慈濟傳播人文志業基金會
武漢市の封鎖
第一線に立っている医療人員の疲労と危険に比べると、私たちは家でご飯を食べ、お茶を飲んだり、飢えるわけでも凍えるわけでもない。他の地方にいる武漢人は、実家を目の前にして帰るに帰れず、追い立てられるかのような苦しい立場にある。病気になった人たちは一日中並んでも入院できないでいる。私たちは家で隔離待機する以外に何も手伝うことができない。自分は幸福であると感じる以外、心の中では居たたまれない気持ちが頂点に達しようとしている。
 
私の故郷は浙江省嘉興市で、湖北省武漢市までは八百キロの距離がある。二○一二年から武漢に定住し、今年で九年目になる。
 
毎年の春節、私は実家に帰っていた。今年もそのつもりで、夫と旧正月の二日である一月二十六日の高速鉄道の切符を買った。その日、武漢の慈済ボランティアは花蓮の静思精舎とネットを通して證厳法師に新年の挨拶を行い、その後で実家に帰る予定だった。全て通常であれば、六時間で両親や祖母の側に帰りつくことができる。
 
二○一九年十二月二十九日の日曜日、武漢の慈済ボランティアたちは歳末祝福感恩会を催し、七百人余りが参加した。それに続いて私たちは一月五日に行われる武漢市ケア世帯「冬季に暖を送る」活動と忘年会の準備を始めた。
 
十二月三十日、武漢市衛生健康委員会から医療機関に対して一つの通達があった。「原因不明の肺炎治療行為の徹底に関する緊急通知」である。その通達はネットに流れ、多くの市民は偽の情報か噂だと思って注意を喚起することはなかった。冬にインフルエンザが流行するのはいつものことであるため、人々は正月を迎える準備に追われていた。慈済のケア世帯も例年のような忘年会を期待していた。いつもはボランティアたちが車で送迎し、冬季の物資を家に届けると、支部では三十卓余りのホーコー鍋を載せた食卓をにぎやかに囲むのだ。
 
二○二○年元旦、新しい一年が始まったが、今回の原因不明の肺炎の出所と見られた武漢華南海鮮市場が閉鎖された。慈済ボランティアの樊麗華さんは病院に勤務しているが、彼女の経験から判断して、ケア世帯の多くは障害者か高齢者で体の抵抗力が弱いため、支部の閉鎖した空間での忘年会を延期するよう提案した。当日の夕方、私たちはボランティアに延期を発表すると同時に、積極的に参加してくれたボランティアたちに感謝した。

楽しい時間はその日で止まった

一月五日は月一回の慈済委員精進日であった。一人の師姊(女性委員)が心臓の異常を訴えたため、私は彼女に付き添って病院の救急外来に行った。内科の救急外来の待合室は普段と変わらず、人は多かった。訪問ケアを担当している関係から、私はよく病院に出入りしていたため、病院が患者でいっぱいになっている状況には慣れていた。しかし、その時、私はマスクをしておらず、医療人員も注意を喚起せず、外来の待合室では僅かに一組の恋人がマスクをしているだけだった。
 
新型コロナウイルスの感染が日増しに深刻になると共に、寒い天気では風邪を引きやすいため、私たちは一月の敬老院への見舞い活動を中止した。しかし、生活が苦しいケア世帯に良い年越しができるよう、一月十一日の土曜日に少人数のチームを組んで数世帯に当月の生活補助金を届けた。途中の交通量は多くなかった。武漢には大勢の地方労働者と大学生がおり、春節前になると急に人口が減るのである。
 
一月十二日、私は斉岩師兄((男性委員)と一緒に新しく一期と二期の養成講座に参加するボランティアの資料を整理するつもりだった。我が家は武漢市四環にあって、斉岩師兄の会社は街の中心部にあり、地下鉄の駅を上がって華南海鮮市場近くにある。普段は車を運転して行くが、その日は利便性とエコロジー活動を考えて地下鉄で行った。その時、斉岩師兄はまだ、「どうして車で来ないの?地下鉄は危ないよ」と冗談交じりに言っていた。今思い返してみると、その日の地下鉄はそれほど混んではいなかったが、マスクを着けている人は誰もなく、私もしていなかった。
 
その次の週もいつも通りで、家で正月の準備を始め、実家に持って帰るお土産をいっぱい買って来てスーツケース一杯に詰めた。夫は深圳に一週間出張していた。深圳では、武漢は既にマスクが買えないという噂が広がっていると夫が言ってきたので、私は「人の言うことに一々パニックになるなんて!家の近くの薬屋さんに行けば売っているに決まってるわ」と返事していた。
 
