慈濟傳播人文志業基金會
環境保全を牽引する民間の力
台湾の環境保護活動は、世界的な潮流の中、素晴らしい成果もありましたが、「このままでは間に合わないのではないか」という焦りは消えていません。各地の環境ボランティアたちは、額に汗流し腰をかがめて手を動かし、人々の消費のスピードに追いつこうとしています。萬人の力で億人を動かし、地球が永遠に安泰であるよう護りたいのです。
 
 
二〇二〇年は、慈済の環境保全活動三十周年、また国際的な環境イベント「アースデー」の五十周年にあたる年でもあります。ところが新型コロナウイルスが猛威を振るい、多くの記念イベントや講演会が中止や延期を余儀なくされました。
 
今年前半の感染ピーク時には億単位の人が仕事や旅行を断念し、中国やヨーロッパの工業都市ではロックダウンや生産停止が相次いだため、各国は感染の脅威と経済危機という二つの問題の板ばさみに遭遇しています。一方で、自然環境は束の間の休息を得ることになりました。スモッグに覆われた空が青く澄みわたり、ガンジス川の水は本来の透き通った姿を取り戻したのです。
 
とはいえ、短期的な改善では大自然の問題が好転したことにはなりません。二〇一九年十一月、欧州議会は「気候非常事態宣言(climate emergency)」を決議しました。『オックスフォード英語辞典』も二〇一九年を象徴する言葉にこれを選び、地球が既に危機的状況に陥っていると警鐘を鳴らすと共に、人々に速やかに行動を起こすよう呼びかけています。
 
台湾師範大学環境教育研究所の葉欣誠(イエ・シンチョン)教授によれば、極端な気候変動によって、世界はこれから二、三十年にわたり、さらに大きな災害に見舞われる可能性があるそうです。気候変動の問題に取り組むにあたっては、まず現状をよく認識し、一歩踏み込んだCO2削減などの措置を取ることが肝要になります。
 
専門家が警鐘を鳴らしている通り、證厳法師が環境保全に対して「間に合わない」、「遅すぎる」と心配されていることは決して杞憂ではありません。また、證厳法師が人々の「共知、共識、共行」を望むのは、宗教家としての悲観的見解というより、むしろ現代人が直面すべき現実だといえます。
㊟二〇一五年十二月二十四日法師が朝の会で開示した言葉。誰もが知ることで同じ考えを持ち、共に歩むことを意味する。同月パリでは第二十一回気候変動枠組み条約締約国会議が開かれていた。法師はその後いち早く慈済の取り組みを導いた。
 
慈済ボランティアは、額に汗して大地を守り続けるだけです。簡素な生活を送って水や電気を節約し、消費を抑えながら、リサイクルできるものであれば、どんなに小さくてもきちんと拾い、各地のリサイクルセンターで分別と回収を行っています。
 
ペットボトルはボランティアたちによって踏みつぶされ、本体からキャップとリングを外して、素材別に分けられます。グラム単位で量るポリ袋は二、三百枚でやっと一キロですが、それを面倒臭がる者はいません。
 
彼らは時間や労力を惜しむことなく、回収物を売ったお金がいくばくかの寄付になるのであれば、交通費や食事代を喜んで負担します。最近流行の言い方をすれば、慈済人のすることはまさに「仏系」の環境保全活動なのです。仏の心を己の心とし、師の志を己の志として、行動から学び、学びから悟る心構えがなければ、数十年一日の如く、努力し続けることは不可能でしょう。
 
「證厳法師は、環境保全には目に見えるリサイクルだけでなく、心の教育も含まれていると言いました。ゴミは黄金に変わり、黄金は愛に、愛は清流と化す、その一歩一歩に意味があるのです」と古参のリサイクルボランティア、陳金海(チェン・ジンハイ)さんは言います。
 
●澎湖列島でのリサイクル活動の様子。ボランティアたちは山のように積まれたペットボトルに囲まれ、素材別に分別していた。これは単なるゴミ拾いではなく、資源リサイクルの前奏曲なのだ。

