慈濟傳播人文志業基金會
人道的建築の旗手 簡志明(上)

 

交通大学人道的建築実験室の手がけた「竹網室」が新竹県峨眉郷で竣工した。牽引役の簡志明は、人道的建築の夢を実践するため、農村コミュニティでの建設にも協力している。

 

建築士といえば、みなパリッとしたスーツに身を包み、意気揚々とパソコンに向かって建築業者のための精密な設計図を作図している、というイメージがある。しかし台湾人道的建築協会(AHA ,Association of Humanitarian Architecture)執行長の簡志明は、カジュアルな服装でいつも人道的建築の工事現場に来ては自ら汗を流している。「人道的建築チームはじっくり長い時間をかけて集落や農村の人々とコミュニケーションを取らなければなりません。使用者のニーズを討論してからCADを使って双方にとって理想的な設計図を描き、共同で建設を進めるのです」。簡志明は謙虚にこう話す。

二十八歳の時、簡志明は客家委員会に欧米への視察希望を申請した。視察計画書には、「医者は生老病死を見尽くし、大愛の哀れみを持つ。もし建築家が『住む場所のない女性や子ども、病気や寒さに苦しむ高齢者』について理解を深めれば、きっと善念が啓発されるはずだ」と記した。シュヴァイツァーの医術で人を救うことができるなら、建築の専門家もサポートを必要とする人々を助けられると彼は考えたのだ。

「人道的建築」は、建築家が設計者本位ではなく、現地の人々とコミュニケーションを取り、現地の建材を使用して、みなで協力して一つの建築物を築き上げることを意味する。人道的建築と似た概念の「人道建築」は欧米では既に早くから行われており、多くの欧米の建築士が開発途上国で現地の人々と協力し、現地に必要とされ、かつ現地の文化に調和した空間を作り上げている。

「優れた医師は一度で一人を治療する。優れた建築は一度で何人もの人々を守る」と考える成功大学建築学科副教授の簡聖芬は、簡志明の人道的建築を当初から支持してきた。人道的建築と聞くと一般の人は義務建造住宅を思い浮かべるかもしれない。一つの建築物がなるべく多くの人々の役に立つよう、資源の限られた状況下、人道的建築は公共施設の建築を主としている。

 

資源を求め募金に取り組む

 

簡志明は大学院卒業後、一時スランプに陥った。自分のやりたいことをはっきりさせたいとしばらく模索していた彼は、「建築士は社会のために何ができるだろうか」と自問した。その後間もなく、簡志明はある原住民の家屋建設に協力する機会を得て、南投県双龍集落付近、一千メートル級の中央山脈の山中で作業を行った。現地の生活文化を理解したいと、仕事の合間に付近を歩き回っていた彼は、たまたま双龍小学校の先生と生徒に出会い、同小学校の伝統工芸教室が台風で損壊し、修復できていないことを知った。

二〇〇八年、簡志明は伝統工芸教室が全壊したという知らせを受けた。彼は双龍小学校のため、何か建設的なことができるのではないか、という考えが浮かび、ちょうど行政院での代替役(事務系の兵役)についていたため、資源の豊富な行政院で募金活動を始め、同僚や友人、さらに様々な建築建設組織から十三万元の募金を集めた。そして「果実のさね」の発芽をコンセプトに、現地の住民との討論を経て、果実のさねの形の竹造伝統工芸教室の建設を計画した。

募金は当初、十回に九回は断られ、順調とは言いがたかった。「私の髪型を見て、私が出所者か出家者で、社会奉仕のためにやっているのだと思われることもありました」。簡志明はこう回想する。寄付してくれた人たちに安心してもらうため、また寄付を断わられた人々にも自分の思いを証明したいと、簡志明は台北科技大学の協力を得て、計画の名義で寄付金の領収書を発行した。またウェブサイトには寄付金の明細も公開し、透明化を図った。

募金以外に、人材も募集しなければならなかった。簡志明の後ろ盾となった簡聖芬は、「お金に関しては、私たちが提供できる額には限りがありましたが、人に関しては、学校には豊富なマンパワーがありました」と話す。簡志明を知る教師たちは、彼を学校に招き、学生たちに人道的建築の理念と進行中の案件について説明する機会を与えてくれた。教師たちはまた、ワーキングホリデーに行くような気持ちで人道的建築に参加するよう学生たちにも呼びかけ、人道的建築はキャンパスで予想外の脚光を浴びることになった。「昨年、交通大学が峨眉コミュニティでの竹造建築に協力してくれた時には、十人のボランティア募集に六十人の応募がありました」。簡志明はこう述べる。

