中東からの難民はバルカン半島を経由して西ヨーロッパを北上するかドイツに亡命を申請するかしてきた。しかし、今年の三月、多くのバルカン諸国が国境を閉鎖したため、難民は行き場をなくしてしまった。セルビアの中継地で「我々は人間である。ここから出せ」と書かれたプラカードを持って彼らは叫んだ。この広い世界のどこに行ったらいいのか?
私たちは台北を出発し、トルコのイスタンブール経由でセルビアの首都ベオグラードに着いた。空港を出ると慈済ボランティアが予約したタクシーに乗り、一路北へ目的地に向かって走った。
ドライバーは私たちが観光客ではなく、ボランティアと落ち合って中東からの難民のケアに来たことを知っていた。道中、彼は大いに私たちと解決困難な難民問題を大いに語り合った。「今回の難民で政府は大きなプレッシャーを感じています。経済的にいいわけではなく、難民の世話をする余裕がないのです」と彼が心配そうに言った。
セルビア共和国は以前、ユーゴスラビア共和国の主要な地域だったが、十年前にユーゴスラビア・モンテネグロから独立し、現在は社会主義から資本主義に移行する段階にあって、経済は疲弊し、政治と報道は閉鎖的である。
セルビア難民事務局はユーゴスラビアの内戦で発生した難民を支援するために設立されたのだが、今は大量の中東難民が通過したり亡命を求めたりしており、政府にとっては全く新しい経験であると共に挑戦でもある。
二〇一五年、主にシリア、イラク、アフガニスタンからの難民百万人が「バルカン経路」を使い出した。トルコから海を渡ってギリシアに行き、マケドニア、セルビア、ハンガリー、クロアチア、スロベニア、オーストリアを通って最終目的地のドイツや他の西欧諸国に到達する道である。
セルビアだけで五十万人の難民が通過した。昨年の九月、ハンガリーが国境を閉鎖してから、難民は方向を変えたが、それでも毎日、四~五千人の難民が冬に入ってもセルビアを通過点にした。彼らを収容するため、セルビア政府は三カ所の中継地を設けた。その中の一つは南部のマケドニア国境に近いプレセボにあり、もう二つは北西部で、クロアチア国境沿いのシドとアダセビシにある。その二つが今回、慈済ボランティアが防寒服の配付を始めとするケア活動を重点的に行う地区である。
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寒風が吹く中、身なりを整えた難民は家族と共にセルビアを離れるバスが来るのを秩序正しく並んで待っていたが、その目は見えない前途を見据えていた。
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シド駅の外には、長い間、留まって離れることができないシリア難民のシアド親子がいた。
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東欧、南欧の数カ国が難民の受け入れを制限
三月、バルカン半島は寒暖の差が激しく、朝晩の気温の差は大きく、時には雨がぱらつくこともあった。
朝七時頃、高速道路のガソリンスタンド脇にあるアダセビシ中継地の数百人を収容できるテントの中から大きな声が聞こえて来た。セルビア難民事務局の職員が通行許可証の発行に関する内容を説明したり、難民からの質問に答えていた。
子供を連れた数人が大小の荷物を持ってこそこそとテントから出て、かなり大きい室内休憩所で腰を下ろした。大人は心配そうな顔をしていた。夜よく眠れなかったのか、それとも先の見えない先を心配しているのだろう。子供は薄い服しか着ておらず、鼻水を垂らし、お腹が空いたとぐずった。
四十五歳のモハメドは慈善団体から配給されたパンと紅茶を食べながら、手に持っていた携帯電話を見て笑顔を見せた。シリアでコックをしている友人から送られて来た故郷の料理の写真である。
モハメドはシリアを離れてはや半年になるが、未だ安住できる所に行き着いていないため、以前の安定した日々をとても懐かしがった。その日、彼は一緒に来た友人と期待した通り、シド駅に向うバスに乗ることができた。彼らは慈済ボランティアが配付したジャケットとマフラーを付け、通行許可証を持って順調にクロアチアに向う汽車に乗り、北へ向った。
しかし、誰もが彼らのように幸運なわけではない。シリアやイラク、アフガニスタンから来た難民には、シド駅から歩いて五分足らずのシド中継地に留まっているが、駅に来ても書類や身分証が適合しないために警官に引き止められる人や、何回も拒絶され、その場で泣き出し、荷物を持ってがっかりした様子で中継地に戻る人もいた。
