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(絵・林淑女)
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時は音もなく過ぎ去ってゆく
貴い命を時と争って奉仕し
人生を無駄に過ごさない
毎日の早朝三時過ぎに瞼を開けると、私の頭に浮かぶのは「感謝」という言葉一つのみ。過ぎ去った時の平安に感謝、そして今日あることを感謝。忙しく午前中を過ごし、一日の大半が過ぎても、なおやりのこした多くのを気がかりに思う。夜の九時に就寝し、一日が幕を閉じます。「今日も一日が過ぎた」と、自分の命が一日少なくなったことを感じ入り、戒められます。
誰も自分の命の長さを予知することはできず、明日が先にくるか、無常が先か分かリません。ただ私に分かることは「急がなければ」ということ。ですからどんなに疲れても、一秒も無駄にせず生命の価値を存分に発揮するよう心がけています。
人の一生は秒の積み重ねから成り立っています。時を無駄に過ごすと、空しい人生になります。音もなく過ぎ去っていく時は、少しの時間も残してはくれませんから、時を大切に善用しなければなりません。命は「奉仕」してこそ貴いものであり、人生を無駄に過ごさないようにしなくてはなりません。
人の一日の始まりはまっさらの紙のようです。この白紙にどんなドラマを書くのか。それは自分の一念にあります。自分自身の人生のシナリオですから、価値のあるシナリオを書いて素晴らしい人生を描き出しましょう。
苦しく短いこの人生において自分の幸福のみを求めず、苦しみにいる人の中に入って、その苦痛を和らげましょう。 人々の幸せを願うこの世の菩薩たちが、喜んで人々の間に分け入って精進し奉仕しているのを見る度に感動させられます。「福は喜んで為した中にあり、慧は善解によって自在が得られる」。日々喜んで、見返りを求めず、世の中に造福する人生は価値のある人生です。
人心が調和されていないと
万事は平穏になれない
素食は二酸化炭素を減らし
災いを少なくする
二○一五年が過ぎて二○一六年に入りました。年始に当たって、多くの国々では巨額を投じて、惜しげもなく花火を打ち上げて新年を迎え、民衆は徹夜して新年を迎えます。しかしながら、こんな時に世界の片隅の生を求める苦難の人々にとって、何の楽しみがあるのでしょうか。
イラクではこの一年間に武力衝突とテロが発生し、少なくとも七千五百人以上が犠牲になりました。レバノンでも、百万人以上のシリア難民が風雪の中、テント生活で寒さを忍んでいます。子供たちは、逃げ延びる途上で無慈悲な扱いを受け、心に生じた恨みをどうすればなくすことができるのでしょうか。人禍だけでなく、気候変動によって頻繁に天災が起きていることも心配させられます。
昨年十二月、フランスのパリで国連気候変動枠組締約国会議が行われ、百九十を超す国の元首や代表者が、どうすれば極端な気候変動を食い止め、改善できるかについて話し合いました。たとえ経済利益を放棄できなくても、各国は「二酸化炭素減少を達成する」という共通認識がなくてはならず、その中には環境保全と素食が含まれていました。
肉を食糧として供給するために、人々は大量の動物を飼育し、大量の温室ガスを放出して地球温暖化を加速させています。ですが、動物も人間と同じく殺される時は恐怖心や恨みの感情が起きるのです。
素食は大地を清浄にし、生きとし生けるものと良い縁を結んだことによって善の循環になります。人心に調和がとれていないと何事も「和」は成り立ちません。
《法華経》に「火宅喩」という話があります。一軒の屋敷で火事が起きているのに、子供たちは気づかず家の中で遊び戯れています。長者が子供たちを呼んでも出てこないので、仕方なくヤギや鹿の車、大白牛車を使ってついに子供たちを危険の中から連れ出しました。現在地球が発熱しているのは、「火宅」のようで、もしも地球上で生活している人たちが、生活習慣を変えなければ地球の温度は下がりません。人類はどうすれば危険から逃れられ、平安な生活を送ることができるのでしょうか。
多くの人は廟に詣でて、長寿を祈願します。その実、命を尊び、物命を大切に、地球の平安、万物平安の祈願は自分の長寿健康を修めるもとになります。環境保全と素食は災難を軽減しますから、地球の造福と子孫の福を護ることに努めましょう。
慈済の五十年は
愛で道を敷きつめてきた
終始一貫
誠正信実は変わらずに
慈済は台東、花蓮、屏東、高雄の二十カ所の学校で「防災対策希望工程(学校建設)」を施行して古い校舎に防災対策を施しました。
十六年前の台湾中部大地震で多くの学校が倒壊して、台湾の教育機構が普遍的に老朽化していることが分かりました。地震発生時は真夜中で、学生がいなかったことが幸いでした。当時慈済は五十一カ所の支援建設に、防災機能を備えた鉄筋コンクリートを企画しました。私は病院と学校は、どんな災難が起きても絶対に倒壊してはならないと思ったのでした。