学生ボランティアの応募が定員を超えた時には、面接で選出を行わなければならなかった。面接を担当した教師たちは、選出されなかった学生たちにも、決して彼らに何か悪い点があったわけではないこと、ただ人道的建築には、様々な能力、たくさんの役割を備えたメンバーが必要となるのだということを説明した。簡志明は、「メンバーには専門性の他に、料理や写真、ビデオの撮影、記録などの能力が必要となります」と例を挙げる。

人道的建築協会の作品第一号ー南投県双龍集落の伝統的な竹編で作られた教室。風による空気抵抗を減らすため、アーチ型のデザインとし、またブヌン族の伝統を受け継いで竹を建材とした。(写真/台湾人道的建築協会)
 

現地の文化に溶け込んだ人道的建築

 

人道的建築にとって、家を建てることは、多くのステップの中のごく小さな一部分に過ぎない。人道的建築で最も重要なのは、コミュニティに根を下ろして建設することであり、建築技術は二の次である。簡志明は、「原住民集落の人々には共通認識と団結力があります。ただ建築という概念がないので、私たちがサポートに行くのです」と説明する。団結力こそ、コミュニティでの建築を進める核心的力量と言える。

台湾海外人道的建築チームは、ネパールのJUGEDIで、計画的に「聨新希望医療センター」を建設した。チームのメンバーは、現地の労働者にレンガを積む技術や機械の使用法、工事現場管理の知識を伝えた。(写真/台湾人道的建築協会)
 

 

例えば台東県東興村の達魯瑪克集落は、まさに原住民の団結力の強い集落である。二〇一二年、簡志明と台北科技大学建築学科の楊詩弘助理教授は、学生を連れて共に東部唯一のルカイ族の集落に入り、長期的な観察を行った。その結果、多くの子どもたちがルカイ語をあまり話せなくなっていること、集落の老人たちは子どもたちに母語と民族の伝統文化を伝える空間のあることを望んでいることが分かった。一年近くの時間をかけ、人道的建築チームは集落の長老、牧師、そして子どもたちと討論を行い、建築の雛形が出来上がった。

蝶の形をした「児語記憶亭」はこうして誕生した。ルカイ族にとって蝶は勇士の象徴である。木造の「児語記憶亭」は蝶というトーテムを融合し、大南小学校の木彫の作品を組み合わせ、独自の文化的要素を浮かび上がらせている。かつてのルカイ族が石板で家を建てたのにならい、人道的建築チームは川で石板を採集し、それを地面に敷きつめた。人道的建築は、台北科技大学チームと現地住民の力を結集したのである。

児語記憶亭の構想は、ルカイ族の言語を継承するという使命から来ている。
南投県の羅羅谷集落の「ミニ読書書屋」は、風景と読書空間とを融合させた。

 

台湾南北から集まってくる大学の教員と学生たちは、どのように集落の住民とコミュニケーションを取るのだろうか。「夜、私たちは焚き火を囲んで討論し、キャッチボールをするようにアイディアを出し合いました」。簡志明は当時の心温まる光景をこう振り返る。集落の長老たちや牧師が膝を交えて語り合ったのはもちろん、子どもたちも討論に加わった。「子どもたちに、建設する空間の想像図を描いてもらいました」。しかし描いてもらった絵を見るや、人道的建築のボランティアたちは自分たちに建てることができるのかと目と目を見交わした。キリンにゾウ、モモンガのいるような空間を、子どもたちは望んでいたのだ。そこで人道的建築チームは、木彫や絵画といった子どもたちの美術作品を通して、彼らの創意を建築の一部分とするアイディアを考え出した。

人道的建築チームは短くて二十一日間、長ければ一カ月あまり、現地で生活した。六十歳近い双龍集落の住民の谷自勇は、「みなで一緒に竹や茅の採集に行きましたが、よく蚊にかまれ、また茅であちこち切り傷もできました」と回想する。人道的建築チームは、工芸のプロからボランティア、建築士、大学教授まで、みなが苦楽を共にして一致協力し、全員で炎天下に汗を流して作業し、五分間のシャワーを浴び、地べたに雑魚寝した。そして共に地元の野菜、住民の仕留めた野生動物の肉を食べ、そして一日の労働の後の心地よさを味わった。

集落や農村の人々は、建設された空間を様々な用途に使用している。例えば台東県の「都歴故事亭」は、もともとは先生が子どもたちにお話をするなど、学校のレクリエーションの場所として使われていた。しかしその後住民からの意見によって、長老たちに故事亭に来てもらい、集落の伝説を話してもらうようになった。こうした例は枚挙に暇がない。南投県の羅羅谷集落の「ミニ読書書屋」では、住民が結婚式を挙げたこともある。

(つづく)

 

 
NO.234