慈済ボランティアはその日の午後、中継地で防寒服の配付を行う予定だったが、難民の情緒の起伏を考慮して、一つひとつテントに入って彼らの話に耳を傾けることにした。
もっと残念なことは、その数日後、マケドニアが予告なしにギリシアとの国境を閉鎖してしまったことだ。その近隣諸国も次々に国境を閉鎖し、何万という難民がギリシアに足止めされ、「バルカン経路」上の難民は動くに動けなくなってしまった。ザリアを含む二千人余りの難民はセルビアに留まることを余儀なくされた。続く三月と四月、二度とシド駅からクロアチアに向う汽車が出発することはなかった。
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ボランティアがシド中継地内のテントに入ると、一つひとつベッドを廻って挨拶した。言葉が通じなくても抱擁と笑顔で思いやりと愛がお互いの間を流れた。
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早朝、慈済ボランティアはホテルの前に整列し、その日の難民への配付とケアの準備に取りかかった。
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世界中の慈善団体が駐留して世話している
年初の冬の間、ドイツの慈済ボランティア、范德祿と妻の陳樹微、そして、娘の陳無憂は二度、ミュンヘンからセルビアのベオグラードに出かけた。車で十三時間かけてセルビアの難民事務局を訪れ、防寒服を難民に配付する手筈を話し合った。
彼らは忍耐強く事務局の職員に慈済を紹介し、規定通りの配付活動の許可証を申請した。また、何回も現地の工場と物資の品質、値段、納期を確認した。準備作業が終わり、第一回目は十一カ国から四十六人の慈済ボランティアがセルビアのシドに集結した。
三月一日から十日間で一万着のジャケットや帽子、マフラー、靴下など防寒用衣類を配付する予定だったが、思いも寄らず、国境が閉鎖されてしまったため、最終的に二千八百三十枚しか配付できなかった。「一日に千人の難民がセルビアを経由する計算でしたが、結局、一日目はバスが一台しか来ず、六十人ぐらいでした。続く数日も一番多かった日でも四台止まりでした」と陳樹微が溜め息をついた。
アダセビシ中継地の難民の移動量は最も多い時、六十台のバスが国境を越え、平均して二十四時間滞留するだけだった。各国政府が方針を変えてからは、難民事務局でも一日に出入りする難民の数を把握できなくなった。
逆にドイツのボランティア、鍾家隆は楽観的だった。「大きな環境の変化は私たちにはどうしようもありませんが、人数が減った状況下では、ボランティアは逆に難民のニーズを満たすことができます。難民は自分のサイズと好みに合った防寒服を得ることができるからです。彼らが温かい服を着て喜ぶ姿を見ることも配付の意義達成にならないでしょうか?」
ボランティアの中で十六人はボスニア・ヘルツェゴビナのサマク町から来ていた。彼らは二〇一四年のボスニア大水害で慈済の支援を得た被災者である。ヨーロッパ慈済ボランティアが国境を越えて支援している事に感動し、市議会議長であるプレドラグ・マリンコビック氏が先頭に立って、隣国で支援している慈済の隊列に加わったのだ。
彼らは皆、若くて力強かった。荷物運びや周辺の清掃、秩序整理などを進んで引き受け、団体の中でも重要な助っ人となった。
慈済の他、中継地には国連難民高等弁務室や国境無き医師団、赤十字社、ワールドビジョン、マーシーコープス、レマーS.O.Sなど世界各地の団体が来ていた。彼らが駐留している期間はもっと長く、様々なサービスを提供している。
ボランティアは他の慈善団体とも接触をしている。イギリスのボランティア、李宏耀はこう言った、「私たちは難民の世話をしに来ていますが、他の慈善団体と交流することはとても大切なことで、お互いに提供しているサービスや精神的理念を学ぶべきです」
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ボランティアは列の前方で難民から一枚ずつ慈済のロゴが入ったシールを受け取り、彼女たちは引き換えに体のサイズに合った防寒服を満足そうに受け取った。
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長距離バスでセルビア、アダセビシ中継地に着いたばかりのあるシリアからの一家は疲労のため、高速道路脇の空き地にうずくまっていた。ボランティアは寒くないかと彼らに聞いた。
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今日、汽車は来ますか?
