慈濟傳播人文志業基金會
食べることは生きること
農作物と共に成長するコミュニティ
 
アメリカ・サンディエゴの「ナツメグ・ベーカリー」は、
地元の南カリフォルニア食材にこだわり続けている。
ソイラテと季節ごとのフルーツが挟まれたフレンチトースト等だ。
コミュニティで力を合わせて生産と消費の形態を全面的に改め、
住民に、より幸福な生活がもたらされた。
 
 
「二年前、ニューヨーク・タイムズ・マガジン(The New York Times Magazine)の地域情報コラムでアメリカの農家と食のアートについて連載を始めた時、私は食べ物と、それを作った人、そしてシェフたちにまつわる物語について書いているつもりでした」。これはアメリカの作家、クリスティン・ムルケの言葉だ。だが彼女はいくつかの取材を続けるうちに気がついた。「私が書いていたのは食べ物にまつわる話というよりも、人々をとりまくコミュニティ――食品メーカー、消費者、そして美食家――にまつわる話だったのです」。
 
例えば、アメリカのウィスコンシン州マディソン郡に住むパン職人、ジェフ・フォードさんはこのように言っている。「もし、このコミュニティの存在――つまり、私の顧客や仕入れ先、コミュニティの人々の存在がなければ、今日の私はありませんでした」。
 
また、マーケティング・サービス会社から農業へと転身したジョージア州のティム・ヤングさんは、「私が実践しようとしているのは、どうやって畑を耕すかではなく、コミュニティの形成方法なのです」と述べる。
 
そして、カリフォルニア州オークランドの食品業界コンサルタント、アンヤ・フェルナルドさんはこのように述べている。「最近少しずつ見直されている『独立自営農』という概念は、実はコミュニティ再建の動きと深いかかわりをもっています。使い古された言葉のように聞こえるかもしれませんが、これは本当です。コミュニティというものは昔から、いずれも農作物を中心に形成されてきたのですから」。
 
コミュニティ、コミュニティ、コミュニティ。彼らの言う「コミュニティ」とは、いったい何だろう?

食のつながりがコミュニティをつくる

●ポリトー家庭農園で柑橘類を収穫するスタッフたち(上の写真)。農園を経営して30年になるオーナーのポリトーさんにとって農業の仕事の一番の楽しみは、人々とのつながりが得られることだという(左の写真)。
 
昨年、ある五月晴れの日、私は南カルフォルニアの家族で経営している果樹園、「ポリトー家庭農園(Polito Family Farm)」を訪ねた。私は農場主ボブ・ポリトーさんの話を聞くうちに、彼ら農家がしばしば口にするコミュニティというものが一体何なのかを理解した。それは、食べものを分け合ったり、食への関心を共有したりすることで徐々に形成されていく人のネットワークなのである。このネットワークには、種を売る人や、見習いのパン職人、ファーマーズ・マーケットのマネジャー、果物を定期的に購入してくれる朝食屋の主人など、さまざまな人々が含まれている。
 
その他、たとえば毎日朝食を食べに来る学校教師が、ある日思い切ってパン職人に声をかけ、学校でピザ生地の作り方を教えてくれないかと頼むこともあり得る。パンを買いに来る母親達の子供が、自然と遊び友達になることもある。小規模の農家から野菜と果物を定期購入しているジャーナリストが、ある日その農場の取材に訪れるかもしれない。これらは全て、食べ物をめぐって形成されていく人のネットワークだといえる。
 
もっと分かりやすく言えば、コミュニティは人々の会話を通して形成されるものだが、その会話は食べ物をめぐって人々の間に生まれるのだ。人は誰でも食べることが好きだし、食べることについて話すのも好きだ。今も昔も、好きな食べ物やレストランについて話すことは、初対面の人々が打ち解けるためのいいきっかけになる。人々は食べ物をめぐって働き、生活し、気の合う友人を見つける。ポリトーさんは、農業に従事して一番価値を感じているのは、人とつながるという喜びなのだと述べている。
 
