慈濟傳播人文志業基金會
心に響いた一言
:慈済のメンバーや仏教徒でなくても、静思語教育をしてもいいのでしょうか?
 
 
一部の人は、證厳法師の教えを抜粋して編集した静思語が「宣教」のために使われていると誤解していますが、実は、静思語は「心を静めてから話す言葉」であり、難しい宗教用語ではなく、逆に、生活に密着したものや智慧にあふれた言葉になっています。例えば、「話す時は優しく、態度は謙虚に親切であれば、人は優しい和やかさを感じることができる」や「人生で最高の成就は、失敗から立ち上がること」のように、全てが静思語なのです。
 
初めて静思語に出会ったのは、二十五年前に開かれた教師たちのお茶会でした。ある先生がシェアしていました。「静思語を教材として授業に使った後、生徒と保護者の双方に前向きな変化が現れました。当時、私は半信半疑でしたが、授業で試してみました。「良い言葉を使い、良いことを考え、良いことを行い、良い道を歩もう」というフレーズがあり、生徒たちにその四つのフレーズから一つを選んでもらい、実行してもらいました。
 
翌日みんなにシェアしてもらうと、主に日常の些細なことばかりでしたが、ある生徒はこう言いました、「長い間考えたけど、良い言葉を使うとはどういうことか分からなくて、妹の髪がとてもきれいだったので、妹に『今日の髪はとても綺麗だね!』と言いました」。静思語を通して、子どもたちは他人の良さを見つけることを学んだのです。それで私は静思語をクラスに取り入れることに決め、子どもたちがその中で、もっと成長してくれることを期待しました。
 
「静思語の意味」と「静思語授業」を保護者に理解してもらうために、始業式にアンケートを用意しました。宗教が違うために、最初は半信半疑だった親が数人いましたが、次第にそれらの良い言葉が生活に密着したものであり、子どもたちに前向きな影響を与えることができると分かってからは、保護者は私と一緒に子どもたちの長所を見つけようとするようになりました。
 
静思語は、環境保全、親孝行、礼節など多様な内容をカバーしています。それは人々の善念を啓発しており、学生と静思語を分かち合うことで、ポジティブな思考と行為を育むことができるよう、導きたいと思っています。例えば、「行動に不自由のない体を使って、悦楽したり、物欲に溺れたりしてはいけない」を引き合いに出しました。このフレーズを通して、子どもたちはピアノを一時間練習したり、三十分間運動したり、家事を手伝ったり、と無意識に時間を有意義なことに使うようになりました。
 
●斗六市溝壩小学校付属幼稚園での静思語道徳教育活動。(撮影・張国徽)
 
私も静思語に出会ってから、自分で気がつかなかった悪習を変えることができました。昔は完璧主義で、息子が間違ったことをすると直ぐに叱りました。私は息子にとって「タイガーマザー」だったのです。夫からも「子どもは悪くないのにどうしてそんな大声で叱るのだ?」と聞かれたことがありました。同じようなことが続き、私もいつも不機嫌で、家庭の雰囲気は悪くなっていました。
 
「気性や口が悪ければ、どんなに善良でも、善人とは言えない」。この静思語によって、私は考えさせられ、態度を変えるようになりました。私はもはや子どもに良い成績を求めたりせず、苦情よりも賞賛の言葉を多くし、子どもたちが健康でいてくれれば十分だと思うようになりました。
 
子どもたちも私の変化に気づき、家庭内の雰囲気もだんだん良くなっていきました。また、静思語に出会ってから、本当に得をしたのは他ならぬ自分であり、それを消化して初めて、子どもや生徒たちと一緒に成長していくことができたのです。
 
 
静思語は宗教を伝えているのではなく、多くの言葉は現実の人生における啓発なのです。一般の人に疑問があれば、ボランティアが喜んで説明するでしょう。誰もが静思語の美しさを理解できることを願っています。
(慈済月刊六五四期より)
NO.297