慈濟傳播人文志業基金會
敗北を認めず 自分を啓発し続ける
 
出所しても再犯率は約八十%に上るという。
愛情に包まれることで自分の中にある善の心を堅く信じ、その時々の初心に戻って、本当の自分をもう一度受け入れてほしいと願う。

 

十六年前、私は薬物販売の罪で実刑判決を受けました。獄中では読書と書き取りの練習をして過ごしました。初めは「心経」を写経しようとしたのですが「心経」の意味が分からない、そこで側にあった色あせた「静思語」を書き写しているうちに、思いがけず書きながら考えが深まっていったのです。そしていろいろな思いがこみあげてきました。

それからまもなく、母が車椅子で会いにきてくれました。四回目の脊髄手術を終えたばかりの体で、車椅子から立ち上がり、四つ足の歩行器に捕まりながら私の方へ向かって歩き出すと、不注意にも倒れてしまいました。父が抱き起こそうとするも力が足りず、抱えることもできません。自分はこんな近くにいるのに、老いた親二人のもどかしい姿をただ見ているしかないのかと、私はその瞬間泣き崩れてしまったのです……。

刑務官の助けで母はやっと起き上がり腰かけました。私は泣き震えながらインターホンを握りしめ、問いかけました。「体が悪いのに、なんで来たりするんだ?」。母親はこう答えました。「我が子には会いたいものなんだよ」。そう聞いて胸がはりさけそうになりました。「いっそ死んでしまいたい」とまで思いつめ、こんなに両親を苦しめていたのだと思い知らされたのです。このことがあって私は目が醒めました。

 

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幼少の頃の私は成績もよく、クラスの班長に選ばれ、市長賞まで受賞する模範生でした。中学校に入ってから、悪い友達とつき合うようになり、授業をさぼって悪い遊びをし、喫煙を始めました。高校時代は暴力団の下部組織に足を踏み入れ、喧嘩や窃盗を繰り返しました。兵役を終えた後も組頭を気取って群れて歩き、しだいに薬物に溺れ、それが原因で薬物販売にまで手を染め、結局手錠をかけられることになったのです。

台中の拘置所で一審の判決は無期懲役であると聞いた時、これで自分の人生は「終わった」と思ったものです。しかしその時はまだ見栄を張ってただ怒りに身を任せるだけで、心を入れ替えようとはしませんでした。あの日、両親が会いにくるまでは。あの時ようやく、自分の心がただ頑なで幼稚なばかりに、こんなに親不孝なことをしてしまったのだと気がついたのです。

夜も眠れないので、片っ端から本を読みあさりました。「了凡四訓」という本で、了凡さんが毎日懺悔をして悪行を止め、三年の月日をかけて自分の道を切り開いた話を読んだ時、私も自分の道を変えようと決心したのです。

了凡さんを見習い、一枚の表を作って赤で自分の善い行いを、青で悪い行いを記入しました。獄中の年寄りや体の不自由な人たちを助けようと、彼らにお湯を汲んであげたり、代わりに洗濯をしたり。しかし、悪い習慣はすぐには改めることができないもので、だんだん青色が増え、赤色の文字は少なくなったのです。それでも、二カ月が経つ頃、赤い文字が増えてきて、私自身、自分が変わってきたことを感じ始めました。

私はベジタリアンを志し、毎日お経を唱えました。仏を拝み、懺悔し、善い書物を読み大悲咒を写経しました。獄中の友人はそんな私の態度を見て「ちょっと違う」と思ったようで、私のことを「師兄」などと揶揄していました。私はそれにはおごらず、善行を重ね、しっかりした自分を作ることに努めました。初めて「慈済月刊」を目にしたのはこの頃です。一度読んではまた繰り返し、読めば読むほどに感動したのを覚えています。もしここから出られたなら必ず慈済に行ってボランティアをしよう。そんな思いから私は證厳法師さまに一通の手紙を書きました。そして父親にそれを慈済の台中支部に届けてくれるよう頼みました。手紙の中で法師さまの書いた本を送ってほしいとお願いしたのです。

無期懲役の判決を受け、最高裁判所に控訴することにしたのですが、その時、獄中の友人は私に罪を認めないよう勧めました。私は逆に自分の考えを曲げませんでした。私は裁判所で一切の罪を認め、懺悔の気持ちを言葉にしました。裁判官に私が悔い改めたいと強く念じている思いが伝わったのでしょうか、意外なことに「無期懲役」は八年の実刑判決になったのでした。

一件落着したところで私は再度證厳法師さまに手紙を書きました。慈済人になりたいと願をかける内容です。将来は献体をすることまで考えていました。その後、静思精舎の師父が書籍や録音テープを送って下さるようになり、おかげで私は監獄の中にあっても希望に満たされて過ごしました。

 

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六年間の服役の後に仮出所となった時、私はすでに四十五歳でした。