ポリトーさんには長年、柑橘類の果物を注文してくれる大口の顧客がいる。ナツメグ・ベーカリー&カフェのオーナー兼メインシェフであるドリュー・ホフォスさんだ。ホフォスさんは地元の南カルフォルニアの食材だけを使うことにこだわり続けている。「店には朝から晩まで私の料理を食べに来る人が訪れます。おいしいと褒めてくれる人もいれば、意見を言う人もいる。ソースが辛すぎるとか、ベジタリアンのメニューが少なすぎるとかね。つまり、私にとってこの店は、仕事であると同時に社交の場でもあるのですよ」。彼の日課は厨房に立って、地元の食材でペーストリーを焼き、五百人余りにブランチを準備することだ。厨房と食事スペースの間には大きなガラス窓があり、彼はパンを作りながら顧客を見ることができる。彼とパン職人がパン生地をこねているところを、子供たちがガラス越しに興味津々で見ていることもある。
 
●ナツメグ・ベーカリーのシェフであるホフォス(右から2人目)は、地元の食材を使ったレシピを作る。厨房とレストランの間にはガラス窓がある。子供が興味津々に窓に近づき、シェフが料理するところを見ている。
 
ナツメグ・ベーカリーはガソリンスタンドの真向かいにあり、店には窓がひとつもない。この立地だけ見れば、朝食屋には向かない場所だということがわかるだろう。七年前にここで開業した頃、店で働いていたのは家族三人だけで、彼がブランチを作り、妻がコーヒーを入れ、妻の母親がパンを焼いていた。店の間取りは小さく、テーブルはわずか四脚だけだった。彼は仕事の合間によくキッチンから顔を出すと、顧客と握手したり、彼らの意見を聞いたり、来店してくれたことへの感謝の気持ちを伝えたりしていた。
 
「あの頃のお客さんが、今では我が家の友人になりました」と彼は言う。「初めてのお客さんは、朝食デートに来ていたカップルでした。彼らはその後結婚して、四年前に一人目の子供が生まれました。彼らは今でもよく店に来てくれています。子供は私のことをドリューおじさんと呼んでいるのですよ」。
 
四年前、ナツメグ・ベーカリーにもう一つ大きなできごとがあった。ホフォス夫妻に第一子が生まれたのだ。同じ頃、店を三倍に拡張し、四脚しかなかったテーブルも今のように室内に十五脚、屋外に五脚に増やし、新たにカウンター席も設置した。「地元で採れた良質の食材を食べる」という理念がコミュニティに認められ、営業時間にはいつも長い行列ができるようになった。
 
「私たちは幸運でした。コミュニティの人々が『ナツメグ』の成功を望んでくれたおかげだと思っています」とホフォスさんは言う。

食を通じたエンパワーメント

食のコミュニティにはさまざまな形がある。サンフランシスコの「フェリー・ビルディング・マーケット・プレイス」のように食農教育の大義を掲げているところもあれば、ニューヨーク市の「ブルックリン・フリー」のように特産品をきっかけとして観光名所に発展したところもある。
 
その他にも、都市の喧騒にかこまれた小さな緑地で、大きな社会的責任を果たしているコミュニティもある。たとえば、難民問題に取り組む「国際救援委員会(International Rescue Committee)」が運営している「青年農園(Youth Farm Works)」がよい例である。アメリカとメキシコの国境に近く、新住民が多数居住しているシティハイツ(City Heights)という地域では、国際救援委員会が難民の子供たちに空き地を提供し、新住民による移住地での農耕を支援している。
 
プロジェクトの責任者であるロビー・ウィルコックスさんはこのように言う。「農業と食べ物は、ある種の媒介としての役割を持っています。子供たちは農作物を育てることで移住先の土地と繋がりができ、人々と食べ物を分け合うことで新たな人間関係を築くことができるのです」。私たちはロビーに案内され、この小さな農園を見学することになった。彼は菜園のなかでキャベツの種類の見分け方を熱心に語り、またこの農園が難民のコミュニティに果たしている重要な役割についても教えてくれた。「ここは、ただ野菜を育てるだけの場所ではありません。子供たちは自分たちで農園を管理したり野菜を販売したりしながら、社交、マーケティング、管理といった重要なスキルを学んでいます。このような経験は、履歴書にも書くことができるのです。ここでは高校を卒業した後に就職する子供たちが多いのですが、ここで経験したことは、彼らがよりよい就職先を得るためにも役立っています」。
 