大地の声を代弁し、環境保全を啓蒙して半世紀

環境保全と聞いて多くの慈済人が思い起こすのは、三十年前、證厳法師が呼びかけた「拍手する手で環境保全を」という言葉です。歴史的には、人類が環境保全というものを意識し始めて以来、今年で既に五十年余が経過しているのです。
 
一九六二年に出版されたアメリカの作家レイチェル・カーソン(Rachel Louise Carson)の著作『沈黙の春(Silent Spring)』は、アメリカ人を驚愕させました。化学薬品による生態環境の破壊が続くならば、いずれは人類自身に危険が及ぶことを知ったのです。「告発者」となったレイチェル・カーソンは、それゆえに化学工業産業界からの攻撃を受けることになりましたが、厳正な科学的根拠に基づくこの主張には、驚くべき影響力がありました。
 
『沈黙の春』の出版により、アメリカの環境保全活動は一大ムーブメントとなりました。一九七〇年四月二十二日には二千万人の民衆が街頭デモに参加し、最初の「アースデイ」を呼びかけたのです。アメリカ政府は環境保護庁を設置し、議会では環境保全に関する法案が次々と可決され、一九七二年、生態系に対し有害な農薬のDDTの使用が、ついに禁止されました。
 
その頃台湾では、政府も民間も環境保全への認識が不足しており、この島国の脆弱な環境は経済発展のために重い代償を支払っていました。
 
賃金の低さと環境基準の緩さという「優れた」投資条件に目をつけた外資系企業は、次々と台湾に工場を設立したのです。彼らは本来負担すべき汚染防止コストを節約した代わりに、償いきれないほどの土壌汚染をもたらしました。
 
台湾人が自らもたらした環境汚染もそれと並ぶほどでした。例えば台南を流れるアーレン川(二仁溪)では、不徳な廃棄物処理業者が川沿いで電子廃棄物を酸で洗浄し、焼却して金や銅などの貴金属を取り出していたため、重大な環境汚染をもたらしたのです。北部の大漢川や淡水河の沿岸もゴミで溢れました。
 
一九八〇年代半ばから、人々の生活水準や知識水準が向上するにつれて、台湾でも環境保全の動きが強まると、公害や汚染、原発に反対し、生態や野生動物を保護しようという動きがあちこちで生まれました。一九八七年、衛生署の管轄下にあった環境保護局が中央政府レベルにあたる環境保護署に格上げとなり、「水汚染防止法」、「空気汚染防止法」、「廃棄物処理法」などの関連法規の多くが一九八〇〜九〇年代に改訂され、環境破壊に対して厳格な規制が敷かれることとなりました。
 
●かつてオランダから取り寄せられた「宇宙人型リサイクルビン」は、4年も経たずに姿を消したが、台湾の人々に環境保全意識が芽生えるきっかけとなった。この可愛らしい宇宙人たちは、台湾のリサイクル活動の歴史に鮮烈なイメージを残した。

拍手する手で、ゴミの分別

法の制定・修正・執行に加えて、環境教育も重要な政策の一つです。人々の関心を惹きつけるため、当時の環境政策にはいずれも面白いニックネームがつけられていました。例えば、廃タイヤの回収を「ナポレオン計画」としたのは、中国語のナポレオン「拿破崙」と、破れたタイヤを意味する「拿破輪」の発音をかけたものです。また沿岸清掃活動には、「アザラシ計画」という親しみやすい名前もありました。環境保護署はさらに、ヨーロッパから可愛い「宇宙人型リサイクルボックス」を取り寄せたこともありました。こうした工夫にもかかわらず、ゴミの分別とリサイクルは、当初なかなか根付かなかったのが実情です。
 
「大人たちに話しても、反発を招くばかりでした。税金を納めているのに政府は掃除せず、なぜ私たちに分別させるのかと言われたのです」。初代の環境保護署長である簡又新(ジェン・ヨーシン)氏は、力なく当時を振り返ります。大人たちの考え方を変えるのは難しいと悟った政府は、学校教育に力を入れ始めたのです。時を同じくして、慈済人は師の教えに従って、環境保全活動を始め、「ゴミの島」の運命を変えようと取り組み始めました。
 