しかし、一月十八日の土曜日にマスクを買いに行くと本当に売り切れていたのだ。いつ入荷するのかと聞いても、薬局は分からないと答えた。幸いにも家には風邪のために用意してあった使い捨てのマスクが一パックあった。夫は深圳で三パック買った。非常事態であるからこそ買いだめせず、足りればいいのだ。
 
その日、大学を卒業して大学院で勉強していた慈済の援助する学生である桂芳がメッセージを送ってきた。「長年伸ばしてきた髪の毛を癌患者のために慈済病院に寄付したい。湖北省黄岡市の実家に帰る前に武漢で働いている父親とボランティアたちに会いたい」という内容だった。
 
私は曾嵐、瞿朝暉等数人の師姊と一緒に、その翌日、麗華師姊の家でベジタリアンワンタンを作って冷凍する予定だった。そうすれば彼女の食事の用意の手間が省けるからだった。丁度、麗華師姊が長期的に桂芳の世話をしていたため、私は桂芳と一緒にワンタン作りに行くことにした。
 
一月十九日は晴天で、桂芳は切った髪の毛を私に渡し、私たちは楽しくお喋りしながらワンタンを作った。彼女はベジタリアンワンタンが大好きで、北京の大学の食事が口に合わず、武漢の美味しい食べ物と年配のボランティアたちを懐かしんでいた。武漢に帰った時は支部に来て食事し、時間があれば、北京でも慈済の活動に参加するよう桂芳に言った。彼女は「年があけたら行きます」と答えた。
 
私たちの楽しい時間はその日で止まったままになってしまった。それからは焦りと不安で、どうしたらいいのか分からず、感動したり腹が立ったり、涙はよく流したが、自分を奮い立たせもした。
 
 
都市封鎖する前
 
武漢の慈済ボランティアは2019年12月29日、歳末祝福感恩会で参加者を歓迎すると共に、新年を迎える準備をした。環境保全を題材にした慈済手話を演じる子供たちはロウソクを灯して真剣に来たる年の平安を祈った。

ウイルスが人から人へと感染

一月二十日、著名な中国工程院メンバーの鍾南山氏が「今回の新型肺炎は人から人へ伝染する」と言う記事を新聞に載せた。彼は二○○三年のSARSの時でも重要な役割を果した。彼の記事は目が覚めていなかった武漢人たちを目覚めさせた。彼も政府も外から武漢に来ることは避け、武漢市民も特別な事情がない限り武漢から出ないよう呼びかけた。
 
その日の午後、私の姑は湖北省孝感市の実家から汽車に乗って武漢に着き、私たちは正月を祝った。彼女は長年、お寺でボランティアをしており、滅多に武漢には来ない。夫は母親に、汽車の中ではマスクを着けるよう言ったので、彼女は言う通りにした。マスクを着けたがらない一般のお年寄りとは違っていた。
 
一月二十一日、私は嘉興市の実家に帰るべきかどうか迷っていた。専門家や政府の外出を控えるようにという呼びかけに、積極的に呼応すべきなのではないだろうか。
 
元々、正月用に準備した食べ物は足りており、それに菜食は簡単にできる。しかし、私はスーパーに行って食材をいっぱい買い込んできた。冷蔵庫も収納棚もいっぱいになった。心の中では実家に帰りたかったが、実際は武漢に残る準備をする行動を取っていた。
 
夜になって、夫が出張先の深圳から帰ってきた。空港では体温を計り、彼の会社は二十三日が休みだったが、臨時に二十二日から休みにすることが決まった。彼が深圳から買ってきた三パックのマスクを見ると、安心感が出てきた。
 
一月二十二日、私たちは家で過ごす生活を始め、実家に帰らないことにした。お父さんに電話した時、丁度市場で買い物中だった。彼らはベジタリアンではなかったので、活きた鶏や魚を買わないよう、またなるべく菜食するよう念を押した。お祖母さんは電話で、私が菜食しているのは良いことだと褒め、それで病気に罹りにくいことをやっと認めてくれた。大災難に出会うと人は目覚めるのだろう。
 
夫が汽車の切符を取り消すよう促した時、私は予約APPを開いて切符を見たが、やはり名残惜しくなった。直ぐには取り消さず、現代医学がこれだけ発達しているのだから、急に状況が好転するかもしれない、と心の中で祈った。
 
一月二十三日の午前二時、武漢市政府が情報を発令した。「二十三日十時より市全域の公共交通機関の運行を停止し、外部に通じる空港と駅は全て閉鎖する」というもので、武漢市の封鎖が始まった。

正しい報道が必要

SARSが流行った時、私は高校生だったが、学校は封鎖されて家に帰ることができなかった。その頃はネット情報やメディアは今ほど発達しておらず、状況が悪いとは知っていたが、言われる通りにしていた。
 
