プロフィール:1959年生まれ。2001年慈済委員の認証を受け、慈善家庭訪問への参加を開始。
訪問ケア経歴:14年
訪問ケアの秘訣:家庭訪問の対象者を自分の家族だとみなし、それからもし自分が困難に出合った時に家族にどうしてほしいかを考える。こうすれば、どのように援助すべきかおおよそ見当がつく。
訪問ケアの心得:気持ちの切り替えが大事。物事を複雑化せず、シンプルに捉えれば、自然と恨みつらみを言わなくなる。
八月二十日午後、五十名近くの台北家庭訪問ボランティアと慈済基金会ボランティアが慈済東区連絡所に集まり、各区の連絡所が報告した八仙水上楽園爆発事故被害者の長期サポートプランについて、話し合いを行っていた。
板橋区家庭訪問幹事の李瑾萍は、連絡所に駆けつける直前まで、亜東病院で負傷者と家族に付き添っていた。李瑾萍が付き添う負傷者の一人、小美(仮名)は、全身の熱傷面積が五十%を超え、病院に運ばれた時には意識不明、十日後にようやく意識を取り戻した。小美の両親は折悪しく健康状態が優れず、父親は働くことができなかった。四人の子供を育てる一家に余分な貯蓄はなく、突然の事故を前に一家はなすすべを知らなかった。李瑾萍は聴衆の前で小美一家の直面している苦境をよどみなく報告し、皆の討論を経て、ついにサポートプランが決定した。
「この間本当にお疲れ様でした。これは二十日から三十一日までの看護補助費です」。二日後、李瑾萍は祝福金と約束してあった竹の貯金箱を自ら小美の両親に手渡した。ずっと気がかりだったことが多少とも解消され、「この子たちは必ずだんだん良くなっていく」、李瑾萍は心の中でこう祈っていた……。
片足をひきずっても
悠々自在
彰化県溪州郷に生まれた李瑾萍には、三人の兄と三人の姉がいる。李瑾萍は生まれてまもなくポリオウイルスに感染、母親が懸命に病院に連れて行ってくれたおかげで病状は何とか安定したが、右足に麻痺が残った。膝にたびたび痺れが起こり、ふいに足の力が抜けて転んでしまうこともあった。
しかし李瑾萍の両親は彼女に対し特別な扱いをすることはなく、兄や姉がかごを背負って川辺へ野草を採りに行くときには、彼女も同じように一かご背負って来ては、家のガチョウに与えた。また、洗濯物を干す母の手伝いをしたり、田んぼから帰って来た父が足を洗うための水を汲んで来たりした。そのため、歩く速度は遅くても、李瑾萍は自分が人と違うと感じるようなことは決してなかった。
小学校に上がり、少数の同級生から「びっこ、びっこ」とからかわれた時には、他の同級生と自分を比較し、李瑾萍は自分の不自由な身体を恨みに思うこともあった。ほぼ毎晩、母がマッサージしてくれたが、その痛みを思い出すと李瑾萍は今でも寒気立つ。母からマッサージされる時間を減らそうと、彼女はよく、わざと平気な様子を装っていたものだ。
早期の治療と持続的にマッサージを行ったおかげで、李瑾萍の右足の萎縮はそれほど目立たず、中学生の時には自転車で登下校していたほどだ。最初のころには自転車に乗る時、木に寄りかかり、下りる時も木につかまらなければならなかったが、練習を続けるうちに全く一人で乗り下りができるようになった。
こうした身体の多少の不自由はあったが、李瑾萍は毎日楽しかった。末っ子だったため、家族に特別可愛がられ、同級生とピクニックに行きたいと言うと、バスで行けるところなら両親はどこへでも行かせてくれた。とはいえ車酔いしやすい彼女は、乗るとすぐに吐き続けるため、終点まで乗れたためしはなかったのだが。しかし遊びに行くのが大好きな彼女は毎回友達についていった。あるいは彼女が本当に好きだったのは、出発前、友達との間に生まれる連帯意識だったのかもしれない。
暮らし向きは楽とはいえなかったが、両親はいつも気前がよく、家のサツマイモの収穫期には、必要な人に持って帰ってもらおうと、玄関前に並べて置いていた。こうした家庭に育った李瑾萍は、自然と両親と同じように客好きで大らかな性格となった。