一九九○年八月二十三日、證厳法師は呉尊賢文教公益基金会に招かれ、台中市新民商工高校で講演を行いました。その日の早朝、法師が市内を車で移動しますと、夜市が終わった場所にゴミが散乱し、ポリ袋が風に舞っていたのです。その光景を見た法師は心中の嘆きを禁じ得ませんでした。
 
法師はその夜の講演で、メインテーマであった七月の吉祥月や親孝行と善行に加えて、もう一つ述べました。「台湾は風光明媚な宝島です。青々とした山と海に白い雲が浮かぶ光景はとても美しいですね。整頓しようと思う心があれば、今よりもっと美しくなります。でもそれには、多くの人の力が必要です」。
 
講演の最後に、證厳法師はこう呼びかけたのです。「ガラスはガラス、鉄は鉄に戻るのです。人々と政府が協力すれば、世界を清めることができるはずなのです」。聴衆が割れんばかりの拍手をすると、法師はもう一言添えました。「皆さん、どうか拍手するその手で、ゴミの分別をしてください」。
 
その日の聴衆には、地元台中の人々だけでなく、彰化県など他県から来たボランティアたちも含まれていました。彼らの多くは深い感銘を受けたそうです。家に帰ると直ちに行動に移し始めたのです。
 
「花蓮の師匠は、両手を動かしてゴミの分別をすれば、環境を守ることができるとおっしゃいました。もし全ての家から古新聞を回収すれば、環境が守られるだけでなく、それを売ったお金で師匠の病院建設を支援できると思いました」。台中市豊原区の楊順苓(ヤン・シュンツェン)さんが資源回収募金を発案すると、その思いに感動した近所の人たちが次々に協力を申し出たそうです。一カ月後、證厳法師が再び台中に行脚した時、彼女は慈済で初めての資源回収募金を献上したのです。金額の多少にかかわらず、大きな意義ある行為でした。
 
法師は、楊さんの心がけは自我への固執を克服するものであり、悪臭を恐れずゴミを分別し、資源回収に励む姿は人々の手本になると高く評価しました。一九九〇年後半から、慈済人は「拍手する手で環境保全を」の活動を展開し始め、台湾の北・中・南部から花蓮の玉里に至るまで、多くの慈済人がゴミの分別と資源回収に精を出したのです。
 
台中市黎明区に住む慈済ボラティアの簡素絹(ジエン・スゥジュエン)さんは、自宅の玄関先にリサイクル拠点を設置し、環境保全の夜明けとの願いを込めて、これを「黎明」と名付けました。彰化県員林の施淑吟(シー・シューイン)さんは回収資源の運搬のためにトラックの免許をとりました。回収物の売却金はガソリン代にもなりませんが、それを不満に思うこともなく、リサイクルを堅持しています。
 
北部に住む陳惠民(チェン・フイミン)さんは、当初はためらいがあったと言います。一九九〇年の末に台北板橋区の台北県立体育館で「幸福人生講座」を聴講した時、證厳法師が再び、「拍手する手で環境保全を」と呼びかけるのを聞きました。ところが、会場を出てゴミ箱がいっぱいに溢れ、紙くずやポリ袋が地面に散乱している光景を見るに見かねたというのに、すぐにその場で拾い始めることはできなかったそうです。
 
その時、證厳法師が講演中に諭された「人は誰でも、自分を甘やかしたがるものです」という戒めの言葉を思い出しました。そこで彼女は勇気を奮いおこし、悪臭や汚れも恐れず、探してきた幾つかの大きな袋に、散乱するポリ袋、ペットボトル、鉄やアルミ缶を分別しながら、周囲の人々にも呼びかけて一緒に拾い始めました。心の持ち様を変えたことで、環境保全への道が開かれたのでした。
 
