慈濟傳播人文志業基金會
あの百日間

強烈な地震がネパールを襲ってから百日が過ぎた。

今もなお多くの人が救援を待っている。

私は慈済人と共に至る所で同胞を助けていた。

百日が過ぎ、私は果たすべき任務は終わったと思っていた。

しかしそれは間違いで、さらなる任務のはじまりだった……。

 

二○一五年の四月二十五日は土曜日で、午前の診察を終えた私は、自宅へ戻って一休みするため診療所を出ました。のどかなそよ風とみずみずしい花の香りの中を人や車やバイクが行き来して、お年寄りたちは商店の前に座って暖かな陽を浴び、主婦は夫や子供が昼食に帰って来るのを待つ、平和な日常風景が広がっていました。

私はベッドに横たわって、父が尽力している釈迦基金会の設立について考えていました。これは「釈迦族」命名の基金会で、私は大変興味がありましたが、明確な考えが浮かんできません。ある時、父と意見を交換した時、「釈迦」という二文字は、釈迦牟尼仏を由来としているから、私たちが立てる方案としては、仏陀の精神と結合させねばならないということでした。

私は仏陀の彫像や絵の中にこめられている意義を探そうと試みましたが、あらゆる仏はたんなる彫像ではなく、一種の偉大なエネルギーがこめられているように思えました。

こんなことを考えていた時、ふいに私のベッドは小舟のように揺れて、飾っていた小象の置物や仏像が箱から飛び出し、左側の屏風は倒れ、壁にある写真の入った額は左右に揺れ動き出しました。次いで爆竹のような音と人々の叫び声が響き、一瞬夢かと思いましたが、すぐに地震だと気づきました。

「大地震だ! 早く家の前の道路に逃げろ」と父は一人ひとり家族の名を呼びながら叫びました。道路は人の群れで溢れかえり、バイクは人もろとも道端で横倒しになっていました。電線には火花が走り、崩壊した家屋に、人は避ける暇もなく押し潰されていました。絶えず揺れる余震の恐ろしさに混乱は極限に達していました。

白昼にもかかわらず、人々は暗闇の中にいるような感じで、駆けつけてきた救援部隊はシャベルを使って生還者を探していました。子供たちは泣き叫び、人々は無言のまま天を仰いで茫然自失となっていました。医師の私も、どこから手をつければよいのか、なすすべもありませんでした。

 

人を助けるのは困難だが

心に安らぎを与えるのは

さらに難しい

 

翌日の早朝、私はいつものように勤務先の診療所に行くと、その前の空き地は隙間のないほど人がいっぱいで、診療所の中にはおびえたお年寄りや子供たちがいました。

私は患者を治療するかたわら、仏のことを話しながら人々の心を落ち着かせていましたが、人々の心を落ち着かせることは容易でも、自分の心をコントロールするのは簡単ではありませんでした。医師であり釈迦族の末裔である平凡な私は、自分の心をコントロールし、何とかして皆とこの難関を乗り越えなければならないと思っていました。

この災難が引き起こしたむごい被害は、戦争にも劣りません。ネパール政府は緊急状態を宣言して、素早く部隊を救済に派遣し、国連や赤十字社やNGОも続々とネパールに到着しました。彼らは先進的な設備とよく訓練された人力を有し、それぞれの制服を着て、ネパール軍の支持どおりに後続支援を提供していました。

赤いランプを灯してけたたましく走り回る救急車。瓦礫の周りで泣きながら「私の家族を助けて」と懸命に救援を求めている人々。悲惨に包まれているネパールのため、世界の人々は遭難者を弔い、その家族たちの幸せを祈ってくれていました。

しかし、この困難な時に大地の母は民をいたわってはくれず、大雨の中で金持ちも貧困者も関係なく一様に、地上で寒さを忍んでいました。すべての食料は我先にと買いあさられ、貧富の別なく誰もが飢えに苦しんでいました。数日後、ようやく政府機関とNGОが食糧や薬品、テントなどの物資を配付していました。

どの宗教にも大師がいますが、その何人も大自然がもたらす崩壊を阻止することができません。ただし仏陀のお教えを通して、「愛」とはすべての難雑を解決する唯一の答えであり、またその堅実な力は百万人以上の人をも助けることができ、それが信仰だと体得しました。

地震の発生は私たちが「天地を敬わなかった」結果でしょうか? 過去に民族や階級、地位といった大義名分のもとに戦争を引き起こした人たちは、この災難に対して人を助ける心があるだろうか? 人類の心の奥底に慈悲の心はあるのだろうか?と考えさせられました。

こんな考えをしていたことに自分でも驚きましたが、この災難によって人々は団結して、手に手を取って地震の悲しみから立ち直ったのは事実でした。

 

 

二つのテーブルと二脚の椅子で足りますか?

