慈濟傳播人文志業基金會
ベイルート爆発事故の後
レバノンのフォートワ・イスラミック協会の協力を得て、
慈済ボランティアはベイルート爆発事故の後、
地中海に面した貧困被災地で、今まで援助の届かなかった家庭を支援した。
トルコの慈済ボランティアは、家庭訪問して物資の配付を行った。
貧困者が慈済の食料品パックを開けた時、
内心から感動が沸き立ち、愛が確かに存在しているのを感じた様子が想像できる。
 
二〇二〇年八月四日、かつて「中東のリトル・パリ」と呼ばれたレバノンの首都であるベイルートで、国際社会を震撼させるベイルート港爆発事故が起きた。天に届くきのこ雲と強烈な衝撃波により、多くの死傷者が出た。その光景は、町全体がまるで世界の終りを迎えたかのようだった。そして、長年の戦乱の為、シリアから難民が流れ込み、深刻な経済危機に陥っているレバノンに重い打撃を与えた。
 
爆発事故の後、慈済は支援に協力してくれる団体を探した。トルコの慈済ボランティアを通して、現地の慈善団体であるフォートワ・イスラミック協会と連絡がとれたので、支援物資の購入と配付人員の募集を依頼した。十二月にトルコの慈済ボランティアも一緒にベイルート市ジュナー地区に入り、最も援助を必要としていた貧困地区の家庭に食糧と物資を届けた。
 
●ベイルート港(右)は、ユーラシアとアフリカ諸国との貨物の重要な中継地である。8月上旬に爆発事故が起きたが、下旬には機能が回復した。12月にボランティアが支援物資の配付に訪れた時、市街地の建物はまだ、至る所で損壊したままだった。

ここは戦地よりも悲惨

「(家庭訪問用紙を指して)その紙をもらえますか?」と三歳の女の子ノールが顔をのぞかせて、フォートワ・イスラミック協会のボランティアにきいた。「これは大人に書いてもらうものだよ」とボランティアが答えた。「私はお腹がベコベコなの……私の写真を撮ってください、それから食べ物をもらえますか?」と彼女は言った。十月の家庭訪問での暫しの出会いだったが、その僅かな会話がボランティアの心に深く焼き付いた。ノールの写真をトルコのボランティアに送ると、第二期のアラビア語版の月刊「慈済」の表紙人物になった。
 
十二月、トルコの慈済ボランティア三人が、レバノンでの配付活動に参加した。「私は自分の国が戦乱で破壊されたのを見てきましたが、こんなに広い範囲で破壊されたのは見たことがありません」。トルコ・マンナハイ国際学校の副校長であるアフメド・アリアン氏は、二〇一三年、シリアのダマスカスから逃れ、七時間の陸路を経てレバノンに着き、そこからトルコに渡った。高学歴を持つインテリでありながら、やむをえず工場の出稼ぎ労働者になったが、二〇一五年に慈済の支援を受けてからボランティアとなった。
 
ベイルート市での被害状況の調査や家庭訪問は、戦乱を十分経験してきたアリアン氏でさえもショックを受けた。大爆発の後の市街地を人と車が行き来する中、至る所に被害が及び、多くの建物が損壊し、ガラスが割れた窓はカーテンで覆われているのを目にした。「被災地の半径二・五キロ範囲は全てこんな状態で、とても悲しくなります」。
 
海辺にあるサン・サイモンという貧困地区は、町の南部に位置するジュナー地区にあり、パキスタンやシリア難民と現地の貧困者が住んでいる。このような地域は普通、外部の人間は出入りできず、中の人と接触することが難しかった。そこで、名声のある地元の区長や村長の協力を得て、やっと訪問することができた。至る所に貧困と病が見られ、道には水溜りができ、ゴミだらけだった。雑然とした建物の中、トイレとキッチンとベッドがひしめき合った部屋は、狭くてジメジメしていた。「まるで動物のねぐらのようで、人間が住める場所ではありませんでした」とアリアン氏が悲しそうに言った。
 
●フォートワ・イスラミック協会のボランティアは、受領者が食料品を1つずつ麻袋に入れるのを手伝った。食糧は重さが29キロにもなったが、1つの家庭が1カ月間過ごすのに必要な量である。麻袋は次回の受領の際に再利用できる。
 
一室に六十歳過ぎの老婦人が住んでいたが、呼吸器系統の病のために呼吸器を付ける必要があった。清掃婦である彼女は、既に二カ月も電気代を払っていないため電気を止められ、生命に危険が及んでいた。人が訪ねてくると彼女は驚きと恐怖のあまり、「私の命はアッラーに預けています。あなたたちは何をするつもりですか」と叫んだ。彼女は、助けに来る人のいることが信じられなかったのだ。
 
ある一人の、糖尿病を患い、腹水で肺が圧迫されて仕事ができず、医療費も負担できない五十歳の男性がいた。彼の長兄は既に他界しており、頼れるのは義姉だけで、食べ物さえないこともよくあった。また、甲状腺の病気も手術を必要としており、医療費は約百万レバノン・ポンド(約六万円)だった。「しかし、私には千レバノン・ポンド(約六十円)もありません」。
 
枕元に座る幼い女の子をかかえた若い父親は、脚に怪我をしていたが、家族を養う為に、痛みを堪えて仕事を続けた。しかし、縫った傷が治っていなかったため、炎症が続き、痛んでいたのだ。
 