 
環境保全活動30年 現場を振り返って
1990年、證厳法師は台中の新民商工高校での講演で「拍手する手で環境保全を」と呼びかけた。(写真上 花蓮本部提供)
1991〜1992年、慈済は金車文教基金会と協力し、「人間浄土を創る」と題した活動を推進して古紙の回収を手引きし、リサイクルの観念を持つよう呼びかけた。(写真次頁右 撮影・陳淑伶)
1996年、台風9号による災害の後、雑誌『天下』は「美しい台湾、清らかな故郷」運動を推進した。台湾全土の慈済人がこれをサポートし、高雄の紅毛港の砂浜に集まった高雄のボランティアや住民たちがビーチの清掃に励んだ。(写真次頁左 撮影・陳玉芳)

九〇年代の反省:人間浄土を創る

一九九〇年代初期、環境保全を熟知している者は少なく、また台湾社会には刹那的な宝くじが流行っていました。環境問題の根源も人の心にあると考えた慈済は、一九九一年、金車文教基金会と協力して、「人間浄土を創る」と題する活動を展開しました。
 
同年三月の第一段階のテーマは「思想の浄土」で、「人心の浄化、家庭の浄化、社会の浄化」を目標に、講座や音楽会、園遊会など三カ月にわたるイベントが開催されました。そのイベントは、雑誌『遠見』の選ぶ同年最大の大衆運動と称されました。
 
一九九二年三月、第二段階としての「人間浄土を創る」というイベントでは、多くの民間組織に協力を仰ぎ、植樹や資源回収を通じて人々に環境の大切さを呼びかけることで、「浄土で生活する」ことを実践に移しました。
 
またその年、慈済は世界的な活動である「アースデイ」に呼応し、四月十九日に八つの県と市に跨がる九つの拠点で、同時に「福を知り、福を大切にし、更に福を造る──古紙回収で台湾の森林を救おう」と題したイベントを開催しました。六時間にわたるイベントの間に各地の住民から集められた古紙は、百六十トン余りに上り、その売却金はすべて慈済医学院の建設資金にあてられました。こうして「ゴミが黄金に変わり、古紙で名医を育む」という功徳が達成されたのです。
 
一九九六年七〜八月に台湾を襲った台風九号は、再び台湾の環境に警鐘を鳴らすものとなりました。苗栗県三義郷では土石流が人命を呑み込み、南投県信義郷の神木村はほぼ壊滅し、台湾北部では板橋や汐止が大洪水に見舞われました。
 
天災が去った後、證厳法師は胸を痛め、弟子たちに切々と訴えました。台湾は小さな島であり、大切にしなければ「地図がすっかり変わってしまうこともありうるのです」。
 
證厳法師の訴えに呼応した雑誌『天下』は、慈済や台北市環境保護局、新竹工業研究院など十七の組織に呼びかけ、「美しい台湾、清浄な故郷──九九九(九と久は発音が同じ。永遠を意味)、みんなで一緒に清掃しよう」というイベントを共同で開催しました。
 
これは「人間浄土を創る」に続く環境保全の一大ムーブメントとなりました。慈済を含む数百の民間団体と五万人の民衆がこの活動に参加したのです。十月二十日、旧暦九月九日の重陽節の午前九時ちょうどに、一万人にのぼる慈済人が十八の県と市に跨がる四十以上の拠点で「九九九、みんなで清掃しよう」と声をかけあいました。紅毛港付近の砂浜では、年老いた高雄のボランティアたちが腰をかがめてゴミを拾いました。花蓮のリサイクルボランティアたちは、小雨の中で落ち葉を掃き、故郷の台湾東部を清潔な街に仕上げたのです。
 
「資源回収に取り組むことは、すなわち福を修めることです。環境保全の考え方を人に教え、その人もそれを実行したならば、それは智慧を修めることになります。自ら行い、人に教えれば、とても大きな力が生まれます」。人々が努力して働く姿をご覧になり、證厳法師はボラティアたちが各地域にこれを広めていくことを望んだ。こうしてリサイクルセンターやボランティアが少しずつ増えていくことで縁が広がり、更に多くの菩薩が集まることになりました。
 