●難民問題に尽力するNGOである「国際救援委員会」は、新住民が多いアメリカとメキシコの国境付近で都市農園を営むことによって、子供たちに農業経営のスキルを学ぶ機会を与えるとともに、コミュニティに新鮮な食材を届けている。
 
現在、ここで農業に取り組んでいる難民の子供たちは六人いる。子供たちの出身地はコンゴ、ホンジュラス、メキシコ、モザンビーク、南スーダンとさまざまだ。彼らは毎週土曜日に屋台を出して、自分たちが育てた野菜を売っている。私たちがここを訪れた週末には、二人の黒人少女が屋台に立っていた。南スーダンから来たという十七歳の少女ルファイダは最近中国語を習っていると言い、私たちを見かけると熱心に話しかけてきた。「私は大きくなったら国際人権弁護士になりたいと思っています。ここでは野菜を売りながら話術を磨いたり、コミュニティの人たちと知り合いになったりすることもできます」。
 
もう一人の少女、ビンビンヤタはこのように話した。「昔、私の家族がモザンビークでズッキーニを育てていた頃、私もよく畑仕事を手伝いました。本当は故郷が恋しくてたまらないけれど、ここで野菜を育てるのも好きです。野菜を育てていると、モザンビークの家を思い出すことができるからです」。
 
さらに多くの食のコミュニティが、より小さく、非公式な形で存在している。その多くは非商業的なものであり、人々の生活にとって欠かせない存在となっている。たとえば、公立学校でよく開催されるピクニックでは、保護者が子供たちと一緒に学校の庭で食事をしながら、子供たちの学校生活に触れることができる。また、多くの地域で催されるカウンティ・フェアでは、食べ物や飲み物がふるまわれたり、羊や牛などの家畜美人コンテストが企画されたりするが、こうした活動のうちには百年の歴史を誇るものも多く、一家揃って出かける。また、在米華人の教会には「愛の宴」と呼ばれる独特の習慣があるが、その始まりは、かつて新しい土地に移住してきた同胞たちの親睦を深めるために、日曜日の礼拝のあと郷土料理を囲んで彼らの望郷の念に寄り添ったことだと言われている。
 
このように、アメリカ社会のさまざまな場所で、食のコミュニティが生まれ、成長してきた。だが「地元で採れた季節のものを食べる」という考え方は長い間宣伝されてきたが、今でも主流にはなっていない。統計によると、全米のファーマーズ・マーケットは一九九四年の千七百七十五カ所から二〇一四年の六千百三十二カ所へと成長しているが、ファーストフード業界の売上高は一九七〇年の六十億ドルから二〇一〇年の千七百億ドルへと成長している。ファーストフード産業の成長率は、地元の小規模農家のそれをはるかに上回っているのである。また、食コミュニティの形成において、職種は無視できない要因の一つとなっている。ホワイトカラーの知識階級であれば、地元の農家が育てた鶏を購入して自宅で料理するため一羽二十五ドルの対価を支払うこともできるだろう。だがブルーカラーの労働者たちは、好むと好まざるとにかかわらず、ファーストフード店で一袋一ドルのチキンナゲットを買うことしかできないのである。食の工業化と貿易交渉のパラドックスにより、自然に栽培された野菜や果物の値段が化学薬品だらけのものよりも高くなり、地元の小規模農家が育てた野菜や果物は海外からの安い輸入品の波に勝てなくなった。「地元で採れた良いもの食べる」という当たり前だったことが、今や手の届かないぜいたくになったのである。

地元で採れた、季節のものを食べる

このような不条理を、ナツメグ・ベーカリーのホフォスさんはいつも身近に感じてきた。「南カルフォルニアが干ばつに見舞われたあの年、私はヨーグルト・パフェの提供をやめざるをえませんでした。私は地元で採れたナッツと蜂蜜しか使わないと心に決めていましたが、あの年の干ばつで南カルフォルニア産のナッツと蜂蜜が恐ろしく高騰したのです。損失を抑えるためには値上げが不可欠でしたが、一杯十七ドルのヨーグルト・パフェなど、いったい誰が食べたいと思うでしょうか?」。彼の話しでは、当時南カリフォルニア州の朝食屋は、どこも海外から輸入したナッツと蜂蜜を使うことでコストを抑えていたという。だが彼は「地元産の食材だけを提供する」という原則を曲げたくなかったため、やむなくこのメニューを中止した。理解を示してくれた客もいれば、わかってくれない客もいたと言う。「この店はどうしたことだ?他の店ではまだ売っているというのに!」と言われたこともあった。
 