「バルカン経路」上にある国々が国境を閉鎖した情報が中継地にも広がって難民たちに暗雲が垂れ込め、連日の冷たい雨模様が加わって状況はさらにひどくなった。
ボランティアが一番よく難民に聞かれるのが、「今日、汽車は来ますか?」という質問だった。一部の難民は未だに一縷の希望を抱き、毎朝、荷物をカバンにつめ、駅で地べたに座って待った。時折、首を伸ばして線路を眺め、汽車が来ることを期待した。
昼食時に難民が長い列を作って食事をもらっていた時、イラクから来たチャワン・バクティールは横で見ているだけで、列に加わろうとしなかった。「食べたくないわけではありませんが、食べ慣れないものだし、食べ飽きたのです」と彼女が言った。
チャワンは皆が思っていることを口にした。彼らがもらう食べ物はパン、ビスケット、缶詰、ミネラルウォーターで、冷たくて代り映えしないため、最終的に食べ物はゴミ箱に捨てられてしまう。
チャワンは幸運な方である。部屋に戻ると母親が登山用の早炊き鍋でご飯を炊き、トマトと卵、鶏肉を入れて加熱したものとレタスとチャパティを付け、一家揃って食事を始めるところだった。
中東地域からの人々は多くが穀物や米を主食にしている。今は国を離れて流浪しているため、熱々のご飯は彼らの最も望んでいるものである。
慈済は第一段階で冬服の配付を終えた後、第二段階の炊き出しを始めた。まず、現地で総菜パックを仕入れ、キャンプに持ち帰り、温めてから難民に提供した。しばらくして、即席飯が台湾から届くと、ボランティアは即席飯を提供した。
慈済ボランティアの楊文村はドイツのハンブルクで三十年レストランを経営してきて、確かな調理の腕前を持っている。今回の配付活動ではボランティアの昼食と夕食を引き受けてくれたほか、詳細に難民の食べ物に対するニーズを聞き取り、絶えず料理の仕方に変化を盛り込んだ。
「彼らはトマト味を好み、味付けも多少濃い目で、ぱらぱらのご飯とおかずは分けて食べます」。楊文村はボランティアは難民のためにスーパーマーケットへピクルスとヨーグルトを買い出しに行った。思いやりのある食事は好評で、食べ物が捨てられることはなくなった。
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慈済ボランティアが中継地で冬服の配付を行った時、毎日、様々な困難に遭遇した。ボスニアからのボランティアが物資の運搬や補給を手伝い、常時、会場の状況に従って、仕事を買って出た。
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加熱して食べる調理パックを提供するほか、ボランティアは一人ずつ難民がそこの食事に慣れているかどうかを心配した。そして、優しく幼い女の子に食事を与えた。
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大規模に即席飯を提供する前、ボランティアは試食会を設けて、シリアやイラク、アフガニスタンからの難民を招いて味見してもらい、意見を聞いた。
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全てを分かち合い
各自、前に向って進む
難民と接触する機会が多くなって来たため、ボランティアはアラビア語、英語、中国語の三つの言語で書かれた《静思語》のカードを用意し、冬服を受け取った後、引き抜いてもらうようにした。
「私は『人生に煩悩があるのは、全て貪、瞋、癡の三つの毒に由来している』という言葉がとても好きです。この言葉はシリアの内戦がそうであることを思い起こさせてくれます」。一家五人を連れて故郷を離れたアラディンは期待を込めて話す。戦争は五年で終わるはずだと思っている。国民が家に帰れず、国外で放浪していてはいけないと。
配付活動する以外にも、ボランティアは頻繁に中継地を訪れて難民に付き添い、大人たちの故郷への思いや戦争の無情に対する話を聞いた。そして、子供たちにはボール蹴りやお絵描き、ドイツ語の学習などに付き添った。また、「皆、家族」と「愛と思いやり」という曲の手話を教え、ボランティアと難民は共同でそれらの歌詞をペルシャ語とアラビア語に翻訳して内容をよりよく理解してもらえるようにした。このような行動がお互いへの友情を深めることになった。
数人のシリア人青年は平均年齢が二十三歳だった。故郷では友人が戦争で重傷を負って死んだのを見てきた人や理由もなしに警察に逮捕されて刑務所に入れられた人、トルコで低賃金で長時間労働の縫製工や皿洗いをしている人など様々である。彼らは年齢に比べて重過ぎる生命の運命を背負っている。しかし、それでも大変な苦労を伴う旅の途中で、心を開いて他人の思いやりを受け止めると共に、自分が持っている全てを分かち合うことで報いているのだ。
