慈濟傳播人文志業基金會
洪水の後で田畑は出穂の香を切望する
慈済からの大規模な配付は、物静かで保守的なラオスの農家にとって思いもよらぬことだった。
頭上まで水に浸かった洪水の後には、稲の不作から転職を強いられるという試練が待ち受けていた。
見知らぬ人達が腰を曲げて支援の食糧や種籾を手渡してくれる姿は、まるで異次元の世界の光景を見ているようだった。
 
●洪水が去った後 稲の苗が枯れた。ラオスの被災者は慈済から配付された食用油、塩、砂糖等を抱えて家路につく。

豊かで美しい流れ メコン川

中国大陸に源流を発し、ラオス、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムを流れるメコン川は、沿岸諸国にとって大切な水資源であり、ラオスを縦に貫いて流れ、その農業を支えている。近年ラオスの経済発展のために必要な電力を確保しようと、流域には建設中も含め百基にも及ぶ水力発電所が建てられ、その電力は隣国へ輸出されている。
 
ここ数年は農業地域に係わる災害が続いている。ニ〇一九年八、九月の間に起きた南部六省の水災により十数万ヘクタールにも及ぶ水田が破壊された。
 

ラオスの米所が重被災地に

サワンナケート省はラオスの米所と言われる場所だが、今回の水災では最も被害が大きく、十一の県が大きなダメージを受けた。被災後三カ月が経っても、家屋、学校が依然として破壊されたままで、一部はまだ浸水したままである。されど住民は家を再建し、野菜畑からは新芽が出て生命の力を誇示していた。
 

ラオスの水災への支援内容

ラオスの背景と被災状況
◎インドシナ半島で唯一の内陸国、面積は23万6千800平方キロメートルで台湾の約6・5倍、人口は712万人。
◎2019年8月下旬に発生した熱帯性台風と低気圧が連日の豪雨をもたらし、洪水を起こした。南部6省、16万世帯、およそ50万人に影響を及ぼし、家屋16941棟が全壊、15万1千ヘクタール余の水田が損なわれた。
 
配付データ (2019.12.20までの集計)
◎被災地域を視察した後、チャンパーサック省とサワンナケート省への支援を行った。50の村で、白米1人当たり20キロ、食用油、塩、砂糖を世帯毎に配付し、水田の被害を受けた農民にはヘクタールあたり60キロの種籾を配付した。
◎2019年11月末から12月までの集計によると、米1144トン、種籾617トン、食用油31452リットル、塩28298キロ、砂糖57300キロを配付し、10943世帯55551人に行き渡った。
 
淡い藍色の夜明けの日差しが地平線を照らして森の中の鳥たちを起こす。その時辺りの静けさを破ったのは、凸凹の田舎道にホコリをあげて走り去る何台ものバスだった。
 
ラオスの南部にあるチャンパーサック省バンラ村の住民メイ・ケイ・サさんは店を出すための道具と食材を用意し、バイクに積んで出発した。今日店を出す場所は二、三週間前から決めていて、そこは家から二十キロを離れたメコン川の支流の側にあるサペイ寺だった。
 
この時、台湾、タイ、マレーシア、ラオス、ミャンマー、ベトナムから来た慈済ボランティアが既にサペイ寺に到着し、何日か前に届いた食用油、塩、砂糖などの物資を寺の前の広場に整然に並べていた。十数名の村人ボランティアは川岸の芝生に座って、今日の任務説明を注意深く聞いていた。ラオスにおける慈済の配付の二日目は穏やかな微風の中で幕を開けた。
 
●配付期間中、慈済ボランティアはラオスの労務省職員の同行を得て家庭訪問を行った。村人から洪水が高床式住居の2階まで達した時どれほど恐ろしかったかを聞き、辺境にいる貧しい住民の現状に理解を深めた。

農家の生命力

外国から来たボランティアが、朝早くからサペイ寺で配付することを以前から知っていたメイさんは、物資を受け取りに来る村人よりも早く到着して、寺の外の木陰に店を出した。
 
彼女は長さ四十センチの竹箸を使って、薄くのばした生地を焼いた。熱が通るにつれて膨らむと、カリカリした大型のクレープに似た「カオ・フ・サ」ができた。
 
これはもち米、白米、卵と砂糖を混ぜて焼いたおやつだ。原料のもち米はメイさんの畑から収穫したもので、平年だと雨季の後には、平均百袋のもち米の収穫が見込める。一袋は三十二キロで、残った部分は売りに出すと、収入が多くなっていた。
 