彼はこのように考える。「私たちは、輸入食材に甘やかされたおかげで、お金さえあれば何でも食べられると勘違いしているのではないでしょうか。地元で採れた季節のものを食べるということの意味を考えなくなったのです。それは、地元の風土や気候で育てられた食べ物の美味しさをそのまま味わおうとすることであって、風土や気候のほうが自分の好みに合わせてくれるはずだと期待することではないのです」。
 
だがそれでも、自分自身で大地に作物を育て、厨房で料理を作りたいと切に願う人々は存在しつづけた。食のコミュニティが一つ、また一つと形成され、「地元で採れた季節のものを食べる」という考え方が、再び当たり前のこととして受け入れられるようになってきたのだ。私は素晴らしい物語を聞いたことがある。デトロイト近郊のノース・エンドという地域は、かつて「食の砂漠」と呼ばれていた。市内に大型のスーパーマーケットが一つもなく、食品の九割がコンビニや酒屋、ベジタリアン・レストランで供給されているという状況だったからだ。だが「オークランド・アヴェニュー都市農園(Oakland Ave Urban Farming)」は、放置されていた空き地を都市農園に変えることで、この「食の砂漠」に豊かな食のコミュニティを作りあげた。一度は荒れ果てた土地に、今では週末ごとに老若男女が集まって、ほうれん草やビーツを収穫したり、互いの話に花を咲かせたりしている。彼らはもともと隣人同士なのだが、デトロイトの財政が破綻して治安が悪化してからは、互いの交流が希薄になっていた。食が、再び人々を結びつけたのである。
 
●地元の食材を提供する小さな商店は、大型チェーン店に追いやられている。だがデトロイトでは、食こそがコミュニティの共通点だとの考えから、今でも伝統市場で野菜や果物を購入し続ける住民が
多い。
六月初旬の日曜日、私たちはオークランド・アヴェニュー都市農園を見学することになった。古い街並みの中に、色鮮やかな菜園があらわれる。二列に並んだ細長い温室にはさまれて、黄色と青のペンキで彩られたカラフルな木造の小屋が立っていた。農園のボランティアたちの集会所として使われる建物であろう。
 
農場主のジェリー・ヘブロンさんと約束した面会の時間になったが、静かな畑にはまったく人影が見られず、ただミツバチの羽音がブンブンと鳴り響いていた。自転車で通りかかった人が私たちを見て、「ジェリーに会いにきたのですか? 彼女は曲がり角の教会にいますよ。待っていてくださいね、私が彼女を呼んできますから」と親切に話しかけてきた。
 
私が驚いて「ジェリーとお知り合いなのですか?ありがたい偶然です」と言うと、彼は笑いながら答えた。「このコミュニティで、彼女を知らない者はいませんよ。ここで待っていて下さい。すぐに戻りますから」。
 
そのようなことがあったので、まだジェリー本人と出会う前から、彼女がコミュニティに与えている影響の大きさがよくわかったのである。ほどなくして、鮮やかなピンク色の服とスカートに身を包んだ中年の女性が現れた。「私がジェリーです。今日は教会に礼拝する日だったのです」という彼女の言葉で、時間に遅れた理由とともに、その服装のわけについても知ることになった。
 
●デロイト北端にあるコミュニティでは、加工食品しか買えない時代もあったが、ヘブロンは農場を作って隣人に新鮮な食材を提供した(右の写真)。キング・ストリートの住民が道端の土地で野菜と果物を育てているところ(左の写真)。 
 
かつて不動産の仲介業をしていったというこの六十九歳の婦人は、オークランド・アヴェニュー都市農園の成り立ちについて語りはじめた。「私はこのコミュニティで生まれ育ちました。自動車工業が盛んだった時代、この街はとても賑やかだったのですよ……」。彼女の記憶によれば、およそ六十年前、このコミュニティには建物が密集しており、隣近所は互いの声が聞こえるほど近かったという。近所の子供たちは窓越しに声を掛け合い、連れ立って学校へ通った。
 