環境保全先駆者の三十年
 
慈済の古紙回収拠点
1992年、「人間浄土を創る」と題した古紙回収活動を経て、台湾全土の慈済ボランティアが定期的な古紙回収拠点を設け、住民にリサイクルを呼びかけた。花蓮では毎月第1日曜日に住民が古紙を持ちより、ボランティアがトラックで回収拠点を回って集め、回収業者に売却した。写真は花蓮の玉里にある鴻徳医院の回収拠点。(撮影・張澄淇)
 
初めての海外清掃活動
1992年、慈済の環境保全活動は海を渡った。ニューヨークのボランティアは同年6月、支部の近くで「コミュニティを愛し、清らかな大地を守る」と題した清掃活動を展開した。ボランティアたちは箒を片手にゴミの散乱したチャイナタウンを清掃した。(写真の提供・慈済ニューヨーク支部)
 
最初の環境保全教育センター
高雄市仁武区八卦寮のリサイクルステーションは、199 9年に国立中山大学慈済人文課程の教師と生徒を招き、資源の分別や環境保全の知識を学んだ。その後も各種団体の見学を受け入れ、環境保全教育を推進した。比較的規模の大きなリサイクルセンターは徐々に環境保全教育センターの役割を担うようになったが、八卦寮リサイクルステーションは、その先駆けの1つである。(撮影・顔霖沼)
 
台湾北部初の資源回収トラック
1991年、板橋の慈済ボランティア陳蕙民さん(右から3人目)は、「標会」という方法で得た20数万台湾元(約92万円)で慈済台北地区における初めての資源回収トラック「環境1号」を購入した。この車両はボランティアが運転する専用車であり、各地区の固定回収場所を機動的に巡回しながら住民が持ち込んだ資源を回収し、整理した後に売却先へ運んだ。(写真提供・陳蕙民)
 

新たなミレニアムへの精進:

腰を低くして働き、顔を上げて呼びかける

政府は埋め立ての代わりに焼却を採用し、公的機関と民間団体はゴミの分別の普及に努めました。ミレニアム後の台湾は、前世紀の八十、九十年代よりも清浄になったのでした。
 
「数字」は口ほどにものを語ると言います。環境署の統計によれば、台湾のゴミ運搬量は一九九八年の八百八十万トン余りから二〇〇〇年には七百八十万トン余りへと減少し、二〇〇六年にはさらに五百万トンへと減少しました。一方資源回収量は一九九八年の十二万九千トン余りから二〇〇六年の二百十八万八千トン余りへと約十六倍に増加したのです!
 
ゴミの量は徐々に減少し、政府による焼却場の建設数は三十六基から二十四基へと減らされました。予想以上の効果が得られたのは、環境署が一九九七年より各地の住民、地方政府のゴミ処理隊、回収業者、回収基金を結びつけた「四合一資源回収」体制を敷き、住民やゴミ処理隊、回収業者が、資源回収により得られる利潤や報酬を目的として、自発的に参加するようになったおかげでした。
 
慈済は政府が普及活動を始めるよりも早く、「ゴミが黄金に変わり、黄金が愛の心に変わる」という精神を発揮していました。一九九八年に大愛テレビ局が設立されると、環境保全による収入は主に大愛テレビの運営資金として使われるようになり、「愛が清流と化し、清流が全世界を巡る」というメディアの機能と社会教育を支えています。リサイクルボランティアは資源の回収からお金を得ることはありませんが、お金では買えない健康と喜びを得ています。
 
「いつも四時前には家を出ます。自転車の後ろにゴミを集めるための籠をつけて八掛山のふもとまで行って、そこから徒歩で山を登るのです」。彰化県の慈済ボランティアである黄蔡寛(ホアン・ツァイクアン)さんは、運動を兼ねて山道の紙屑やビン、缶などを拾っています。百歳を越えた彼女は、周囲から同情の目で見られても気にせず、腰をしゃんと伸ばして大声で言います。
 