しかし、三カ月前の洪水で、高床式の家までも腰まで浸水し、家財道具が全て水に浸かった。水田も収穫ができず、収入源が途切れて、メイさんの一家五人は転職を余儀なくされ、屋台を出すようになった。家族五人は手分けして、毎日違う場所で出店している。
 
サペイ寺の周りに続々と集まる屋台を見ていると、次に雨期が来て種まきをするまでの生計を立てようとする人々の色々な試みがわかる。メイさんの姿は則ち洪水被災者の縮図である。
 
お祭りがあると人が集まるので、メイさんは一日のうちに、十から十二万キープ(約千三百から千六百円相当)を稼げるが、いつもそうとは限らない。彼女の住む場所は慈済が三日目に配付を予定している場所で、彼女も配付を受け取ることになっているが、いつものように屋台を出すつもりだ。儲けはいくらであろうと彼女の生活の足しになるからだ。
 
●大切な「配付通知」を手にして、早めに配付地点に来た村人は少くない。配付通知は3枚1式で、受取人はバーコードで受け付けを済ませ、身元確認をした後 砂糖、塩、食用油そして白米と種籾を受け取る。

高床式住居までも浸水

毎年五月、ラオスは長い雨季に入る。ラオスと隣国のミャンマー、タイ国境を流れるメコン川の水位の差は乾季と雨季とで極めて大きいが、いつもは無事に暮らしていた。雨季の間に種まきをすれば、農民は安心して一年間を過ごせていたのだ。
 
しかし、二〇一九年八月下旬に発生した熱帯低気圧ポドゥルがラオスを襲い、九月三日に発生した台風カジキは熱帯低気圧になったが、二つが連続してもたらした豪雨のためメコン川は氾濫し大洪水を引き起こした。豪雨で最高水位に達した洪水は、北から南へとラオス南部の六省四十七県の十六万世帯に被害をもたらした。
 
「洪水はメコン川の支流及び四面八方から物凄いスピードでやって来たので、逃げる隙もありませんでした」とサペイ寺の配付現場で行列をしていたノウディーさんは洪水がやってきた瞬間を思い出した。不安な気持ちを隠せず彼女は組んだ両手の拳を思わず握り絞めた。洪水は物凄い勢いで二か月前に種まきを終えたばかりの水田を台無しにした。多くの住民は高床式の家に住んでおり、地面から二メートルも高く上げていても洪水は無残に破壊した。
 
連続豪雨の洪水は次々に各地を襲い、一部の被災地では浸水が二週間経っても退かなかった。被災状況の厳しさは政府の予想を超え、被災範囲も広かった。重大被災地域は水田が水没しただけではなく、低い場所に位置している建物や学校も重大な被害を被った。道路や橋までも破壊を免れず、被災地域の至る所がまるで世界の末日のようだった。
 
水災が収まった直後、公益団体はミルクやビスケットを被災者に配付して一時の飢えを忍んだ。ラオスの農業省は一部の被災地域で、三日分の米を配付したが、住民にとってその援助は一時的なものだった。ラオスでは国民の九割以上が農業に従事しており、その中でも稲作をする人が主だった。住民が生活の頼りにしている水田が洪水で水浸しになって、洪水が去っても苗が枯れていた。本来なら十一月に刈りとった稲は来年の種籾になるはずだが、しかし被災後に収穫は全くなく、来季の種籾さえもなくなり、生活がますます苦しくなった。
 
ラオスの政府は慈済に援助を求める手紙を出した。慈済ボランティアは視察チームを結成し、二度も災害の重大な地域に深く入って、被災状況を慎重に視察して把握すると、十一月末に六か国の地区からきた百二十三名のボランティアをラオスに派遣した。最も被害の大きかったサワンナケート省のソナボーリ県、チャンパーサック省のサナソンボウン県に到着すると、被災者に白米、食用油、塩、砂糖を配付し、農家にとって最も重要な収入源となる種籾を贈った。

険しい道でも歩む

配付前にラオス政府の一連の書類審査を経て書類問題が解決した。ボランティアは引き続いて品種の優れた種籾を選び、一万世帯の農家が必要とする六百トンを集めた。
 
五十の村落に対して十か所の配付地点は、両省を流れる支流間の広い平野、丘陵にも及ぶが、ラオスの地方建設及び道路の条件はよくなく、ボランティアが配付に行く道は凸凹で複雑だった。予定していた配付地点の中の一か所が未開発の森林保護区を通らなければならないので、僅か数名のボランティアは四輪駆動車で配付に行った。
 
