うれしい時、苦しい時、辛い時
モザンビークの現地慈済ボランティアは
歌と踊りで感情を表す。
「どのくらいのお金があったら慈済に入れるの?」
「私たちはお金がないの、私たちは愛があるだけよ」
現在二千三百人いる現地人慈済ボランティアは、
その九割以上がかつて貧困者ケアを受ける側だった。
彼らは過去、貧困者であっても、今の心は豊かである
貧困者がどうやって貧困者をケアできるのか?
彼らはこの困難な仕事をやってのけた。
【マプト港】
アフリカ海岸を漂う小舟がゆらゆらとマプト港へと入っていく。モザンビークの首都マプトは国の南端の南アフリカと国境を接する海岸都市だ。モザンビークは470年間にわたるポルトガルの植民地統治を経た後に独立した。しかしその後16年間の内戦で財政は衰退し、国連の評価では世界経済の順位は低く、国民の生活は困難で外部の支援を必要としている。
【ゴミの山】
莫大な量のゴミの中で、1人の女性が廃棄物の中から金目になる物を探している。
ホウレニー地区にあるバカ二アのゴミの山は首都マプトに近く、面積はサッカー競技場数個分の大きさで、700世帯の住民がゴミの中から拾った物を売って生計を立てている。しかし、ゴミの中から生活に役立つ物を求めるのは容易なことでない。なぜなら、ゴミの山は組頭が統率しており、各区域を組頭が取り仕切っているからだ。
ゴミの山がいつできたのか定かではない。2017年には撤去される計画だが、その後700世帯の住民はどのように生計を立てればよいのか。誰もその答えを出すことができない。
二○一五年十月中旬、モザンビークの首都マプトのマタントニー区に美しい情景が広がっていた。春から夏に移行する季節に太陽は燦燦と輝き、黒光りする肌の住民を均等に照らしていた。彼らは皆微笑みながら、黄砂の地上で整然と並んで、福慧ベッド(簡易ベッド)が配付されるのを待っている。ベッドを受け取ると、老若男女問わず誰もが頭の上に乗せて歌い踊り出す。まわりの人々も手拍子に合わせて歌い、熱気に溢れていた。
この活動はモザンビークにおける、慈済が行った一回目の配付で、この度の対象は水害被災者だった。
毎年の十二月から翌年の二月まではモザンビークの雨季で、近年猛烈な熱帯気流が発生している。とくに二○一四年末から翌年初めにかけての豪雨はモザンビークと近隣諸国に重大な被害をもたらした。モザンビークの中北部の主要な道路と橋は寸断され、百五十九人が犠牲になったほか、十五万人以上の避難民が出て、食糧難に陥っていた。
南部の災害はそれほど大きくなかったが、百世帯以上の住民が家を失い、マタトニー地区の住民五十一世帯が福慧ベッドの配付を受けていた。彼らの住居は窪地にあって排水施設がなく、短時間の雨でも家の四分の三が入り混じった雨水と排泄物に浸かってしまうため、地勢の高い百メートル先へ引っ越している。
十カ月過ぎても被災地の水は引かず、台湾からの移民でモザンビーク南部に住む慈済ボランティアの蔡岱霖は、「蒸発するのを待つしかほかに方法がありません。また伝染病を媒介する蚊の温床になりかねません」と説明した。
住民は移転して以来、今になっても電気も水もなく、歩いて十分先まで水を取りに行かねばならない。それに茅葺やスチール、ビニールなどで組み立てた家は、雨風を防ぐのみに過ぎない。
住民のセリナは三人の子供と三坪の家で生活し、毎晩不安に襲われて「夜、風の強い時は屋根が吹き飛ばされないかと心配で座って寝ています」と言う。隣の人がアリにかまれた、または蛇にかまれて死んだと聞くとさらに恐ろしくなる。
マプト市に隣接する工業都市、マトラ市もまた水害に遭った地区で、被災者は避難所に入っていた。二○一五年四月、市政府は七十世帯をモハラツ地区に移転させた。この地域とモタトニは慈済が被災者に関心を寄せている地区だった。
世界銀行の統計によると、二○一四年のモザンビークの国民の平均所得は六百三十米ドルで、平均一人一日当たりの収入は二ドルにも満たない。現地の百メティカル(約三百八十円)に相当する。質の悪い油と三個のパンが買えるだけの金額である。二○一五年後半、生活用品のほとんどが値上がりして、さらに多くの人の生活水準は平均値以下に下がって、ゴミに頼っての生活を強いられた。または一杯一メティカルの氷水、一袋三メティカルで売った僅かな収入で糊口を凌がねばならない。
一九七五年、モザンビークは四百七十年の長きにわたるポルトガルの植民地支配から独立した。その二年後は、十六年にわたる内戦が勃発し百万人以上が死亡、人口の四割が外国へ移住し、モザンビークは新たに経済インフラを構築した。しかし農地は荒れ果て、さらに大規模の飢饉を引き起こした。
引き継がれてきた貧困
現在、内戦が終わって二十二年になるモザンビークは、豊富な鉱産や天然ガスが埋蔵しており、近年急速に経済発展を遂げている。しかしながら、その見返りとして得た富は社会の底辺にあるほとんどの国民とは無縁で、百年来先祖代々引き継がれてきた貧困と病気、そして文盲という伝統は彼らにとって難題となっている。