「環境保全のおかげです。体も元気で、悩みもありません!」
 
西欧諸国は議会で法案を可決して政策を立て、他律的な強制力によって政府や企業、民衆に環境を守らせるのに対し、慈済はまず個人の心に働きかけ、簡素な生活を勧め、人々を自然に資源回収拠点へと導きました。大地と生態系のために力を貸すことで「反省して自分に要求し」、「自ら悟り他に覚らせる」という東洋文化を体現していると言えます。慈済を見学しに来訪した欧米人が、ボランティアたちの信仰心と敬虔さを目にして感動するのはそのためでしょう。
 
リサイクルの10指口訣
回収資源の分別の仕方:口訣で覚えよう!
 
多くの慈済人は黙々と環境保全に努めていますが、最近では胸を張って自分たちの成果を語るようになりました。二〇〇六年、慈済の実業家ボランティアが技術的な課題を克服し、回収したペットボトルから災害支援用のエコ毛布を作り、量産化することに成功しました。これは慈済人が環境保全に力を入れていることの有力な証にもなりました。
 
「このエコ毛布は、リサイクルボランティアと実業家ボランティアの愛でできているのです。ですからこれを受け取った人は、あふれる愛を感じるはずですよ」と実業家ボランティアの李鼎銘(リー・ディンミン)さんが言いました。
 
回収されたペットボトルからリサイクルされて量産化されたエコ毛布は、既に全世界で百万枚余りが配付されています。フィリピンにおける台風ハイエン(二〇一三年・台風三十号)の被災者やシリア難民、そしてコロナウイルスと戦うアメリカの貧困者など、世界中の人々に送り届けられているのです。
 
資源回収品から作られた救済物資は、環境保全と人道支援の両者をパーフェクトに結びつけました。エコ毛布は国連などの国際的舞台でもたびたび報告され、廃棄物処理と災害支援の解決策を求める世界に、新たな視点を提供したと言えます。
 
新しい世紀の慈済の環境保全はより厳しい試練に直面するでしょう。慈済は台湾における環境保全を深耕し続けると同時に、世界を牽引していこうとしています。万人の力で億人を動かし、共知、共識、共行で以て、地球のため、そして現代に生きる人々と未来の子孫のために、永続的な平和を確保していきたいのです。この長くて遠い道のりは、一生かかっても終わりが見えないかもしれません。それでも慈済人は、固い決意で人々を導き、共にこの道を歩み続けるのです。
㊟二〇一五年十二月二十四日法師が朝の会で開示した言葉。誰もが知ることで同じ考えを持ち、共に歩むことを意味する。 
 
参考図書
1・『沈黙の春』(中国語翻訳版原題‥寂靜的春天)。レイチェル・カーソンRachel Louise Carson著、李文昭訳、晨星出版社、2018年1月第3版。
2・『レイチェル・カーソン──筆の力で環境保全の新天地を切り開いた闘士、カーソン没50周年記念集』(中国語原題‥瑞秋・卡森──以筆開創環保新天地的鬥士、卡森辞世五十周年記念集)。金恒鑣と蘇正隆の編集、方力行等が執筆、農委会林務局と書林出版、2015年5月共同出版。
3・余鳳高「環境保全運動の誕生、レイチェル・カーソン生誕百周年を記念して」(中国語原題‥環保運動的誕生、紀念雷切爾卡遜誕生一百周年)。月刊誌『歴史』235期、2013年2月号掲載。
4・施信民「台湾環境保全運動略史」(中国語原題‥臺灣環保運動簡史)。『国史館館刊(國史館館刊)』復刊第41期、2006年12月31日刊行掲載。
5・黄蔡寛叙述『心寛な世紀‥時代の女性 黄蔡寛の物語』(中国語原題‥心寬世紀‥時代女性黃蔡寬的故事)。彰化記録ボランティア編集、慈済メディア人文志業基金会、2019年8月初版。
参考資料出典
環境保護署ウェブサイト、慈済基金会文史処及び宗教処環境保チーム。
(慈済月刊六四五期より)

 

No.286