慈濟傳播人文志業基金會
エボラ出血熱の治療施設へ赴く
長い間、私は慈悲の心を以て人々を治癒することを夢見てきました。
貧困と病苦について理解を深め、真に苦しみから解放できる非営利組織によってそれを成したいと。
私はシエラレオネの国に生まれた者として、自分が慈済を代表してエボラ出血熱治療施設へ赴くことに胸を震わせていました。
そこは感染病にみまわれた私の故郷なのですから。
 
エボラ出血熱隔離検疫機関の検査を乗り越えたセントジョージ孤児院の子供たちと慈済ボランティアのスティーブン・フォンバの記念写真。援助への感謝をこめて。
 

 

一九九一年にシエラレオネ共和国で内戦が始まり、東部の住民は生きる場所を失いました。私は家族と一緒に隣国ギニアへ一度逃げましたが、また戻って首都フリータウンで庇護を求め、一九九六年、祖母と一緒にアメリカのカリフォルニア州に落ち着きました。二〇〇六年と二〇〇七年には故郷の家族を訪ねたのですが、その時の心境は言葉にならないほど複雑だったため、その後七年間帰国していませんでした。

二〇一三年の末、西アフリカでエボラウイルスが爆発的に流行しましたが、最も深刻な三つの国はギニア、リベリア、そしてシエラレオネでした。亡くなった方の数は少なくとも一万一千人と言われています。エボラウイルスは唾液や血液、涙、尿などの体液から伝染しますが、感染者の多くは看護をしていた家族だったのです。最終的に一家全員が亡くなるという最悪のケースも少なくありませんでした。現在有効な治療薬もなく、死亡率は七十%にまで上りました。

この三カ国は公共の衛生機関が正常に機能していないため、正確な感染状態の診断や追跡、隔離と収容そして感染の疑いのある人とすでに感染している人への治療などが行われていなかったのです。民衆は皆貧困に喘ぎ、就学率も低い上に古い民間信仰の文化が根強くあることも、感染の急激な広がりに拍車をかけたといえます。例えば死者に沐浴を施すなど、医療関係者にも現代医学が広まっていないため、古い民間療法に頼ってしまうのでした。そのほか、政府は非政府組織と協力して対策を練らなかったので、傷の上に塩を塗るかのごとく、感染の抑制も救助もさらに困難を極めていました。

私は故郷の同胞がこのような状況で亡くなった悲しみにいたたまれなくなりました。その中には最愛の家族もいたのです。私の叔父のエマヌエル・サキーラは交通事故に出くわし、その負傷者がエボラウイルス感染者だと知る由もなく、ただ見捨てられずに負傷者の救助を行ったために感染し、帰らぬ人となりました。叔父を看護していた親戚も感染し、ウィルスはその村全域に蔓延してしまいました。親戚を含めて十二人が感染し、そのうち七人が亡くなりました。

ヒーリー基金会執行長ベンジャミン・パーラ(真ん中)が台湾を訪れ合作計画に署名。慈済と共にシエラレオネ共和国で配付活動をすることを表明した。
 

国境を越えて手を携え愛を伝える

 

私が慈済に出会ったのは二〇一三年のことでした。アメリカ・カリフォルニア州セントガブリエルバレーのホームレス支援機構で責任者をしていた時、その董事会会員と創立者の一人が慈済の委員の方でした。二〇一四年末、その方から慈済がエボラウイルス治療施設の支援に行く希望者を募っていることを聞き、私は即刻そのボランティア活動に参加したいと告げました。上人様の教えを学び、慈済の皆さんと一緒に西アフリカで活動したいと考えたのです。

その後、ロサンゼルスの慈済米国総支部において全世界のボランティアを総括している黄思賢氏、そして米国総会の執行長である黄漢魁氏とも会う機会に恵まれ、この大家族に参加する意志を固めたのでした。

私たちはどのように活動を進めるか話し合いました。当時の国連副秘書長ユムケラー博士と連携をとったところ、私たちをヒーリー国際救済財団(HIRF)とキリスト教同胞愛基金フリータウンに紹介し、協力してくれるよう強く推薦してくれたのです。

ヒーリー国際救済財団の総本部はニュージャージー州にあり、十年来シエラレオネのセラブ病院の建設支援、戦争によって四股が切断された人々への援助を行っていました。一方キリスト教同胞愛基金フリータウンはシエラレオネ西部に慈善機構を設置し、伝染初期の段階から医療機材やベッドリネンなどの物資を提供していました。

私たちは二〇一五年三月に台湾を訪れて慈済と備忘録を交わして署名し、シエラレオネの感染収束後再建に必要な援助に協力することを確認しました。この合作は私にとって非常に大きな励みとなりました。私たちは目の前の困難をすべて解決できないかもしれませんが、千人以上に及ぶ貧しい人々を援助し、貧困地区に基本的な医療を施すことができることになったのです。こんな日が来るとは思いもよりませんでした。少年時代にアメリカに渡った私が、故郷の人々に笑顔をもたらすことができるようになるなんて信じられない心境でした。