この國の五百年あまりの動乱の歴史を深く知れば知るほど心が痛む。このような背景が間接的に国民の猜疑心、嫉妬心を造成して互いに信じあえないため、助け合いの観念に欠けている。
蔡岱霖は二○○八年にモザンビークに移住した後、現地の歴史と文化について知った。二○一二年に慈済委員の認証を受け、頻繁に現地社会に入ってボランティアをし、彼らと親しく付き合ってきた経験の中から観察したことは、「彼らの生活環境は悪く、貧しいゆえに自分のことしか考えていません。ですから私たちがどんな因縁でこの土地に入っているのかを考え、小さな機会もとらえて、利他の精神、助け合い、感謝などがもたらす心の財産について話してあげなければなりません」と言う。
現地人で慈済に加入して二年以上になるボランティア幹部のビクトリアテ・マニッチ、レベカ・マブンダ、ポーラ・マレンチやシレス・アフレッドは異口同音に言う。「被災地区に入った時、皆が座って支援を待っていることを私たちは不思議だと思いません。私たちも以前はそうでしたから。自分は貧しいから他人が助けてくれるのは当たり前と思っていました」
被災者はボランティアが掃除をしたり、いろいろなことを聞くのがうるさくなって「あなた達はどこからきたの?」「どうして私たちの手伝いをするの?」と聞く。ボランティアたちはそれにいちいち答え、上人の大愛を説明して、皆に慈済とボランティアについて知ってもらおうと努力した。
「私たちは自分たちが経験してきたことを話します。私たちもあなたたちと同じようにお金がありませんが、でも人を助けている中で自分の幸せを感じます。奉仕した後、心の中は前よりも楽しく、さらに満足感でいっぱいになります」と。
ボランティアをしている酋長アマリコ・ガレロは「水災後、多くの団体がきて私たちの状況を聞いていましたが、慈済だけは最後まで関心を寄せてくれました。ですから私は村人たちに私たちも愛の心を発揮して近所で困ったことがあったら、金のある人は金を出し、力のある人は力を出して互いに助け合おうと言っています」と言っている。
現在、両地域のボランティアは八十人近くになっており、普段は地域のケア対象者に食事の供給や訪問ケアなどをしている。やればやるほど笑顔がひろがっている。
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ボランティアたちは歌い踊りながら福慧ベッドを体が不自由な人や年寄りの家に運んでいる。沿路や付近の人たちも喜びにつられて一緒に歌っている。
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慈悲の心が伝染する
この度の大雨で、多くのボランティアの家も浸水の被害を受けた。彼らは家の整理をすませると、お互いに連絡をとって各地の被害状況の確認に努めた。一人暮らしのお年寄りは湿った古いベッドの上で孤独な生活を送り、体が不自由な女性は六人の子供をかかえて呆然と水を見つめるばかり、長期ケアを受けている世帯の草葺きの家は雨によって倒れているだろうか、などなどの問題が山積していた。
こうした惨状を目にした現地ボランティアが「私たちはまだ経験がないのでどこから手をつければいいのか分かりません」と訴えたため、翌日幹部たちは実地調査をもとに緊急配付について話し合った。
活動内容が決まり、蔡岱霖がゆっくりと活動の方法を説明すると、ボランティアは各組に分かれ、被災者が最も必要としていることについて再び話し合い、実地調査をもとに清掃、食事提供、必需品配付を行うための名簿を作成した。「この機会に彼らがますます組織だった能力がつくようにと願っていました。彼らはその後素早く、衣類や物資の募集に取りかかり配付の準備をしていました」
その後も蔡岱霖はボランティアに付き添って、湿った悪臭漂う被災地、蚊の媒介地の劣悪な環境の中を行ったり来たりし、喘息の発作に襲われただけでなく、マラリアにまで感染した。「骨まで凍るような寒さと全身の虚脱感に襲われ、病院に数日入院しました。帰宅してからも何週間も休息しなければなりませんでした」と言った。
何人かのボランティアも実地調査を行った後、下痢や頭痛を起こしたが幸い休息し、回復できた。蔡岱霖は、「自分が病気の苦しみに遭ったから他人の苦しみが分かったことに感謝しています。そして、さらに水に浸かって生活している人たちのために尽くします」と言う。
蔡岱霖の病気療養中、ビクトリアたちはお互いに励まし合って活動を進めた。「デニス(蔡岱霖の英語名)が病気になったから、自分たちで勇気を出して頑張りましょう」と、蚊帳や浄水剤、生活必需品を配付し、定期的に貧困者の訪問ケアをして彼らの苦しみの言葉に耳を傾け優しく接していた。あるボランティアは訪問の様子を文字や映像に記録し、ネットに詳しい人は定期的に救済活動の進捗とモザンビーク慈済のホームページに流していた。それを見て感動した現地の実業家は、献金や物資を送ってきて、善の力がますます広がっている。