仮出所から一カ月してパン職人の仕事につくことができたのは、監獄でパン作りを習ったおかげです。慈済に参加しようとオートバイで台中支部まで行ったのですが、ぐるぐると周りを二周回っただけ、自分がこんな人間であることが恥ずかしく、中に入ることができませんでした。その後、勇気をふりしぼってドアをくぐったものの、やはりうまく言葉にならず、献金さえできずに「静思語」を読んでそそくさと帰ったのです。

私は電話で話をすることにしました。やっとの思いで言い出した一言―「献金したいのですが……」。そして慈済委員の楊秋霞さんが家まで訪ねて来られたので、「恥ずかしながら私は更生した人間なのです」と自己紹介をしました。あろうことか楊さんは私の言葉を笑い飛ばして言いました。「私も昔は酒場を経営していたんですよ。慈済の門は誰にでも開かれています。あなたの今が大切なのであって、過去は要らないのです」と。そうして楊さんに伴われてやっと慈済へ赴き、ボランティアに参加させてもらったのでした。

それから師兄師姐の温かい計らいにより、私と三人の更生人は證厳法師さまに会えることとなったのです。法師さまは私をご覧になりおっしゃいました。「悔い改めたのですね」。そしてこうもおっしゃいました。「危いと思ったら戻ってくる勇気を持つ者が本当の英雄なのですよ」。私はその場で溢れる涙を抑えることができませんでした。

善の念に気がついたことはきっかけにすぎません。変わったとはいっても、小さな悪い習慣はなかなか治らないものです。口先ばかりで気ぜわしく、衝動に走り、人と衝突する。こんな私が正しい道を歩き続けるようになったのも、慈済が私を悪く言うことなく慈しみ、導いてくれたおかげだと言えます。慈済の四神湯(漢方スープ)とも言える「知に満足し、感謝の心を持ち、善い解釈を心がけ、包容する」という精神が私の心に沁みわたったからなのです。

見習い、研修を経て、私はようやく慈誠隊員の認証を受ける機会にたどり着き、晴れて慈誠隊員となりました。ボランティアの務めにはできるだけ参加しています。私が更生した人間ということで、気持ちが分かるからか、薬物乱用者や出所したばかりの人があれば、師兄たちに招かれてカウンセリングの手伝いをすることがあります。おかげで多くの「仲間」と知り合うことになりました。

各地の刑務所で説法をする。自分が通って来た道に彼らがいることを思いやり、「こちらへ引っ張ってやろう」という気持ちで。(撮影/羅明道)
 
 

 

ある時病院で看護師をしている師姐に請われて、薬物乱用後に飛び降り自殺未遂をし負傷した若者に会いに行きました。彼はまだ三十幾つと若いのにすでに十七年間も薬物に浸っていたというのです。母親は彼のために一千万円近くを費やしていました。なのに二度も自殺未遂をしているのです。幸い二度とも軽傷で済みましたが、三回目にとうとう足は骨折、脊髄も損傷してしまいました。

私は心規を持つよう話をするのですが、心の弱い彼は良い習慣が長続きしないのです。私はあきらめずに毎日彼を訪ねました。一緒に過ごし、時には師兄たちにも一緒に励ましの縁を結んでもらいました。この「結びつき」の甲斐あって、彼は二度と薬物に手を出さないと誓いを立て、母親と共に慈済ボランティアに参加することになったのです。

私のことが報道されると、たくさんの薬物乱用者が自らあるいは人の勧めで私の所へ「カウンセリング」に訪れるようになりました。そのような人に対して私はいつも、自分が通って来た道に彼らがいることを思いやり、「こちらへ引っ張ってやろう」という気持ちでいました。しかし、二、三年が過ぎた頃、私はただ熱意を抱くだけではだめで、慈悲には智慧の蓄えが必要だと気がつきました。薬物をやめ、悔い改めるには、自分も覚悟が必要なのです。決心し心を強く持たない限り、他の人を助けることはできません。他の人のために自分がどれほど苦しんでもそれは無駄なことなのです。

九年前、私は友人と台中で菜食レストランを開きました。目的の一つは菜食を広めるため、もう一つは就職の場を作るためです。店の定員はみんな「仲間」なのです。

その多くの「仲間」の中で、林朝清こそ本当の「仲間」といえます。私たちは獄中で知り合いました。彼が先に出所し、また戻ってきたのですが、私が出所後に慈済へ入った後、彼は出所三回目にして私を尋ねて来たのです。私は言いました。法師さまは私たちに「悔い改めることはできる」「危ないと思ったら戻ってくる勇気を持つ者が本当の英雄だ」とおっしゃってくれたのだから、志を立てよう、二度と薬物に手を出さないと。

林朝清の母親は彼と一緒に菜食レストランで働いています。経営はすこぶる順調で、「仲間」たちは労働の辛さに耐え、夏は酷暑にむせかえる厨房で汗だくになりながら、冬は冷たい水で野菜や皿を洗い、休憩時間には環境保全ボランティアをしていました。

この頃、私は百人近い薬物乱用者と面会していたので、ストレスや挫折感を感じることもありました。しかし、法師さまのお立場は私の何十倍、何百倍ものストレスを感じるはずだと思い直し、私はもう一度目標に向かって前に進もうと自分を励ましました。よしまたやるぞと。