子供たちは社会にとって未来の希望であり、安全な学習環境を建てねばならないと考え、全力を傾けて希望工程を推進しました。今ではさらに南部と花東地区に「防災希望工程」を推進し、いざという時の災難に備えています。
二年前南部を行脚した時、委員の一人が大部分の屏東の学校が危険家屋になっていると言いました。私は心配でなりません。それに台湾は地震帯の上にあるので、授業中に地震が発生したら被害は甚大です。ですから花蓮へ帰るとただちに営造部の職員を検査に行かせました。すると、五カ所の学校で老朽化が目立ち、鉄筋が露出していることを発見しました。しかもコンクリートは触るとぼろぼろになって落ちるほどでした。
次世代の安全を護るため、慈済は二○一四年に屏東県と契約を結んで、危険家屋を撤去し新校舎の建設を始めました。一年半が経ち、屏東県の建築が終わりに近づいた頃、校長が冬休みが終わったら新校舎に入ると報告してきました。慈済は五十年来このように台湾を護ってきました。なぜなら台湾のこの土地に愛情があり、慈済は使命感と責任がありますから。
五十年に亘る慈済の愛と情は終始変わっていません。「大愛の道を広く世界に、古より変わらぬ長い情の道を」との一心で邁進してきました。台湾の花蓮で始まってから半世紀来、台湾国内のほか九十カ国以上の国々で無数の苦難の人を援助して参り、「台湾の愛」は各国で有名になっています。
「静思法脈の道に励み、慈済宗門の人間道」、この法脈をいかに伝承し強固な宗門を築くのか。それには皆が「法」に帰依し「誠正信実」を以ての心、人の中に入っても影響を受けず、変わらずに持戒、修定、生慧、精進に励んで、「慈悲喜捨」の心をもつことです。
清らかな清流はこの世を潤す
善美の記録は、典範をとどめる
今の世界に邪悪な感情が渦巻いているのを感じ、暴力と憎しみがはびこっていることに、フランシスコ・ローマ教皇は二○一五年の年末のスピーチで各宗派の協力を呼びかけました。メディアがもっと多くの社会の良い面を報道して人々を啓発し、暴力で覆われた雰囲気を鎮めさせなければなりませんと訴えました。教皇は正義の声でメディアの反省を促し、社会の人々に有益な報道をするようにと願っています。
現代の科学技術の発達にともなって、どの人も気ままにネット上であらゆる消息を知ることができます。ですが、その消息は真実か嘘か、人々に対して有意義なものかそうでないなのかを確かめなかったら、悪意のある消息、間違った消息は社会を攪乱する元になります。
世界に災難が頻繁に発生していることは、人心が偏り「無明の網」に覆われているからです。終日頭を下げていると、広い世界が見えず容易に無明の網に覆われてしまいます。皆さんが心正しく、この世に造福し危害を与えないように願っています。
人心の無明混濁は法水で洗い清めねばなりません。一九六七年七月二十日に発刊された「慈済月刊」創刊号に、印順導師は「仏陀の慈悲を懐に、大士の芳蹤を追う」とお書きになって、それが慈済人文志業の始まりになりました。一九九八年の元旦に幕開けした大愛テレビ局は、十八年経った今、その一貫とした「真実の報道」は人々に愛を鼓舞し、孝行と善行は待てないと啓発してきました。
人文は清涼のごとく人間(この世)を潤すことができます。人文志業の責任とは人心を清め、社会に平和平安をもたらすことで、慈済人文志業の職員並びにボランティアによって、観衆が社会の温かい一面が見られることに感謝しています。この時代の善美の記録は次世代の人文と倫理教育になります。
年始にあたって三つの祈願
人心の浄化
社会の平穏
天下に災難のなきよう
八仙楽園ブールで粉塵爆発が発生してから半年が経ちました。負傷者のリハビリの道は険しく、彼らが暮らす地域の慈済ボランティアはいつも付き添っています。正月の祝賀会に何人もの負傷者が参加して、壇上で自分の経験を話しました。彼らは明るくしっかりしていて、医師たちと抱擁し、医療スタッフと社会の人々に感謝を述べていました。
台湾はこんなに重大な災難を経験し、多くの人が重傷を負いましたが、社会全体が団結して自分のことのように関心を寄せ奉仕し、医療スタッフも全力を尽くして命を救いました。海外の人たちはこれを「医療の奇跡」と言っています。これから見ても台湾は本当に宝島で、善を以て、愛を以て尊しとしている人々の心は豊かです。
二十年前の新年、私は三つの祈願をしました。人心の浄化、社会の平穏、天下に災難のなきようにと。この「新春の三願」はまた、以前から今に至るまで不変の心願です。新しい年を迎えるにあたって、私は感謝の心を以て一年を送り、真心を以て新年を迎えます。
一刻も忘れずに真心を以て、人、事、物に当たりましょう。すべてに穏やかな気持ちで向かい合えば毎日が平穏で、吉祥福慧の年になります。皆さんの一層の精進をお祝りしています。
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