敬虔なモスリムである彼らは毎日、五回の礼拝を忘れることはなく、それによって心の平静を保っている。「私たちは全てをアラーが賜った試練だと思っています。皆、順調に乗り越えられることを信じ、一日も早くドイツに行けるよう祈っています」と彼らが言った。
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駅の外を見渡すとほとんどが行動の不自由なおばあさんや無邪気な子供を伴った人たちであった。故郷を離れて久しいが、目的地までまだ、ほど遠かった。
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一度きりの巡り会わせであっても、ボランティアは機会を逃さず、声をかけて温かい冬服を送り、難民がバスで目的地に向って出発するのを見送った。 |
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十五カ国から延べ八十八人の慈済ボランティアがセルビアの中継地に三十四日間駐留したが、どんなに気にかかっていても難民たちに別れを告げなければならなかった。その期間中、体調を悪くした人や生活に忙しい人もいたが、皆、同じように離れるのが名残惜しく、飛行機の予約を何度も延期したり、ビザを何度も取り直したりした。また、帰国しても再び、参加する人もいる。
「今回、難民たちの苦労話や思いを聞いて、やっと徐々に彼らが逃れて来た背景を理解できるようになりました。自分で相手を深く理解して初めて身に沁みて感じることができるのです」とドイツのボランティアである蔡婉珍が感想を語った。
中東での残酷な戦争もヨーロッパにまで及んでいる難民危機も」、平穏で平凡な毎日を送っている私たちには何もなかったかのようだ。
冬服の配付と炊き出しでできるケアに限りがあっても、愛と思いやりで以て、他の人生を理解することは意義のあることである。
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┃いつ困難に出会うか、安まる時がない┃
シド中継地の大型テントは前後に出入り口があるだけで窓はない。密閉した空間に体臭や食べ物の匂い、流行感冒などのウィルスに満ち、数百人が常時そこで呼吸している。その上二十四時間暖房がついているため、テントの中はむっとするような汚れた空気が充満し、咳をする声もあちこちで聞かれる。
シリアから来た老婦人と青年は荷物と一緒にテントの入り口近くで寝た。やっと新鮮な空気が吸えた。しかし、彼らに安住できる場所はまだ、見つかっていない。中継地にいる時間が長くなればなるほど、心配と焦り、恐怖が知らず知らずのうちに覆い被さり、その陰影を振り払うことができない。
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┃慣例の公務┃
外は風が冷たかった。シド中継地の難民は毎日3回、決まった時間と場所で整列し、難民事務局の職員が慈善団体からの食糧を配付するのを待った。
整列するのもテクニックがいる。素早い動作と細心の注意が必要である。というのも、食糧の数に制限があるため、誰かに割り込まれたら、運悪くもらえなくなる時もある。難民が食糧のことで言い争ったり、喧嘩するのは日常茶飯事である。
彼らはビニール袋を開けると、湿ったパンを冷たいミネラルウォーターで流し込む。お腹が空いてるのか満腹なのか分らない。ビスケットや缶詰は取っておき、後でお腹が空いた時に食べる。同じような食べ物はこれで何日目になるのかもう、覚えていないが、明日も同じものを食べることだけは分かっている。
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┃砂埃が舞う中┃
シド駅の外で一部の難民は長く待たされた挙げ句、何度も書類の審査を受けた末、やっとクロアチアに向う汽車に乗ることができた。泥がこびりついた古びた列車は、あたかも彼らが歩んで来た困難な道を無言で回顧しているようだった。
次の駅では素晴しい未来が待っているのだろうか? こう聞こうとする人はなく、答える人もない。ただ、運命の歯車だけが彼らを前へ押しやっているだけで、時間で解決するしかない。
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