人員の出入でさえ困難だったので、物質の輸送はいうまでもない。食用油、塩、砂糖を満載したトラックは、木造の橋を通る度に重量制限を受けるので、軽トラックに荷を積み替え、重量を分散してからやっと目的地にたどり着くことができた。沿道は、ホコリだらけで路面の落差も激しかったので、トラックが一度穴にはまり込めば抜け出すのは容易ではなかった。
 
●メコン川の支流は南部の平原に分布し、慈済の救援物資と車や人力は簡単な渡し船で重大な被災地に運ばれる。これは、通常時の住民交通手段である。
●チャンパーサック省の現地の若いボランティアと慈済のボランティアが川岸で荷物を船から卸しトラックに積んで配付現場に運んでいる。
 
一般の人から見れば途方もないチャレンジだったが、却って慈済ボランティアの救援物資を被災者に届ける決心を強めた。各界から集まったこの善意に満ちた愛の心で、災害のもたらした陰影を一掃したいと願ったのである。
 
ボランティアの陳正輝さんはラオスの実業家で、二〇一八年アッタプー県のダム決壊の時から慈済の救援活動に協力している。今回の水災後 チャンバーサック省の省庁所在地であるパックセ市は彼の経営する車の修理工場を広域避難場所に指定した。その後は炊き出しの場所や慈済の救援センターになった。それからの数か月、彼は被災者の助けを求める声に応じたり、被災地域の視察や物資の準備に奔走するなど、慈済ボランティアと協力して種々の困難を克服した。
 
「困難はまるで樹木のようです。大樹には根、葉、花があります。表面に見える葉や花はどう世話をすればよいかわかりますが、本当の困難はむしろ木の根のような人目に触れない部分です」と言った。「感恩、尊重、愛」をモットーに、謙遜の心で様々なチャレンジに直面すれば、今回の配付は無事に行えると陳正輝は確信していた。

皆が家族のように

「サバイディ(Sabaidi)!」寺の外に集まった屋台の間を通って寺内の広場に入ると、仏堂の前の木陰の下で慈済ボランティアが、笑顔と元気一杯のラオス語の「こんにちは」で現場に集まった村人を熱く迎えた。簡単な挨拶だが、お互いの距離が縮まった。
 
「我々は台湾から来た慈済です……」と広場で司会を担当するボランティアが通訳を通して村人に呼びかけ、慈済とラオスとの因縁は二〇一八年に起きたダム決壊の時から始まったと説明した。そして援助物資を受け取る時に、今回配付した種籾が豊作になるように祈ることを教えた。村人は不慣れの中国語で「豊作、豊作…」と心に強く願った。村人の願いと慈済ボランティアの心を込めた祝福が天まで響くように。
 
●ラオスの国民は「皆家族」だという善なる心を持つラオス出身の実業家・陳正輝(左1)は準備から、見積り、物資選択、配付まで慈済の支援活動に最大限の協力をした。
 
少なからずの村人はこんなに盛大な配付に参加するのは始めてだった。五十四歳になるメイさんは物資を受け取っても直ぐその場を立ち去らずに残った。「配付に参加したのは生まれて初めてです。素晴らしいですね!」と。
 
洪水がきた時、水位の高さは彼女の頭上を超えていた。幸い彼女は急いで避難したが、貯蔵していた種籾が水に浸かって腐ってしまった。それに農村では働く機会があまりないので、被災後彼女はタイに嫁いだ娘からの僅かな仕送りに頼って生活している。
 
「私たちの所に来て下さって本当に有難うございます!」慈済から物資を受け取り、メイさんはこれで暫くの間生活していけると言葉で喜びを表した。ラオスとタイとは川を隔てているだけなので、言葉や文化が似ている上、多くの人はタイ語が話せる。現場でタイ語の歌「一家人」が放送された時、メイさんは耳をすまして聞いていた。何故ならこの紺のポロシャツと白いパンツで身をつつんでいる人達とは、血縁がなくてもメイさんにとっては家族同然の心の寄り添いと温かさを感じていたのだ。
 
「一家人」の歌詞に村人は感動しただけではなく、慈済ボランティアが手に持っている「竹筒歳月(竹筒の貯金箱)」とその物語を村人たちと共有した。そして村人たちが共感してくれたことにボランティアも深く感動した。
 
多くの人は洪水後、全てを無くした。しかし、彼らは依然として心よく人助けの為に献金した。五日間の配付を終えて、千四百万キープ(約十八万二千円)の募金ができた。お金がない人は手を胸に当ててから竹筒に入れた。
 
