慈濟傳播人文志業基金會
できうる限り愛の力を出そう
人に対しては善解に努め
群衆の中に入っては包容し
すべてに感謝して過ごせば
常に足るを知る
愛の力を思う存分発揮して
心と大地を安定させよう
 
五月に入ってから、台湾では地震が頻繁に発生しています。ただ五月十二日の一日間には九回を越え、マグニチュード五に達したのもありました。これは正常にエネルギーが発散されている状態と言いますが、人もこの信号を注意し、戒を慎みます。心から愛のエネルギーをいつも発散して、慈悲憐憫の心を起こし、この世の苦難を憐れむならば、災難が抑えられます。
近年、アジアでは多くの国々で旱が続いています。インドでは三十万人以上の人が飲み水が不足する危機に陥り、さらに四月には高温のため三百人が亡くなっています。ベトナム南部では旱続きで土地が塩化しひび割れしたため、農民は休耕を迫られ収入が減少し、生活を圧迫しています。
水は大地の生命です。水が豊富にあっても、ない時の苦しみを思って、晴天の時に蓄えなければなりません。水が自由に使えることは幸せなことですから、日常生活の中で大切にしましょう。
「人は天に勝る」と言われています。しかし人とは時には自分の信念に反発することもあり、自分に克つことも難しいものです。ならば、まして天に勝るなどとは可能でしょうか? 異常な気候に対して人力で抵抗することは困難です。ただ皆が心を調和させると、天地の気候も調和することができます。
旱とは雨が降らず大地に水が欠乏することです。人の心はさらに法水で潤うことが必要です。心が穏やかな時は「他人をほめることは美徳、人の是非を言うと自分の徳を損じる」という道理がよく分かっています。しかし、目の前の境地に左右された時、無明煩悩が理性を覆って怒りが起きると、心の中にある火が燃えさかって先入観にとらわれ、人と人とが対立してしまいます。
 
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倫理道徳の観念が薄れている現在は人類の一大危機です。心が貪瞋痴に満ちている上に傲慢で疑い深いと、心の中に砂塵が舞い上がり、目先の利は業力を造り世の中を不安にさせます。
常に良い心を保ち、他人に対して善解するよう努め、人々の中に入っては包容し、そしてすべてに感謝して、常に足るを知るならば、人々とよい縁を結ぶことができます。
人々には利点も欠点もありますが、もしも人の欠点ばかり見て、自分の利点を思っていると、人と縁を結ぶことができず、たとえ心に善があっても他人の助けは得られません。反対に、相手の利点を過大視して欠点を包容し、互いの利点を持ちよって社会に奉仕すれば、社会に福をつくることができます
衆生が福業を共にすると、災難をなくすことができます。雨が大地を潤すように、衆生も法水で心を潤し、人々が道理に精通して何事も見極められるようになると、自分の心をはじめ家庭や社会が健やかに、天下は平穏になることができます。
 
行動を起こせば
道の遠きは恐れず
愛の心が活発になると
力が湧いてくる
 
四月中旬、アフガニスタン、ミャンマー、日本とエクアドルに相次いでマグニチュード七以上の強震が発生しました。その中で南米のエクアドルに起きた七・八の強い地震では六百人以上が被災し、無数の家が破壊されました。市内は壊滅し、産業は停頓したために、多くの人が職を失いました。苦しい生活の中で、目にするのは傾いた危険な家屋と廃墟ばかり。そんな中で恐怖と不安に襲われ過ごしていることでしょう。
米国、パラグアイ、チリ、ブラジル、アルゼンチンの慈済人は支援のためにグアテマラに集合し、現地の台湾人ビジネスマンは被災者を慰め世話をしていました。最もひどかった四カ所の被災地で、慈済は「被災者雇用制度」を実施し、被災者は賃金を得ながら自分たちで瓦礫を取り除いていました。彼らは収入を得られるだけでなく、自分たちで郷里を再建し、生気と商気を取り戻して被災後の生活が一時も早く正常にもどるよう力を注いでいました。
慈済人は険しい瓦礫を乗り越えて、被災者の傍らに寄り添っていました。被災者雇用計画に参加していた住民の中には医師、弁護士、市議がおり、傷ついた痛みをこらえ自分たちの故郷再建に立ち上がっていました。その中のフランクという被災者は地震で重傷を負い、妻は彼の胸の中で息を引き取りました。彼は米国からきたボランティアの済覚に、再建の仕事をしている中で新たな生活の目標を探し当て、心は平静になったものの、亡くなった妻のことが忘れられないと話し、慟哭しました。
済覚は彼の手を握りしめ、真心を以て皆の祝福を受け、失った愛の悲しみから抜け出して、妻に対する愛の代わりに周囲の人に関心を寄せるのですと慰めていました。
苦難の多い人生に復興の道は遠いものですが、道の遠いことを厭わずに踏み出すことが肝心です。生き生きとした慈済の愛は、現地で最大の力となっていました。
人生の中で福と禍は予測できず、無常が先にくるか、明日が先にくるか誰も分かりません。人生の無常の苦に対して、時間、空間を把握しお互いに福をつくり合い、善の縁を結ぶことが必要です。自分は力不足だなどと恐れず、皆で団結すればこの社会に福を作り出すことができます。
 