「私たちを案内してくれた現地の人によると、私たちが目にしたのは百分の一のケースにしか過ぎないそうです。ジュナー地区にいる人々の顔には、悲しみと苦しみが見て取れました」。トルコの慈済ボランティアであるサイド・アルホムシさんは、シリアに残してきた家族ともう五年も会っていない。彼は目にした出来事で気持ちが沈んだ。「トルコに戻ったら、我々が知っている全てのシリアの人たちに伝えます。彼らの生活は苦しくても、ここより困ってはいないことを。そして、彼らの愛を込めた寄付金は、これらを必要としている家庭に届いていることも報告します」。
 

慈済のレバノンケアの紹介

●人口は680万人超、西アジアに位置し、シリアとイスラエルに隣接。
●1946年に独立した後の長年にわたる戦争で、貧富の差が著しく大きくなり、若者の失業率が高止まりしている。2020年8月4日下午6時に、ベイルート港で大爆発事故が起き、数十万人が帰る家を無くした。市内にある2番目に大きい穀物倉庫が破壊されたことで、コロナ禍で起きた食糧不足に拍車をかけた。
●慈済は、レバノン・フォートワ・イスラミック協会の協力を得て、災害支援を展開することができた。同協会は1974年に設立され、長年貧困家庭や貧しい大学生を支援してきた。
●トルコの慈済ボランティアは、イスタンブールからベイルートへ支援に駆けつけた。爆発事故の波及を受けたジュナー地区にある貧困区「サン・サイモン」で被災した住民に対し、12月12日と13日に5回に分けて4百世帯余りに支援物資を配付した。レバノンは慈済が慈善支援した117カ国目の国である。

残礫の中から立ち上がろう

十二月の二日間、五回にわたって、四百世帯余りに支援物資の配付を行った。トルコ慈済基金会で配付計画を担当したサイドさんは、事前に慈済の慈善運営とボランティア精神を、協会のボランティアに説明した。「尊重と尊敬の心でもって、受け取る側の人々と接するのです。上からの目線で行うのではなく、笑顔を浮かべて家族に接してください」。
 
「このボランティアたちは昼間の仕事で疲れているのに、休み時間を犠牲にして、心から尽力して住民の為に貢献していました。彼らはもっと多くの奉仕ができるよう、熱意を持っていたのです」とサイドさんはトルコのボランティアが如何にしてゼロから慈済精神を学び、実践したかを話した。
 
現地は防疫物資が不足していたため、配付活動の経験が豊富なトルコのボランティアが彼らに、動線の計画や人同士の開ける間隔などを、住民の着席後の状況を模擬しながら、示して教えた。
 
六年前にトルコのスルタンガージ市で、シリア難民が初めて地下室で慈済の配付を受けた時に似たような状況が、レバノンに再現された。国境を越えた配付では、米、フジ豆、ヒヨコ豆、粉ミルクがテーブルいっぱいに置かれてあった。一世帯につき二十九キロの食糧を受け取ることができ、コロナ対策として、全ての人にマスク、冬に必要な毛布とガスストーブも支給された。
 
サイドさんによると、最初の配付現場では人々は微笑みを浮かべて「ギフト」を受け取っていた。彼はある老人に、喜んでもらえますかと尋ねた。老人は「アッラーからあなたたちに、幸福がもたらされますように!」と真心を込めて言った。
 
毎回の配付現場では、ボランティアは住民に二〇二〇年の台風19号と22号が立て続けにフィリピンを襲った時も、慈済が懸命に支援したことを説明した。現場に来ていた幼いノールも、父親が懸命に稼いできた半日分の所得を全部フィリピンの被災者を支援する為に竹筒貯金箱に入れた。その時、人々は、「アッラーはあなたたちを酬います」と彼女と父親に言った。その場でポケットから小銭を出す人もいれば、近くにいる人に「後で返しますから、寄付の為のお金を貸してもらえますか」と言う人もいた。
 
●12月の配付活動を前に、トルコのボランティアがアラビア語版の月刊「慈済」をもってサン・サイモンを訪れ、3歳のノール(左から2人目)は表紙に載った自分の写真と撮影した。
 
トルコボランティアのモハマッド・ニムル・アルジャマルさんは、人々の無私の奉仕を見て、「トルコのシリア難民のように、ベイルートのボランティアが支援を受けた後、苦難の人たちを助けるようになるのを、私も願っています」と言った。
 
現地で貧困家庭の支援をして半世紀近くになる、フォートワ・イスラミック協会の責任者であるジヤド博士(Ziyad Al-Saheb)は、二つの国のボランティアが協力し合い、レバノンに心を尽している様子を見て、「幸福な雰囲気に満ちた配付会場に、明るい未来が見えました。慈済に見られる人道、仁愛、助け合い、見返りを求めない精神は、正しくイスラム教が教えてくれた精神であり、人と人の間には愛が必要なのです」と讃えた。
 
長年の戦乱を経て来たレバノンはインフラ整備が不足し、貧富の差も大きい。今回のベイルート港爆発事故後は、アラブ世界の著名な詩人ニザール・カッバーニーが書いた詩「世界の女王、ベイルートよ」に出てくる戦後のシーンさながらである。「我々は貴女の美しさに嫉妬し、傷つけました。ああ、ベイルートよ、我々は貴女を公平に扱わず、憐れみもかけず、貴女を傷つけ、泣かせたことを認めます……ベイルートよ、悲愴から甦れ!」。この詩文は傷を負ったベイルートの地を踏んだ慈済ボランティアにとって感慨深いものだった。この傷だらけの町が一日も早く残礫の中から甦ることを願っている。
(資料の提供・顔婉婷)(慈済月刊六五〇期より)
No.292