「村人が次から次へと無形な愛を入れたことは特に感動的でした」とカンボジアから来た潘曉彤さんが共有した。以前は人文真善美ボランティア(記事や撮影を担当するボランティアのこと)を担当し、カメラのレンズを通して心と愛を勝ち取る瞬間を見てきた。今回の配付で彼女はITチームに編入されたが、歌の活動をもリードし、人の群に入り込むことができた。始めはどうして村人が空の手を竹筒に入れたのか分からなかったが、彼らの意志を理解すると感動と感恩の気持ちで胸が一杯になった。
 
●この日、メコン川の支流側に位置しているサペイ寺には8個の村から2000数世帯が援助物資を受け取る為に集まった。慈済ボランティアがこれらの物資は世界中の愛の心からの贈り物だと説明し、「一家人(皆家族)」という歌を慈済手話で披露した。

人情の温かさ

配付は五日間行うので、二組のボランティアは時間を有効に使う為に、各配付地点に集まる村人の数に合わせて受け持ちを決めた。多い場所では二千五百世帯が集まるからだ。十五回の配付で延べ五万五千人以上に手渡すことができた。
 
限られた時間で終わるように、今回の配付はクラウド技術を上手く利用した。受け付けの名簿で本人確認の情報を探さなくてもいいように、事前にそれらをデジタル化して通知し、ボランティアはスマホで村人が事前に受け取ったその通知書を読み取ることにした。これで身元確認の時間が短縮された。また、その通知書機能により、食用油、塩、砂糖はその場で渡し、一人当たり二十キロの白米と耕す面積に応じて必要な量の種籾は十二月中旬から県庁が告知する時間に同じ配付地点で配付することが出来るようになった。
 
そこでは、救援物資を受け取る大人だけが忙しいのではなく、子供も暇ではなかった。マレーシアのボランティア呉儀栄さんと台湾の林木徳さんの二人はおやつを子供達に渡す時リサイクルをするように、手足を使った手本を示すと子供達と意思の疎通ができた。彼らは次から次へと段ボール箱やゴミ袋を手にし、周りのプラスチック袋や空き缶を拾い始めた。大人はそれを見て、今まで勝手に捨てていたものをゴミ袋に入れるようになった。
 
●田舎の道はホコリだらけ、住民はトラクターで配付物資を家に持ち帰った。現地ではごく普通の光景だ。
 
配付毎に人、事、時間、場所、物資が違うので、ボランティアにとっては毎回が新しいチャレンジだ。「ラオスでは、言葉が通じないのが最大の難関でした」と九月の視察から十一月末の配付まで全過程に参加した台湾のボランティア洪清夏さんが言った。通訳には現地の台湾人学校の生徒が応援に来てくれたが、人手不足の時は、配付通知にハンコが必要で、その場所に椅子と机、箒を準備するのだと説明するのに身振り手振りをするしかなかった。
 
配付チームが田舎に入るにつれて行き交う車の数がだんだん少なくなり、それに代わって住民がよく使うバイクとトラクターが現れた。人々の生活は少しずつ本来の軌道に乗り始めたと分かる。壁に残った跡が今でも洪水がどこまで襲っていたかを記録している。
 
外を歩くと至る所で牛や羊の群れが見られる。地上に残る黒く焼けた丸い跡は、村人が落ち葉やゴミを焼いた場所だ。台湾でも四、五十年前には同じような風景が見られたが、今のラオスでは日常茶飯事である。
 
東南アジアにおいて唯一の内陸国ラオスは、地理的に特殊な場所に位置し、保守的で、終始神秘的な存在だ。もしも深く入り込なければ、素朴で伝統的な農村文化を体験することは難しい。千年来の仏教の影響を受けているせいか、災難が人々の心に消し難い驚きと恐怖を残しても、大半の人は依然として楽観的な態度を保っている。
 
黄昏時、木の葉が川辺の微風に乗って揺れている。まるで感動に溢れている配付現場を写しているかのようだ。ボランティアが人々に期待しているのは受け取った物資以上に、人と人の間には血縁がなくてもお互いの温かさと愛が得られることを感じとって欲しいということだった。
 
洪水が去った後、水田の栄枯はまるで命の無常を象徴し、人々の生活の一分一秒、更に細かい所まで惜しむように喚起している。食用油、塩、砂糖を受け取った村人には、十二月中旬以降は世界各地にいる善の人達による、祝福を込めた白米と稲種が届く。そして村人たちが、来季を豊作の笑顔で迎えられるように祈っている。
●慈済ボランティアからもらった静思語の冊子の中から最も好きな言葉は「命を尊重する愛に感恩します」。高校3年生の瑋爾嫝(左1)は慈済の配付から感じた気持ちを、両親と一緒に配付から帰宅した後で分かち合った。
(続く)
(慈済月刊六三八期より)
NO.280