慈濟傳播人文志業基金會
僧衣を探したあの晩
永遠なる精舎の大師兄
 
病院からの知らせで、私は急いで寮に戻り、
大師兄の着替え用の僧衣を探したのですが、どうしても見つかりませんでした……
 
徳慈師父 ㊟ は私たちの大師兄で、最も證厳法師に孝行を尽くしたお弟子さんです。たとえ彼女が間違いを犯してないのに、法師に叱られたこともありましたが、法師に対する尊敬の念は変わらず、少しも気にしていませんでした。
㊟師父(スーフ)‥精舎の尼僧への敬称。
 
私たちが出かける前にはいつも、「大声で話をしないこと。車の中では出家人としての威儀を正すこと。ふざけてはなりません。たとえ周りに一般の人がいなくても出家人としての立ち居振る舞いをするのですよ」と注意してくれました。
 
大師兄は、一代目の一番弟子としての模範を忘れたことはありません。また法師の代わりに、いつも若いお弟子さんたちの面倒を見ていました。
 
  
 
農耕で自力更生
一九六七年の冬、田植えをする徳慈師父(上の写真・左の人物)。陳貞如が(上の写真・右の人物)が落ちないように徳慈師父の手を持っている。一九六四年から一九九一年まで精舎の師父たちは二十一種類の内職をして精舎の生活を改善し、慈済志業を支えた。徳慈師父は、どんな困難や辛いことにも必ず方法を考えて試した。(上·写真の提供・花蓮本部) (下・撮影・黄錦益)
 
 
彼女は私たちを導いて慈済の気風を守るだけでなく、自分自身に対しても厳しくしていました。
 
私と大師兄は同じ部屋で生活していたのですが、今のような暑い日でも大師兄はいつも整然とした身なりをしていました。部屋でしばしの休息をしても靴下を脱ぐこともありませんでした。彼女は皮膚が弱かったので、暑い時に長時間靴下を履き、夜になって脱ぐと足の裏の皮膚が赤く爛れそうになってしまうのを見て、忍びなく思ったこともあります。
 
私の心の中の大師兄は、行住坐臥の四威儀の全てにおいて常にいつも通りで、最も厳しい修行人でした。中でも感服させられたのは梵唄(ぼんばい)で、全く自然体でした。
 
長い間大師兄と一緒に過ごしたことで、お話しする機会も多くあり、何事も真面目に取り組んでいました。八十歳になった時、「私は八十歳になりましたが、心は二十六歳のままです」と私に言いました。
 
大師兄の精神は若者に少しも負けていませんでした!もしも今年の手術後に健康を損なっていなかったら、ばりばり働く彼女には誰も追いつくことはできなかったでしょう。
 
私は常々思っていたのですが、大師兄は気が短かったので、何をするにも人より早くできたのだと思います。しかしよく考えてみると、精舎にいる三番弟子である徳融(ドーロン)師父も、亡くなられた四番弟子の徳恩(ドーエン)師父も同じで、二番目弟子の徳昭(ドーツァオ)師父はもっと気が短かかったため、何をしても効率が良かったのだと思います。
 
その実、法師も気が短い方なので、法師が私に目くばせした時、私たちは法師の思われていることがはっきり分からないうちは尋ねることもはばかられました。とにかくすぐ作業に取り掛かれば間違いないのです。
 
法師は初期の弟子たちに対してとても厳格でしたが、今はそうでもありません。思うに、今精舎にいる同門の弟子は皆、法師に追随したいと思うなら、遅れを取ってはいけないのです。
 
或るボランティアが私に、これほど長く大師兄と過ごして、どんな印象をお持ちですかと尋ねました。私は思うに、大師兄の法号が「徳慈」であることを考えると、その名前の通り徳行と慈悲が備わっておられ、一心に法師の教えに奉じ、謙虚で、誠実に力を尽くし、話すべき事は話しても余計なことは話さない、そのように正直な方でした。
 
五月十一日の夜、徳悦(ドーユェ)師父からの電話で、大師兄の世話をしていた看護師から、体が浮腫み、脳にも異常をきたしているから、あまり長くないかも……と言われ、すぐに大師兄の着替えを持ってくるように言われました。
 
私はすぐに部屋に戻って探しました。ですが、どうしたことか、その日、いくら探しても見つかりませんでした。
 
思ってもみなかったことでした。私でさえ一、二着の着替えがあり、外出時には良い方の僧衣を身につけ、精舎では古い方を着ているのです。しかし、大師兄は着替えの僧衣を全く持っておられなかったのです。
 
服を探すように言われたということは、もうそろそろなのだろうか?と思いました。大師兄のとても古い下着を見て、悲しいと共に気が急いて、探しながら、「大師兄、なぜこんなに突然なのですか?」とこらえきれず、涙が溢れてしまいました。
 
仕方なく、マイクで徳佩(ドーペイ)師父を呼び、衣服部で下着を作ってもらい、ちょうど大師兄と体格が似ている人から新品の僧衣を借りることにしました。それから、大師兄の足が浮腫んでいるため、大きめの靴と靴下を用意しました。
 
作ったばかりの棉の服は洗うとシワになるので、徳仰(ドーヤン)師父の世話をしている外国籍介護士のイカさんにアイロンをかけてもらいました。イカさんは泣きながらアイロンをかけていたので、私ももらい泣きしました。大師兄が病気になった時はイカさんが着物を洗ってあげていたので、大師兄は彼女をとても可愛がり、良い物があると彼女にあげており、入院する直前になっても何かあげようとしていました。
 
誰も大師兄がこんなに早く亡くなるとは思ってもいませんでした。私たち同門相弟子は、法師がご在世の間は必ずお供し、互いに支え合うと発願していたのです。私は心の中で、大師兄はまだ法師に尽くそうと考えていたのではないかと思いました。
 
大師兄はずっと陶芸をされていたので、法師は《法華經》二十八品の陶器の掛け軸を作るよう指示しました。まだやり遂げていないこの仕事に対して、きっと心残りで仕方がないのでしょうが、無常の訪れには為す術もありません。
 

  
芸術の伝承者
徳慈師父は敬虔に注意深く宇宙大覚者の仏像製作に専念し、「陶慈房」で作られた仏像は、全世界の慈済人の精神の象徴となっている。素人だからと初めは謙遜していた徳慈師父だったが、一九八七年に陶磁器作りに出会い、縁があってテーマ創作の道が開かれた。徳慈師父が開設した「陶慈房」は、国内外の芸術家や職人、愛好家たちが互いに励まし合う中で、創意あふれる作品を出した。
 
大師兄と同じ部屋で三、四十年近く過ごし、私を一番可愛がってくれました。私はその大きな幸せをとても大切にしています。心から大師兄の「随時随所で法師の精神を奉じ、縁を把握して事を為す」態度に感服しています。今生、法師の内弟子となり、大師兄の教えを得た善縁に感謝しています。阿弥陀仏!
(慈済月刊六五六期より)
NO.297