長期の寄付
震災後のボランティア参加
李瑾萍の学校の成績は優秀で、高校にも合格した。しかし将来、不自由な足で一般企業に勤めるのは難しいだろう、それよりは一芸を身につけ、家で仕事をした方がいいと考えた彼女は、学業をあきらめ、二番目の姉とともに裁縫を学ぶことにした。
偶然「慈済月刊」を読み、深い感銘を受けた李瑾萍は寄付を始め、十五年間定期的な寄付を続けた。裁縫をする時間を利用して、いつもラジオ番組「慈済世界」を聞いていた彼女は、いつか師父(證厳法師の尊称)に会う機会があったらどんなにいいだろうと考えることもあった。
因縁が巡って来たのかもしれない。ある日、李瑾萍宅の上の階に住む慈済委員の呉貴月は、李瑾萍宅の郵便受けに「慈済道侶」という雑誌が入っているのを目にすると、興味が湧いて彼女に声をかけた。呉貴月の手元にはちょうど、「慈済列車」の切符二枚があった。こうして李瑾萍と夫の林玉地は、それぞれ子供一人を抱え、一家四人で汽車に乗り花蓮へ向かうことになった。李瑾萍が正式に慈済の大家庭の一員となり、ボランティアを開始したのはその時からである。
ただ拘束されることが嫌いな李瑾萍は、呉貴月から何か役目を引き受けるよう促されると、自分は趣味のボランティア、何かあればお手伝いしますから、といつも言を左右にして断っていた。
そんな彼女を動かしたのは、一九九九年の台湾中部大地震だった。天災のもたらした深刻な被害を目にした李瑾萍は心を痛めるだけでなく、自分の力で何かをしたいと願った。夫とともにボランティア訓練に応募し、また被害救済の資金集めのためのバザーにも積極的に参加し、近所の人たちを誘ってどら焼きや餃子、臭豆腐、タロイモのカキ氷など売れるものは何でも作って売った。働きすぎて手には水泡ができたが、それでも彼女はうれしかった。買ってくれる人が多ければ多いほど、援助を受けられる人も増えるのだから。
家庭訪問の秘訣
真心をもって付き添うこと
二○○一年、李瑾萍は慈済委員の認証を受け、呉貴月に連れられて家庭訪問案件に参加した。家庭訪問を終えた時、「これは家庭訪問状況の記録ノートです。中に雛形がありますから」と言って、呉貴月は一冊のノートを彼女に手渡した。李瑾萍は見よう見まねで訪問した家庭の深刻な現状、経済状況などを書き記した。家庭訪問との長い縁はここから始まったが、その時の家庭訪問対象者の家族であった鄭宝珠こそ、李瑾萍が初めて引き入れたボランティアでもある。
鄭宝珠の夫は口腔がんの末期で、がんが発見された時、三人の子供たちはみなまだ就学中だった。長女は家庭の負担を減らそうと休学して家計のために働いた。李瑾萍がその家庭への訪問を始めた当初、鄭宝珠の夫にはいつも会えなかった。実は彼はトイレの中に隠れ、家庭訪問に来た人々の人となりを観察していたのだ。ボランティアの誠意が伝わったのか、何度か家庭訪問を続けるうち、鄭宝珠の夫はついにボランティアの前に姿を現した。
その後鄭宝珠の夫は入院し、鄭宝珠はほとんど一日中、病院で夫に付き添った。ある台風の日、家で食事の支度をしていた李瑾萍は、鄭宝珠の子供たちの食事が心配になり、暴風雨も構わず雨具を着てオートバイに乗り、ビスケットと熱々の温麺を持って鄭宝珠の子供たちに届けに行った。
治療の甲斐なく夫が亡くなると、宝珠は一日中泣き暮らした。そんな彼女の自宅を李瑾萍はほとんど毎日訪ねては彼女を慰め、夜半まで付き添うことも珍しくなかった。こうして連れ添うこと十数年、宝珠は慈済のボランティア養成訓練に参加し、慈済委員の認証を受けた。子供たちもみな無事就職し、今では母の日になると祝いの電話をかけてくる。