彼女は成人すると仕事のため地元を離れて都会へ出た。そして十四年前に退職して故郷へ戻ると、そのあまりの変化に驚いた。「建物が取り壊され、広い空き地には人の背丈ほどもある雑草が伸び、危険な状態になっていました」。デトロイト市政府の財政が破綻した後、多くの人々がこの地を離れたため、放置されたり差し押さえられたりする建物が増えた。麻薬業者や犯罪者がこれらの空き家に隠れ住むようになると、コミュニティの治安は崩壊し、隣人は互いに警戒するようになったという。
 
「スーパーマーケットも撤退し、近所の人たちは食材を買う場所すらなく、人々はファーストフードばかり食べて、とても不健康でした」。当時、このコミュニティの土地は一坪五ドルまで値下がりしたにもかかわらず、買い手もつかない状況だったという。彼女は百坪の空き地を購入して菜園を二畝つくり、野菜を育てはじめた。収穫した野菜は近所の人々に配った。そして彼らに農業の楽しみを説いて回り、一緒に農作をしようと誘いかけた。
 
この二畝の菜園はしだいに、人々が週末に集まる場所になっていった。コミュニティの人々がここでイベントを催したり、小学校の教師が子供たちを連れて見学に来たりすることもあった。それから十一年が経った今、二畝だった菜園は、街の区画を二・五ブロックほどまたぐ大きさになり、金曜日にはファーマーズ・マーケットも開かれるようになった。だが彼女にはもっと大きな夢があるという。「私はここでフルタイムの農業スタッフを雇って、新たな就業の機会を生み出したいと考えています。そして、自分の生まれ育ったコミュニティを再建するのです!」。

コミュニティの飲食革命

およそ三千六百キロ離れた南ロサンゼルスにも、都市のジャングルで農耕をはじめた、革命的な精神の持ち主がいた。彼こそはTEDスピーチで一躍有名になったロン・フィンリーさん、その人である。
●ロサンゼルス南部に住むフィンリー(写真右)は、コミュニティで新鮮な食材が買えないことに気づくと、自分で歩道に新鮮な野菜と果物を育てて隣人に無償で提供した。その理念は人々に受け入れられ、彼のTEDスピーチは人気を博した。
 
「私が我慢ならないのは、私たちのすべてが現代経済に支配されているということです。最も基本的な、食べることから始めましょうか」と言って、彼は話し始めた。「あなたは自分の口に入れるものが、どこから来ているか知っていますか?あなたの食べているそのトマトは、どんな化学肥料を使っているのでしょう?」。
 
十年前、彼は自宅の前の歩道で野菜を育てはじめた。歩道は私有地ではないという理由で逮捕されたこともあるが、フィンリーは罪を認めなかった。「私がどんな罪を犯したというのでしょう? 私はただ、自分が食べるものは自分で管理したいと望んだだけです」。彼はTEDスピーチでこのようにも訴えた。「私が住んでいるのはドライブ・バイ(走行中の車での銃撃等の犯罪)とドライブ・スルーの街として知られる、あのサウス・ロサンゼルスです。でも、皆さんは知っていますか? ドライブ・スルーが原因で死ぬ人々のほうがドライブ・バイで殺される人々よりもずっと多いのです」。
 
フィンリーさんの歩道には、今ではザクロやバナナがたわわに実っている。彼はヤシの実を収穫している近所の子供たちを見ながら冗談を言った。「知っているかい?果物というのは、スーパーマーケットの棚から生えてくるわけじゃないんだよ」。
 
新鮮な野菜をもらっても料理ができない人もいるため、都市農園の主催者のなかには料理教室を開いている人もおり、大変興味深い。
 
たとえば、サンディエゴのシティ・ファーマーズ・ナーセリー(City Farmers Nursery)では毎週末に料理や園芸などのさまざまな教室が開かれている。ここは、サンディエゴでもっとも古い農園だ。創業者でありオーナーでもあるビル・トール(Bill Tall)さんは農業を愛しており、一九七二年に高校を卒業すると、すぐにこの小さな農園を開いた。この四十七年間、都市農業にはさまざまな課題がふりかかったが、彼の粘り強さと熱心さ、そしておそらく幸運にも助けられて、この小さな農園はずっとここに存在し続けた。この農園は、今ではサンディエゴの農業青年クラブが憧れる聖地であるという。
 