エボラ出血熱はシエラレオネの民衆をパニックに陥れた。国民の68%が文盲であるため、公の対策は停滞し、医療資源も欠乏。予防の教育と沈静後の再建にも国際社会の支援を待ち望んでいる。
 

 

私たちを忘れないでください

 

第一回目の配付活動は三月中旬に行われました。二つの基金会の皆さんと協力し、政府関係の病院と診療所、非営利組織の診療所、社会福祉と社会的性差別及び児童支援部、国家エボラ出血熱治療センター、そしてエボラ出血熱による孤児院、四肢切断者施設など三十カ所で行いました。

配付活動の間、私たちはこの病気の蔓延が元々脆弱な医療体系に深刻な影響を及ぼしていることを目の当たりにしました。病院の設備は治療センターに運ばれ、ほとんどの医療物資もこの病気のために使われているのです。最も悲劇的なことは、この病気によって両親や家族をなくした孤児が生まれてしまったことです。孤児の年齢は乳幼児から青年にまでわたっています。

この世に生を受けた子供にとって、幼児期は最も楽しく愛される時代であるはずなのに。しかしシエラレオネでは全く逆で、苦しみに耐えねばならない時期なのです。

シエラレオネでは千人中二百七人が五歳の誕生日を迎えることなくその人生を終えます。医療体制と物資が欠乏しているため、難産になると妊婦の多くは自分の子供に会う前に人生を閉じています。生を受けた子供たちも、貧困と文盲、そして政治腐敗の中で苦しんでいます。この二年間はそれに加えてエボラ出血熱が流行し、命は取り留めても孤児になっているのです。

彼らはまだ「死別」という言葉の意味を理解することすらできないというのに、世話する人さえ不足している孤児院に押し込められて自分で生きることを学んでいます。「お母さん」「お父さん」と呼んでももう誰も応えてくれないことを、どんなに辛くて眠れなくても優しい声で慰め温めてくれる人はいないことを、身を以て思い知るしかないのです。両親が人生を導いてくれることはなく、自分で生きていかねばならないということを、短い時間の中で自覚しなければならないのです。

私たちはリバー二号、エレンタウン、ニュートン、セントジョージの四カ所の孤児院で多くの愛らしい子供たちに会いました。悲しむべきことに、彼らのほとんどは両親に何がおこったのか、なぜ見知らぬ人と一緒に暮らし、家には帰れないのか、次の食事はどこにあるのか、全く分かっていませんでした。そして貧しい子供たちは着のみ着たまま、靴さえはいていませんでした。

政府と非政府組織には孤児院を支援する財源もないので、「子供が家族親戚と巡り会う会」という活動を企画することにしました。しかし残念なことに、多くの子供たちの家族が感染を恐れ、子供を引き取ることを拒否したのです。医療関係者は子供達は感染していないことを説明しましたが、家族は病気への無知と恐怖もあって子供達と接触したがりませんでした。

首都フリータウンのセントジョージ孤児院は、かつて国際的にニュースにもなりましたが、経営者がエボラ出血熱感染地区の孤児を受け入れたために自身も感染して死亡、彼をサポートした妻もウィルスに感染し亡くなったのです。孤児院はその後二十一日間隔離検疫を受けることになりました。この出来事は関係者に大きなショックを与え、孤児たちを心配しました。その三週間、どんなに彼らが恐れおののきながら生活したか、想像を絶するものがあります。

 

2015年3月から12月にかけて3度にわたり配付活動を実施。現地の協力団体と共に居住地、関係機構、孤児院に赴く。

 

私たちは四カ所の孤児院に入所する二百人を超える孤児と職員に三カ月分の食糧を送り、食器や夜具も提供しました。これらの物資を自ら届けた時、子供たちと関係者の嬉しそうに輝く笑顔を目にしました。しばし心に負った傷を忘れられたかのようでした。私たちが孤児院を去る時、子供たちは感謝の歌と笑顔で見送ってくれました。まだ感染の拡大は免れませんが、子供たちは嬉しさのあまり私たちと抱き合い、手をとって感謝を表してくれたのです。その気持ちを忘れないでいてほしいと願います。

エボラ出血熱によってシエラレオネの民衆は恐怖と失望の淵に落とされましたが、慈済は公共衛生機関の関係者に希望の光をともしたと言えます。とくに非営利団体と孤児院に対して再建を促したことは大きいです。そして慈善団体がお互いに協力しあうことで配付活動による援助だけでなく、民衆の考えを変えていくことができたこと、そのことは私に深い感銘を与えてくれたのでした。

二つの慈善団体が協力してくれたことに心から感謝しています。配付活動をスムーズに行うことができました。私は、また故郷にもどってさらに多くの人々に尽くせるよう切に願っています。

 
NO.230