しかし今は情報が溢れ、ケータイでどんなニュースも見ることができ、それが正しいのかデマなのかが分からない。ネット時代における今回の伝染病の流行では格別に正しい報道をすることの重要性が問われる。暫くして私は中央テレビのキャスター白岩松のニュース報道しか見なくなった。白岩松は、権威のある情報は噂よりも早く流されるべきだと言った。その後メデイアはデマを打ち消す報道を数日間続けた。
 
武漢に登録されている人口は九百万だが、流動人口が約五百万である。全国でも最も高等教育施設と大学生が多く、大学生の数は約百万人に上る。彼らは都市封鎖が始まる前、情勢がひどく悪化する前の一月初頭の早い時期には既に冬休みに入り、武漢を離れている。ネットで五百万人が武漢から逃れているという情報が流れた時、私は悲しみと憤りを覚えた。
 
二○一九年の春節時に交通手段を使って移動した人は四・一億人と推定され、私のように武漢に住んでいる外地の人間もその中に含まれていた。武漢の慈済ボランティアも多くは武漢人ではなく、彼らは封鎖される前には既に実家に帰っている。
 
この五百万人は帰郷したり休日を利用して旅行に出かけるなど、普通に武漢を離れた人たちである。幾つかの文章に「武漢人が逃れた」と書いてあるのを見た時、私は我慢できず、訴えたり通報した。そして遂には二つの文章が『互連ネットユーザー公衆アカウント情報サービス管理規定』に違反したとして、サーバーがアカウントを削除する事態にまで発展した。
 
武漢人が外地で隔離や差別をされたりしているニュースを見ると同時に、守られたり、心温まるストーリーを聞くこともある。私は憤りの涙も感動の涙も流した。ネットでは、私の街は病気にかかっているが、今でも愛している、と出ていた。私は武漢人ではないが、そのような気持ちはよく分かる。自分もそう思って来た。

幸せだが無力感を感じる

一月二十三日の午後、私はやっと高速鉄道の予約を取り消した。普段なら払い戻しに手数料が掛かるが、今回は無料だった。そして、精舎とネットを通した新年の挨拶も中止になった。夫は音響とインターネット接続担当のボランティアで、二回も会社を休んで支部の接続を調整し、問題ないよう準備した人だ。折角準備したのに残念ではないかと聞くと、「そんなことはないよ。人命に関わることだからね」と答えた。確かにどうしてこれほど状況が悪くなったのだろう?ベジタリアンである私たちは、海鮮市場で野生動物の肉まで売られていることを知らなかったが、今は證厳法師が言っている「衆生共業」がよく理解できる。
 
翌日は大晦日で、夜は夫と姑の三人で豊富な菜食鍋を用意した。それを写真に撮って実家のウィーチャットに載せ、私たちも同じように年越しをしており、美味しく食べていることを伝えた。
 
しかしその晩、私は眠れなかった。口では年越しするから寝ないと夫に言ったが、実は十二時に発表される伝染病の新しい数字を見たかったのだ。でも時間になっても公表されなかった。
 
翌日から数日間雨が続いたので、私たちは家で映画を見たり本を読み、ご飯を食べ、お茶を飲んだ。「第一線で働く医療人員の疲労と危険、外地に居て戻ってから隔離しようと思ってもできない人、追われて苦労して遠回りして帰る武漢人、病気になっても医者にかかれない人、外来がいっぱいで一日待っても入院できない人……」。こういうニュースを見て、私たちは家で気兼ねなく飲み食いし、凍えることもない。健康な体を使って今回の事態のために何かしようと思っても、家で隔離している以外には何もできない。自分が幸福だと感じる一方、内心で苛立ちが極限にまで達し、矛盾した感情が交差する。
 
二十五日の午後、武漢市政府は二十六日午前零時から街の中心部への車やバイクの乗り入れを禁止すると発表した。それは車で出掛けるのを禁止することを意味し、私は大急ぎで買い物に出掛けた。その前、実家の親戚たちがメールで食べ物があるかどうかを聞いてきた。私たちは「大丈夫、スーパーには物がある、値上がりもしていないからネットで流されるデマを信じないで」と返事をした。
 
ケータイで焦りと恐怖感を煽るニュースを見るよりも、二十六日から家で読書しようと決めた。ネット上で読書会を開き、毎日二時間『證厳上人思想体系探究叢書』を読んだ。その本は千十六ページもあり、私の本棚では一番分厚い本である。全部読み終えようと考えているが、隔離期間にはできると思う。
 