二○一五年五月の仏陀の生誕日に、モハラルで盛大な灌仏会の儀式が行われた。荘厳な儀式にモハラツ市の市長夫妻が参加し、慈済の理念に賛同した。またボランティアの被災地での支援活動に感動して、平坦な高台を「慈済大愛の村」の建設地として提供し、被災者が安心して暮らせる家を得られるように期待した。
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水害の時、蔡岱霖とボランティアが一人暮らしのおばあさんの家を見て、湿ってカビの生えているベッドに寝ているのを見るに忍びず、福慧ベッドを送って新しいシーツを敷いてあげ、温かく安心して眠れるよう祈った。
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慈済の家に心身の安息
二○一五年十月下旬の週末の早朝に、百人のボランティア幹部が倉庫の前に柱をたて、ビニールを被せた臨時の教室で講義を聞いた。講義が終わると戸外のマンゴーの木の下で輪になり、講義の感想を語り合っていた。その傍では炊事係が大愛農場から採ってきたカボチャやキャベツなどの野菜を煮込み、辺り一面に香ばしい匂いが漂っていた。
モザンビークの実業家陳春発は、慈済ボランチィアの活動に感動して二○一四年、所有していた土地を慈済に提供した。四年も放っておかれ雑草の生えたその土地をボランティアたちは開墾して、六十七本あったマンゴーの木もそのまま残した。また「被災者雇用制度」で被災者自らが作ったレンガで「大愛農場」の塀を囲い、家の中にはトイレ、水、電気のほか、米など配付物資の貯蔵室も完備している。皆はここを「慈済の家」と呼び慣れ親しんでいる。
普段はボランティアの集会所として使用して、大型の配付活動や七月の吉祥月のイベント、灌仏会、年末祝福会の行事もここで行われている。二○一五年には二日間の「本土幹部研修会」も行われた。器材も揃えられ、研修科目もよく考えられ、講師から炊事係まですべて備えられたこの研修会に、期待のほどが窺われた。
二○一二年八月から、南アフリカのダーバン国際ボランティアは九回にわたって九百キロ先のモザンビークへ行って、慈済志業を始めたばかりの蔡岱霖と、地域の奉仕に対する方法と今後の計画について会議を重ねた。モザンビークの現地ボランティアは年々成長している。彼らはまた、スワジランド、ヨハネスブルグ、ダーバンの現地研修会にも参加している。
慈済に加入して三年、今回のカリキュラムの企画に関わっているフイスは、「他国へ研修に行きたい人は大勢いますが、人数には制限があります。行けない人のために、私は吸収した経験をもって自分たちの研修会を開いて、さらに多くの人がボランティアに参加して、慈済精神を深く理解できるよう願っています」と話す。
研修会では礼儀を正して、それぞれが自分の体験や会得したことを発表した。そして艱難であった慈済初期の「竹筒時代」を描いた映画を見て、課程は午後九時半に終わった。マンゴーの木の下に蚊帳を張って、ボランティアたちは今まで体験したことがなかったことを経験した。次の研修会ではもっと日程を長くしたいと言い合うのであった。
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被災者の家は大部分が木を組み立て、ビニールや葦で覆っている。福慧ベッドを受け取ると早速組み立てて、子供がすやすやと眠っている。
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情緒溢れる歌声に愛を以て共鳴
モザンビークのボランティアたちは、喜びや悲しみを歌によって表現する。美しい歌声にのせて、祈祷、感謝、祈りを捧げる。
普段はキリスト教の教会へ行っているので、メロディーは教会で歌うものである。だが、歌詞はその時々の出来事や状況によって即興で作り上げ、周りの人もすぐに呼応する。
「どのくらいのお金があったら慈済に入れるの? 私たちはお金がないの、私たちは愛があるだけよ」という歌詞がある。
蔡岱霖は「いつも思うのですが、貧困の人がどうやって貧困の人を助けるのかと。でも彼らはそれをやってのけました。彼らの生活は依然として貧しいですが、二○一二年から二○一五年まで歩んできました。これからも愛をもって歩き続けて行くと信じています」と力強く言った。
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【マンゴ―の木の下で】
モザンビーク首都付近のマハタにある「慈済の家」に20カ所から来たボランティアがマンゴーの木の下で初めての「本土ボランティア研修会」を行った。慈済早期の足跡を顧みると、当時の時代背景と現在のモザンビークはよく似ている。
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