心に深い信仰を
大乗の心を起こして
孝行はすかさず行い
方々で善行をしよう
 
旧暦の四月八日は釈迦の生誕日に当たり、一九九九年に台湾の立法院(国会に相当)では国の祝日に定められました。新暦の五月の第二日曜日は母の日で、釈迦の生誕日と二つの祝日が重なりました。それ以後、世界にいる慈済人はこの日を、「仏誕節、母の日、世界慈済デー」の三節句を祝う日とし、孝行と善念を宣揚し、「善と愛の力を発揮して恨みをなくす」よう呼びかけ、この世が平穏で平和になるよう祈っています。
今年は世界各地で四百六十回、二十五万人以上がこの式典に参加しました。英国の式典では「父母恩重難報経(父母の恩に報い難し)」のストーリーに手話を交えたミュージカルが披露されました。観衆は中国語が理解できませんが、劇を通して孝行とはすかさずせねばならない大切さを痛切に感じていました。フィリピンのマリアナ市では三百人の少女が父母の恩に感謝して親の足を洗う儀式を行い、トクマン市長までがお年寄りの市民を母と思って、かがんでその足を洗っていました。
二○○八年にミャンマーが熱帯気流に侵された時、慈済は緊急に長期にわたる復興支援策として種籾を配付しました。農民は収穫を待たずに、慈済の「竹筒歳月」の精神を実行して、毎日お米を洗う時、一握りの米を「米援助の甕」に入れています。甕がいっぱいになった時、自分よりも貧しい人たちに分けるためです。この善行を通して足るを知る彼らの顔には微笑みがたたえられています。
アフリカのモサンビークでは、二千人を超える人たちが灌仏会に参加していました。炎天下にもかかわらず黒人の菩薩たちは熱砂の上で、整然と「真心を込めて三願」の祈祷を行い、彼らの伝統の曲を「仏陀よ! 我が身と心を献上して苦難の人を助けられるように。以前我は我が身を以て間違いを行っていた。しかし今は誠心誠意懺悔と感謝であなたの教えと善に向かい喜んで追従してまいります。仏陀よ! 私たちの声が千も万もの壁を越えて届きますように。仏法のお教えによって苦難の人たちをお助けできるようお導き下さい」と繰り返し歌っていました。
アフリカは乾燥した貧しい地方ですが、彼らは自分の健康や金銭を求めずに、ただただ仏陀の教導とさらに多くの仏法を求めて、苦難の人を救えるよう願っていました。この純真で敬虔さに溢れた歌声に私は大変感動しました。これが、広い心を以てこの世のために大願を立てていることです。
 
 
法を聞いて法を伝え
立願をたて法を護持
人々の心が善に至れば
国土は清浄になる
 
人にはもとより仏性が具わっています。ただそれが無明に覆われ、無明の中で覚悟の機会が隠されているだけです。平等心をもって世の人に関心を持ち、どの人も未来の仏と見做して、感謝、尊重、愛で相対すると、それが平和な浄土ということです。
この世の至る所が道場です。言うまでもなく、善知識あるいは逆増上縁があっても、警戒しなければならないことを私たちに教えています。良い模範になる人ならその人をよく見て習わねばなりません。道理に明らかでない人は、自分さえよければという考えで人を傷つけます。こうした行為は脱線者で、警戒心が必要ですから、同じような誤ちは起こさないようにせねばなりません。
二千年以上前に、仏陀の侍者アナン尊者は法蔵を護持する願を立てました。仏がお亡くなりになられた後、アナン尊者とカヨウ尊者が協力して経典を集結したので、仏法が今日まで伝えられたのです。皆さんに期待しますのは、アナン尊者の編纂した法を聴き、法の知識、法の護持を学ぶことです。群衆の中に入って優しい言葉をかけ、我慢強く衆生を済度し、菩提の道を切り開いて善の種を撒き、この世にいる苦難の人々の「覚有情(悟り)」の功徳林になることです。
 
志に専念し
この一刻を把握して
分秒分かたず
一切成就のために
 
今年の四月三十日は旧暦の三月二十四日で、慈済創立五十周年にあたります。五十年前のこの日に「仏教慈済功徳会」が花蓮で設立されました。この道を歩いてきた五十年の間では、最初の信念と志願を終始不動の精神で守り続けてまいりました。
「今」のこの刹那は、指ではじくようにすぐさま「過去」となって「未来」がやってきます。過去、現在、未来のすべては、現在の一刻をもって成就しますから、永遠にこの一刻を把握しなければなりません。心は瑠璃のように清らかに、煩悩を複製せずに、たとえ渦巻く黄塵の中にいても揺るぎない初心を保つことです。慈済人たちの志は、愛を以て着実に志に専念し、正確な方向に向かって進み、精進することであり、それは常にゆるぎないものでした。それ故にすべてを成就させることができたのです。
「千里の道も始めの一歩から」と言われるように、未来無数の五十年は今をもって始まります。心の内に「誠正真実」を備え、身では「慈悲喜捨」を実践するよう期待しております。
「人心の浄化、社会の平穏、天下に災難のなきように」ということが、私の毎年の三願です。また「三つの求めず」とは私が一生学ばなければならないことです。一、我が身の健康を求めず、ただ智慧の鋭敏を求める。二、すべて思い通りになるよう求めず、ただ信心、気力、勇気を求める。三、負担が軽くなることを求めず、力量が増えるよう求める、ということです。
命は年月と共に消え去り、老いて死えば遂には土に帰りますが、慧命は永続することができます。明敏で煩悩に縛られず、その煩悩を菩提に化すと慧命は増します。人生において意のままにならないことは十中八九ありますが、信心、気力、勇気を堅くもって何事にも当たることです。責任が重いことを恐れず、苦難の衆生を慰撫する力を求めなくてはなりません。
一人の力は微々たるものですが、皆が菩薩心を啓発し、共に奉仕して愛の力を必要とする所へ普及させてゆきましょう。皆さんのさらなる精進を期待しています。
NO.234