湖北省の発表によれば、春節の休みを二月十三日まで伸ばし、十四日から通常の生活に戻すとのこと。ここ数日間のウイルスの陽性反応者と死亡者の数は相変わらず増え続け、誰もが順調に通常の生活に戻ることができるのかどうか疑わしく思っていても、口では互いに励まし合うしかない。
 
 
封鎖後
 
写真上:周李艷はネットを通じて勉強会に参加し、それぞれのボランティアが順番に10分間朗読し、他の人はじっと聞き入っていた。本を持っている人もいたが、持っていない人にはスキャンして見せるようにした。
 
写真下:大晦日の夕食、周李艷1家3人は菜食の鍋料理を用意した。
(写真提供・周李艷)

生死を共にする友人にマスクを届ける

ある友人がメッセージを送ってきたが、助けを求めるメッセージのようだ。彼は私が慈済ボランティアであることを知っており、入院の手助けをしてくれないかというものだった。彼は既に軽く感染しており、私はこの時期に何もできないことを謝った。ネットでは、入院できないため助けを求めるメッセージでいっぱいなのだ。熱があっても一日中病院の前で並ばなければならないが、陽性反応が出なければ入院できない。私には充分な防護用具もないため、理性を失って道端で人を助けることはできない。私には彼を励まし続けることしかできなかった、「毎日体温を計って地域の役所に報告すること。薬を飲んでよく食べて体力を維持すること。火神山病院がもう直ぐ完成するから、皆、入院できる…」と。
 
このようなことを言っても無力感を感じるだけだった。現代だというのに、私たちは未だに医療資源の不足でパニックに陥っているなんて!ひっきりなしにメッセージが入ってくる。以前の同僚から、彼女のお祖父さんが感染して入院しているとのこと。ある慈済委員のご主人も治療中。あるボランティアの家族が感染して隔離されている…。
 
夫は家で仕事を始めた。そして、私は毎日読書したり、草花の手入れをしていた。この団地はとても静かで、車の音も子供が遊ぶ声も聞こえない。たまに上下階から咳をする音や歌声がはっきり聞こえてくる。
 
ある日、ウィーチャットのグループに一つのメッセージが流れてきた。夜の八時に武漢市民は窓を開けて合唱しよう!そして、声高に武漢頑張れっ!と叫ぼう!というものだった。八時になると、ベランダから風に乗って歌声と叫びが聞こえてきた。「おーいお向かいさん、窓を開けて歌おう。一緒に武漢を励まそう!」武漢人は普段から豪快な性格で、今回の鬱積した叫びは孤独からでも悲壮観から出たわけでもなく、真に心の底から出た希望である。「武漢よ、早く立ち直ってくれ!」。
 
私は向かいの隣人を知らなかったが、ここ数日、よく彼の歌声を聞く。それも一人だけである。私は果物とお菓子を袋に詰めて、その人を見舞おうと思った。私がマスクを着けてドアをノックした時、その人は電話で家族に隣人がドアをノックしていることを話していた。彼は一人暮らしで、両親は実家にいて、食べ物もあると言った。
 
そうか、私たちと同じだ。武漢に足止めされた「外郷人」なのだ。その数分後、その隣人がうちのドアをノックした。マスクを二パック持ってきてくれたのだ。春節前に買ってあったもので、今は外出しないから要らないとのこと。わあ、この時期にマスクを届けるなんて、生死に直面した友情だ。そう、順境でも逆境でも、皆で一緒にこの困難を乗り越えることは生死を共にした友情と言える。

こういう時にこそ より善良でなければ

私たちの団地でも陽性反応の人が出た。しかもその人が住んでいるアパート周辺にも擬似感染した人がいる。団地のゲートは封鎖され、出入りが禁止された。
 
この時期、住民の中では差別も悪意も起こらず、皆で祝福し合い、互いに外に出ないよう呼びかけがあった。誰かが不確かな情報を流すと、直ぐに誰かが出てきてそれを制止し、今までになく和気藹々として団結している。
 
普段は駐車スペースの取り合いから大声で怒鳴りあう武漢人も、内心は善良で温厚なのだ。
 
利己的な人はいるのだろうか?どこにでもいるはずだ。故郷で武漢に遊びに行った人がいて、帰ってきても黙ってスーパーや市場を歩き回ったため、家族の人が感染し、地域全体が封鎖されてしまった、とお父さんが言っていた。
 
ネット上では言いたい放題である。武漢人が外に出るのは家に帰ったり旅行するためで、ウイルスを持ち出すためではないのだ。もし私が実家に帰ったら、規定通り報告し、自主的に隔離すると思う。私は慈済人で武漢人だから、すべきことをするのが本分なのだ。
(慈済月刊六四〇期より)
NO.280