慈濟傳播人文志業基金會
山を乗り越えてから
この本を読んでくださっているあなたに感謝したい
ここから何かを得られるものがあれば、本当に嬉しい
私が困惑の中で体得しながら心田を耕してきた過程がここにあり、
私は素晴らしい結果を得ることができたのだから。
 
数日前、偶然にも大学時代の慈青の巧如(チァオルー)先輩が娘さんの樂樂(ローロー)ちゃんを連れてきた。一緒に遊んだり、お絵描きしたりして、とても楽しい時間を過ごした。その後、巧如先輩からメッセージが来て、別れ際の私の後ろ姿で、私が花蓮の静思精舎に出発する前に会った後の後ろ姿を思い出したそうだ。
 
それがきっかけで、私も色々思い出したことがある。
 
あの時はすごく緊張していた。これから山の向こう側にある花蓮に行くけれど、どうなるのか何も分からなかった。それでも心の中では何かが私を呼んでいるのを感じていた。山麓の精舎での生活は、すでに七年になる。
 
巧如先輩に聞いた。今回、彼女が見た私の背中は、成長したのだろうかと。しかし直ぐに、子どものままで居たいけど、と付け加えた。
 
ある出版社の黃靖雅(ホワン・ジンヤー)さんがこう書いていた。「たとえ一日八時間勤務して、混雑した電車やバスで往復二、三時間の通勤時間を掛けても、残りの時間は親や子供の世話をしなければならず、自分の人生は、『山居法』(チベット仏教の修行用書)とはまだ程遠いと感じた。それは、諦めず、心の中にあるその山を守る意志があれば、たとえどんなに苦労しても、自由に対する情熱を持ち、利他する自信を失わなければ、どこに居ようと、あなたの山と洞窟はそこにあるのだ。何時どこでも、狭い空間に何時もその山は存在している。そこで修行しなさい!」と書いている。
 
その山を乗り越えた時、心の中に超えなければならない山があることを知り、益々仏が言ったことが理解できるようになるのだ。「霊山を遠くに求むるなかれ、霊山は汝の心の中にあり、人みな心に霊山あり、いざ霊山のもとに修行せん」。私はそこから出発した。再び戻って来て、「私は大丈夫、頑張り続ける。初心は忘れてはいない」と言いたい。きっと、まだ笑顔になれる限り、私は忘れていないのだと思う。

毎日が素敵な日々

以前は絵や文字で本を出版することなど想像したこともなかったが、思いも寄らず成し遂げることができた。しかも二冊目である。證厳法師曰く、自分で福田を耕せば、自分で福縁が得られる、と。この本を読んでいるあなたに感謝を伝えたい。そこから何か得られるものがあれば、本当に嬉しい。私が困惑の中で体得しながら心田を耕してきた過程がここにあり、私は素晴らしい結果を得ることができたのだから。
 
證厳法師から頂いた言葉や今まで経験してきたこと、そして、あなたたち一人ひとりが平凡な毎日を素敵で意義のあるものにさせてくれたことに感謝したい。何か行動すれば、必ず何かが残り、過ぎた縁が積もって今の収穫になっている。皆といつまでも深い縁で結ばれていることを願っている。
 
 

心を護る

 
コロナ禍が始まったばかりの頃、ある文章を目にした。日本のある小さな町でマスクが品切れになり、店員が、空になった棚に張り紙をした、「やまない雨はない、必ず晴れる。うばい合えば足らず、わけ合えばあまる」。
 
コロナ禍で、マイ箸やハンカチ以外、マスクは誰もが肌身離さず携帯するものとなった。マスクは目に見えない細菌から身を守るが、心はどうなのだろう。 
 
ふと、「悲」という字の慈済手話(慈済が経典劇で用いる表現方法)を思い出した。その形はマスクにとても似ている。皆が慈悲心を持っているため、人々は辛くても奉仕することを厭わず、医療関係者であれ、ボランティアであれ、体を使って実践しているのだ。
 
個人的に慈悲心を振り返ってみる。何かできることはあるだろうか。菜食するのも一種の方法ではないかと思う。コロナ関連のニュースを見ると、動物の苦しみが感じられ、今は、私たち人類がその苦しみを受けているように思う。
 
感謝することを学び、愛を受け入れ、奉仕すれば、人に温かさを与えると同時に、自分を強くすることもできるのだ。

善の因を植え付ける

 
法師はこう開示した。「皆さんに感謝します。あなた方が法の伝承をしてくれているからです。因は種であり、因があることで縁ができるからです。ですから感謝の気持ちを心に銘じているのです。あなた方がいるから、私がここまで来られたのです」。
 
帰郷して母と妹の勉強について話し合った時、我慢できずに、「以前、私が広報デザインを学びたかったのに、母さんが反対するから…」と言ってしまった。母は「そんなことがあったかしら。ごめんなさいね。その時はお絵描きじゃ食べていける気がしなかったものだから」と言った。
 
言ってしまった瞬間、母に感謝すべきだったと思った。母がいなければ、大学で慈青のサークルに入っていなかったかもしれないし、多くの良い友人ができて、卒業後にまた静思精舎に来て仕事していなかったかもしれないからだ。
 
あらゆる出来事にはそれなりの因果関係があり、喜怒哀楽で人生の路を切り開いてきたから、今の私があるのだ。何かが起こった時、思うようにいかなくても、感謝の気持ちを持てば、善の「因」が植えつけられ、何時かそれが芽を出して、お互いに支え合う縁になるのである。

日々の菩薩の十地

どのようにして生活の中に仏教の教えを見えるようにすることができるか?
一瞬閃いて、毎日の生活に「菩薩十地」を感じた。
㊟十地とは、菩薩が修行しなければならない五十二段階のうちの、四十一位から五十位にあたる。
 
朝起床する時、一日の始まりに感謝し、喜びの気持ちに溢れるのが「歓喜地」。
起床した後、自分をきれいにすることが「離垢地」。
朝の会でお諭しを聞いて法の香りに浸った後、輝くように一日を始めるのが「発光地」。
情熱を持って人に接し、智慧を使い、菜食とエコな生活ができるのが「焔慧地」。
 
 
困難に直面した時、一人で解決することはできなくても、
大勢の人の力が結集して、周りの善き友と共に乗り越えるのが「難勝地」。
どんな心境になろうと、常に今この瞬間に集中し、
前に向かって進むのが「現前地」。
 
人が困難に出会っている時、助けに行くのが「遠行地」。
人を助け、褒められた時、自分の本分だと思い、
それによって傲慢にならないのが「不動地」。
見返りを求めず、適時適所で奉仕し、智慧でもって善行に向かうのが「善慧地」。
一日の終了と共に、空を見上げ、法喜を以てその日を過ごし、執着心を持たず、
雲のように「真空妙有」になるのが「法雲地」。(『どの瞬間も良い時』から引用)
(慈済月刊六五三期より)
NO.296