二○○五年八月、李瑾萍は慈済の活動を終え、寄付金を集金するため樹林へ向かう途上、通りから飛び出してきた小型バスに右側からぶつかられ、バイクから転げ落ちる時に右ひざを地面にぶつけた。急いで起き上がって状況を確認しようとしたが、全く立ち上がることができなかった。
彼女は自分で救急車を呼び、病院へ向かう救急車の中でも、今夜の活動をどうしようかと考えていた。手術室に入る直前まで、彼女は仕事の引継ぎのための電話をかけていた。
検査の結果はひざの粉砕骨折、手術後丸々八カ月間ギブスで固定しなければならなかった。ベッドに横たわりながら、静養のため重要な役目はおりて、趣味のボランティアになろうと李瑾萍は考えた。ところが結果は静養どころではなく、より一層慈済の活動に没頭することになった。当時、陳阿招師姉が自分に連絡役を果たさせてくれたことに李瑾萍は感謝している。毎日慈済の活動を行っていると、自分が怪我人であることも忘れてしまった。
補助用具に頼らなくてすむようになるまでには二年近くの時間がかかったが、この間も彼女は家庭訪問を続けていた。杖を突き、ゆっくりゆっくりと階段を登るのは楽とはいえなくても、彼女の心は楽しく疲れを感じなかった。
爆発事故に心を痛め
他人の身になって考える
二○一五年六月二十七日に発生した新北市八仙水上楽園爆発事故。李瑾萍は慈済ボランティアが亜東病院の被害者を見舞う活動のコーディネーターを務めていた。入院患者のリストを手に、三日間駆け回ってもなお何人かの家族とは連絡がつかず、お見舞い金を渡すことができなかった。李瑾萍は、家庭訪問ボランティアの劉恵如とともに再び病院へ行ってみることにした。
熱傷病室の入り口に立ち、涙にくれる家族たちの行き交う様を目にしながら、二人の心も動揺した。そんな中、一人の中年の男性が李瑾萍に向かい、携帯電話を忘れたので貸してほしいと声をかけてきた。実はその男性はある鄰(行政区の一つ)の鄰長で、里長と待ち合わせて負傷した里民を見舞おうとしていた。彼らが見舞おうとしていたその人こそ、李瑾萍が探し続けていた人だった。
李瑾萍はチャンスを逃さず、彼らに慈済のお見舞い金の由縁について詳しく説明し、その負傷者の家族に慈済人の訪問を受け入れてもらえるかどうか尋ねてもらうことにした。その後しばらく反応がなかったが、里長が伝言をその家族に伝えてくれたおかげでその家族も慈済ボランティアの訪問に同意し、李瑾萍はすぐにお見舞い金を持って病院に駆けつけた。家族はその時まだ集中治療室の中におり、彼女は黙って面会時間の終わるのを待った。病床の息子について語り始めると、涙をこらえきれない家族に対し、李瑾萍は多くの言葉をかけることはなかった。こうした状況で必要なのはただ付き添うこと、言葉は要らないと李瑾萍は知っていたからだ。
毎朝、李瑾萍は被害者家族への菜食弁当の予約人数を確認し、急いで慈済炊事部に連絡、こうしてボランティアが食事時に弁当を配達してくる。台風の日にはパンを準備する。被害者家族が余計なことに悩まされず、付き添いに専念できるよう配慮する。
このようにして一日一日と信頼関係を築き上げてゆくうちに、はじめは婉曲にサポートを断っていた家族も、ボランティアとその他の家族とのふれ合いを見て、次第にボランティアに声をかけてくるようになった。最後には李瑾萍が即座に家族の要望を知り、対応できるようにと、被害者家族専用のソーシャルネットワークのグループに彼女を招待した人もいる。
帰宅すると、李瑾萍はその日の家族とのふれ合いをノートに記録する。自分の言葉、家族の反応を丁寧な字で書きとめ、自分の言葉に至らぬ点はなかったか何度も思い返す。父がいつも言っていた言葉を彼女は感謝を持って口にする。「他人のことは、自分のこと」。一人ひとりの家庭訪問の対象者を自分の家族と見なすならば、どうして真心をこめずにいられるだろう。
(慈済月刊五八六期より)
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