●年に1度催されるカウンティ・フェアに地元の農家が参加し、子供たちが家畜の羊の美人コンテストに参加しているところ(上の写真)。サンディエゴのファーマーズ・マーケットで野菜と果物が売られているところ(左上の写真)。コミュニティの親子が幼稚園のランチ・ピクニックに集まっているところ(左下の写真)

 
私たちもその評判を聞き、この聖地を訪れることにした。その日、彼は自宅のリビングにいた。彼は野外調理を得意とする友人を講師として招き、十数人の仲間たちを生徒として、太陽熱クッキングの授業を開いているところであった。平屋は農園のすぐ後ろに建っている。玄関の前にはピザが焼ける土窯が、室内には明るくて広いオープンキッチンがある。色とりどりのインテリアは、田舎の農家の風情を感じさせた。
 
教室には老若男女が集い、なかには子供連れの参加者もいた。彼らは講師の指導を受けながら、厚紙をかまど状に重ねあわせ、そこに日光を集めるためのアルミ箔を貼り付けていた。
 
「南カリフォルニアの太陽の光はこんなにも強力なので、ここに住んでいるのなら利用しない手はありません。電気も、ガスも、木材も使わず食材が食べられる状態になるのです。環境に良いだけでなく風味も格別なのですよ!」と講師が言うと、彼も「メキシコのチリスープは、太陽熱で煮込むのが一番ですよ」と口添えした。
 
●トールは農業を愛しており、高校卒業後にサンディエゴ初の都市農園を作った(写真左)。週末には農園でさまざまな農芸教室を開き、コミュニティの人々に参加を促している(写真右)。
 
自らこの地に腰を据えて作物を育て、自分も厨房で料理することは、不思議な安心感をもたらす。
 
「食物を育てる人、調理する人、そして食べる人。その間に生じる信頼関係こそが、食のコミュニティの真髄なのです」とポリトーさんは言う。「かつて私の両親からオレンジを購入していた人々が今でも私のお客さんになってくれているのは、そういうことです」。
 
取材の中で何度も聞いたことがある。アメリカで有機農業の認証を得るためには複雑な手続きが必要で、家族単位で営まれる小規模農業者にとっては負担が大きすぎるのである。
 
彼の発言もそのような現実を浮き彫りにしている。「この農園では、両親の代からずっと有機栽培で果樹を育ててきました。約十年前、有機農業がある種のブームになった時、多くの大規模農家が栽培方法を変えて認証を取得しました。それ自体は良い変化だと思っています。ただ、私たちのような小資本の果樹園には、認証を取得するための人手も財力もないのです」。
 
彼の得意先の多くは健康や有機野菜を経営方針としているレストランや市場であるが、認証を得ていないからといって、ポリトーさんを見捨てたりはしなかった。ナツメグ・ベーカリーのホフォス、そしてリトル・イタリアンのマルカート農家市場(Marcatoとはイタリア語で市場を意味する)の担当者は口をそろえて言う。「私たちはボブを信用しています。彼の作るオレンジは最高ですよ!」
 
ポリトー農園の水利を任されているサントスさんもこのように言っている。「私はボブが好きなのです。彼の両親の代からここで働いていましたし、今は彼のもとで働いています。私は永遠にここで仕事ができればいいと思っています」。サントスさんの妻もここでジュース絞りの仕事をしており、四人の子供たちは近くの学校に通っている。「私はこの谷で働く人々を、一人残らずよく知っているのですよ」。
 
午後四時、一日かけてオレンジを収穫していたスタッフたちが退勤する。彼らは収穫したオレンジを袋に詰め、持ち帰って家族と共に食べる。夕日で長く伸びた影が、彼らと共にゆっくり移動する。彼らは駐車場への道を歩きながら、趣味のスポーツのこと、家族のこと、そして学校の子供たちのことを語り合っている。これこそが父親から受け継いだ農場――コミュニティの姿なのである。
(経典雑誌二五八期より)
No.286