を享受したいと思ってしまいます。
そこで導師は宝物は城と別の所にあって、この城はたんなる幻で真実ではないので、体力が回復したら、続けて前進しなければならないと。衆人は幻の城がなくなったのを見て、身を起こし目標に向かって前進しました。
仏陀はこの譬えを用いて皆をお教えになりました。「煩悩悪道、険難長遠」ということは、人生の煩悩から離れて、悟りの道に邁進すべきであると。「仏道長遠、久受勤苦、乃可得成」とは、必ず苦労に耐えて、慇懃に精進してこそ成仏の目標に達するということです。
仏に学ぶ者は、ただ自分だけを済度し、己の生死離脱を求めるものではありません。人の中に入って自らを鍛え人を救いましょう。人の中にこそ宝があるのです。大切なことは堅い意志をもって、人の中に入ってもその習気に染まらず、法を以て一切の煩悩を取り除いて、広くすべての衆生を済度することです。
              
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人々の心に秘めている宝蔵とは、清らかな真如本性のことです。ただ思慮に欠けた心の動きのままに行動する過ちの道は、人生に危険をもたらします。
仏陀は一本の菩提直道を私たちに示されていますから、発心を持ち、篤い信心でひたすら目標に向かって前進しなければなりません。途中で道に迷ったら、ただちにきびすをかえすことが必要です。心の道が真っすぐに通っているならば、自ずと妨げるものはありません。
《普賢菩薩警策文》の中の一句に「是日己過、命亦随滅」とあります。命とは一日過ぎると一日なくなり、一年過ぎると年は一つ減ります。時を把握して正しいことを実行すれば間違いはなく、志を無明煩悩に動揺されてはなりません。
皆さんの精進を期待しています。
 
NO.228