慈濟傳播人文志業基金會
仏教克難慈済功徳会の設立

 

難を克服する志を以て慈済を立ち上げてから、数々の試練があった。

それでも仏の慈悲深い「抜苦与楽」という志は、如何なる艱難にあっても、衆生のためという思いからさらに強く堅くなっていった。

 

一九六六年の五月十四日は、旧暦の三月二十四日にあたり、この日に「仏教克難慈済功徳会」が設立しました。

その時、證厳上人は北埔農場の地蔵廟(花蓮県秀明郷佳民村普明寺)に借り住まいをしておられ、他には三人の弟子、平慧永と荘是の二人のお年寄り、時々手伝いにくる荘是の孫娘紹愈がいるだけでした。

設立の日は厳かな式典は行われませんでした。普明寺の小さな仏堂の中に二十枚の座布団を三列に敷き、その場所いっぱいに人々が集まりました。上人がお経の講釈をされた時から縁を結んだ人々です。彼女らは上人が花蓮にとどまって、慈善活動をされるよう強く願っていました。

上人は功徳会の名称についてその由来を説明されました。「お金がなく、人数もたった数人しかいませんが、私たちには信心があります。救済活動は『克難する(難を克服する)』ことから始まるのです。慈とは『富める者に教える予楽』、済とは『貧しい者を救う抜苦』であって衆生の欠点を補うことです。『慈済』には『教富済貧』と『抜苦与楽』の精神がなくてはならないのです」と。

この世には多くの苦があります。その苦の中には物による苦しみと心の苦しみがあります。慈済の設立は、物が欠乏しているという苦しみから解放するだけでなく、さらに徹底的に心霊を苦から解き放つためなのですと強調されました。

社会では多くの人が、仏教とは迷信で単なる神頼みを求めるものと誤解しています。実際は、仏教とは人性の最も素晴らしい完全な教育です。もしも仏法を生活化し、菩薩を人間化することができて、仏法が社会に普及すれば、人々は平和で自在な日々を送ることができると信じています。

慈済は仏教を主体とし、「慈悲を心に、済世を志に」した組織です。私たちは仏法を以て人々の良知を啓発し、さらに良能を発揮するように導いていかねばなりません。

慈済功徳会設立の日、上人は普明寺の本殿を借りて「薬師法会」を行い、皆と《薬師経》を読経されて、薬師仏の大願を学ぶよう励まされました。
 

毎日人助けの五毛銭を貯金箱に入れてから野菜を買いに行った

 

その頃、台湾東部の貧しい人々を見るに忍びず、上人は裏の竹やぶに入って自ら三十個の竹筒貯金箱を作り、志のある三十人の主婦に渡されました。そして毎日買い物かごを手に取る前に五毛銭を竹筒に入れて、人助けの善念を新たにし、市場では善の種子を蒔くように、と言われました。

主婦たちは市場の店々で「私たちの師匠は、毎日五毛銭を貯めていると、大きくなって困っている人を救えると教えています」と善行を伝えると、市場の買い物客、魚や野菜売りたちの善心はみるみるうちに触発され、善行の灯は次々に燈されました。そして「私にも竹筒を下さい」と、毎日のように功徳会に加入を希望する人が現れました。

上人はこの様子を、「人それぞれ愛の心を持っていることの証です」と言われました。人々の善念は因縁によって啓発され、物が豊かでなかった時代の素樸で純粋な善の人心に五毛銭の募金というやり方が響き合って、三十個の竹筒は無数に増え、「仏教克難慈済功徳会」竹筒歳月の幕開けとなりました。

家庭の主婦の竹筒以外に、精舎に常住する出家僧が作るベビーシューズも収入源になりました。功徳会が設立して二カ月後には千百七十元になり、慈善基金として貧民救済と救難活動に使われていました。

 

是非の声を教育と思って聞き

心穏やかなら道も穏やかに

 

二十九歳になられた上人は、普明寺で弟子たちと自力更生の厳しい生活の中で、苦難の人を救済しておられました。この慈しみに多くの家庭主婦は感動していましたが、五毛銭に対する疑問と批判の声が上がっていました。

「自分たちも満足に食べられないのに、どうやって人を助けられるの?」という冷たい言葉。「それは清廉潔白とは言えない、自力更生などといいながら、今の生活もままならないのだから、偉そうに慈善団体を組織してこの機会に募金だといって金を集めるんだろう、全くあざといもんだ」という様々な誹謗が上がっていました。

この声は上人の耳に入りましたが、驚かれず、悲しみもされず、志を放棄することはありませんでした。出家修行して以来、小さな小屋住まいから慈善院、普明寺の借り住まいなどの苦しかった道々には、多くの「逆増上縁」が堅い道心を養い育てていました。

「もしもすべての生涯が順調にいっていたら、私の自修は自分を度する自分だけの一生で終わったでしょう。もしもいろいろな所を経て慈善院でお経を講ずることがなかったらこの弟子たちとの結縁を結ぶもなかったでしょう。さらに病院の床にあった血の痕を見ていなかったら慈済の発願はなかったでしょう」と。

お体の弱い上人は「衆生のため」に慈済建設の意志は何よりも堅く、他人の誤解を自分への激励と見做して「私はただの小さな人間に過ぎません。なにを気にすることがあるでしょうか? 自分を犠牲にして多くの人が幸せになればいいのです、他人がどう見るかなど気にすることはありません」とおっしゃいました、

上人は普明寺の裏にある松の木を見上げておられました、荒れ狂う夏の台風、秋の風、寒風の冬にも負けず、緑の陰を作って人々の憩いの場所になり、また虫たちを守っているように、千万の撃砕に遭っても、強い根を張っていれば逆境も滋養になって菩提の種子を育むのだと自分を励まされました。

「是非」を「教育」として感謝の気持ちでその傷を癒し、この警告を「衆生のため」と担うことを決め、如何なる声があっても心が平静なら穏やかに道を歩くことができると信じておられました。

これは《無量義経》の経文「静寂清浄、志玄虚漠、守之不動、億百千劫」の考え方で、「衆生の為」という堅い志願は永遠に不動でした。「因縁は一瞬にして過ぎ去るもので、方向は正確だと信じたら志願を堅持し、道が如何に険しくても信心、気力と勇気を持って前進すると、遂には平坦に歩くことができる」ということです。

 

 
NO.234