 
彰化県鹿港鎮の頂番小学校で、蔡天勝が小学生たちに薬物の弊害を説明した。(撮影/施肯成)
 

 

今までで一番心が傷むのは阿隆のことです。彼は何度も出入所を繰り返したので家族からも見放されていました。私は彼を環境ボランティアに連れ出し、ここでこれまでの罪を悔い改めようと励ましました。しかし、意志が弱かったのでしょう、またも薬物乱用者として逮捕され、マスコミに一大スクープとして扱われたのです。「慈済ボランティアが薬物を乱用し再逮捕される」。私は天を仰ぐしかありませんでした。彼をボランティアに連れて行っただけなのに勝手に慈済ボランティアと呼ばれてしまったとは。

人を導くはずがこんな結果になったので、私は法師さまと慈済に申し訳なく思いました。しかし、阿隆はどうしたらいいのか? 見放すべきか? ケアを続けるべきか? 最後に私の中で「不捨衆生」という四文字が勝ちました。私は率直に彼に聞いてみました。「もう一度だけチャンスをやる、それでやめようじゃないか?」

阿隆はようやく目覚めたようでした。苦しみながらもこの悪い習慣を断ち切り、決めたことを守ると約束してくれました。彼も見習いから始め、研修を受け、十戒を守る一人の慈済人になることを誓いました。法師さまは私を労りながら慈しみ深く言葉をかけてくださいました。「このような救いの道は普通の人にできることではありません」。身も心も疲れきっていましたが、歳末祝福会で「仲間」が悔い改める姿、受証をすませ慈誠隊員となる姿を見た時、客席にいた私は感極まってむせび泣いていたのです。

私の生き様は二○一一年に大愛テレビ局でドラマになりました。「荒波を乗り越えて」という題で連続五回放送でした。その後、九十分のダイジェスト版に編集され、法務部と教育部に各三千六百部が送付されたそうです。私も刑務所や学校に招かれて話をし、薬物反対のキャンペーンに一肌脱ぎました。

この時期、私は陳乃裕師兄に付き添って台湾各地の刑務所と学校を巡回しました。慈済という大家族には本当に感謝しています。どこへ行っても慈済ボランティアの皆さんが温かく私を迎えて下さったのです。その上、私の菜食レストランでは、経営はほとんど「仲間」に任せていましたが、料理人の資格をとって名を成す者が現れたのです。彼を励まして支店を出すよう勧めています。

元受刑者そして更生した人々を長年ケアしてきた慈済ボランティアの方々は、私が疲れを押して何かに焚きつけられるように各地を駆け回って説法をした結果、経済的にも健康にも赤信号がともったことを察して下さり、私の菩薩の道がこれからも続くよう、私の第二の事業「お菓子工房」の開業を援助して下さることになったのです。

小さい頃の思い出ですが、製菓業を営んでいた父は家内工場で手作りしていました。その「美味しいもの」の甘い香りに触れるとなんともいえない幸福感に満たされたものです。私は父の言い残した通り、材料を吟味し、よくない添加物は使わずに、ヘルシーなお菓子を作って食べる人に安心と喜びを感じてもらいたいという希望を持ち続けていたのです。

今も私は各地の刑務所、学校、軍隊で説法をする機会がありますが、家にいる時は弟と一緒に体の不自由な母を介護しています。どこにいても読経すること、仏を拝み願をかけること、懺悔をすることにしています。私は、自分に厳しく戒律を課し、少しの間違いも二度と繰り返してはならないことを約束したのです。

二○一四年六月三日、私と林朝清は台北の「全国薬物乱用防止運動」で功績を認められ表彰されました。呉敦義副総統から表彰状を頂いた時、万感の思いがこみ上げてきました。一人の元薬物乱用者、薬物販売で無期懲役の判決を受けた「はみ出し者」が、こうやって「功労者」として表彰されるまでに更生した。この大きな変化は、私にとって後悔を伴うと同時に深く感謝の念を思い起こさせるものです。

後悔するのはもちろん、薬物に溺れ、社会に害を及ぼし、両親を苦しめた年月であり、感謝しているのは、慈済が慈しみで私を受け入れ、導いてくれたことに対してです。そのおかげで今日の私がいるといっても過言ではありません。ある時花蓮で薬物乱用防止キャンペーンに参加したとき、法師さまが表彰状を授けてくださいました。私に微笑みかけ慈悲に満ちた声で「おめでとうございます!」と言葉をかけて下さったことは忘れられません。

慈済ボランティアに参加して十年が経ちました。私が受け取ったと同じ温かさを誰かに与えることができるよう、皆の「初心に帰った自分」が受け入れられる機会を作っていきたいと思っています。間違いを起こしたと分かったなら、懺悔しましょう。その痛みを受け止めてさえいれば、慈済の人々は両手を広げ、帰る場所を求めて迷える者を永遠にその懐に迎えてくれるのです。

(本文は慈済道侶叢書『もっといい自分に会った』より抜粋)

 

 

 
NO.230