 

父はネパールの科学技術部長を務めていたケシュバ・マン・シャカです。「台湾から慈済医療団がくることになっているが、参加しないか? 」と私に言いましたが、自分の診療所でも忙しいのにと気にかけていませんでした。

震災後、私の歩いた所々で見たもの、聞くものはみな悲惨なことばかりでした。幸いにして生きのびた被災者をどうやって助ければよいのかと思うと、自分の無力さを痛感しました。困難や煩悩に遭った時、釈迦牟尼仏ならどうなされたか?と思案していましたが、今はまず慈済を理解しようと心に決めました。

それでも疑問を抱いたまま、慈済基金会の人医会(慈済の医療ボランティアチーム)代表の趙有誠医師と簡守信医師にお会いすることになりました。人医会ボランティアの乗っていた航空機がネパールの空港に到着する時、空中で二時間余り旋回していたので、災難の混乱状態を理解していました。後にお二人は、航空機が着陸した時もネパールへの入国許可は下りるだろうか、と自信がありませんでしたと、おっしゃっていました。

重ね重ねの困難を経て、慈済人医会のボランティアはやっとネパールの土を踏むことができ、父の紹介で政府の役人に会って医療許可証を貰うと、すぐに救助活動を開始しました。また、父の紹介した地元の医師たちと会議を開いた後、休むまもなく実地調査に出かけて行きました。彼らはマタプ病院を拠点に、負傷者の折れた骨をポータブル撮影機で撮影してネットで台湾に送り、第二次医療団がくる時に必要とする器材を持ってくる手筈を整えていました。

その時まで私は、趙有誠医師と簡守信医師が台湾の慈済病院の院長だと知りませんでした。翌日、医療救助計画を立てている時、彼らは私に対して丁寧に、「ありがとう。あなたが手伝いにきてくれて本当に感謝しています」と言いました。

彼らが大病院の院長と知ってから、私に多くの期待をかけているのではないかと心配で、一緒に行動してもよいものかとためらっていました。

すべての薬品と器材を車に積み込むと、趙院長は「さあ私たちを施療できる所へ案内して下さい」と言いました。私は「あなたたちは本気ですか? 被災者の施療をするなんて冗談でしょう?」と我慢できなくなって笑い出すと、簡院長は「施療を必要としている所ならどこでもかまいません」と答えたではありませんか。

その時、私は、この二人が自分が思っていたような近寄りがたい人ではなく、ただ一心に被災者を助けようとする単純な心を持った方たちだと理解することができました。長旅の疲れも見せずに、一分一秒を惜しんで心にあるのは、ひたすら被災者に尽くそうとする人たちだと。

私は慈済医療団を、カトマンズから車で十五分離れた古城にあるバタプ眼科センターに案内することにしました。震災後、臨時健康ケアセンターに設置されたテントに案内すると、眼科だけでなくすべての患者を受け入れていました。

私はラム・サンダー・ラシワ院長に空いた所を施療に借用してもよろしいかとお聞きすると、院長は快く承諾して二つのテーブルと二脚の椅子を提供してくれました。私は心の中で、台湾からはるばるこられ、しかも二人とも大病院の院長なのに、たった二つのテーブルと二脚の椅子でいいのかと思っていました。

私は「これで足りますか?」と聞くと、二人とも笑って「充分です」と。施療は順調に進行していましたが、治療の時は患者とはあまり意志が通じないので、私は数人の英語を話せる地元の人を探して通訳に当たらせ、自分もその間で補っていました。

言葉の通じない時は通訳をして、新しい施療の地点を探す時はガイドになり、手術で手の足りない時は助手を務めて、初日の施療では百十一人の患者を診ました。私は患者たちから無量の幸福感という見返りを受け、またお二人からは多くのことを学ぶことができました。そして人が必要とする時、両手を差し出すのは楽しいことだと知りました。

その日私は満足感を抱いて帰りました。お腹は空いていましたが、心にはいっぱいの満足感が入ったような感じでした。体は疲れていても心は充実し、明日になるのを待ちかねていました。

 

一日中奔走していても

心は満ち足りていた

 

慈済は一部の人をセンターに残して、一部を転々と移動しながら施療をする機動型診療法をとっていました。私たちは移動する度に、地元の医師と看護師やボランティアを募って施療の参加を勧めていました。この慈悲深い効率のよい方法によって、続々と百名以上の人が協力して両方の機動型施療チームの作業は成功を収めていました。

私たちは毎日移動しながら施療を行っているので、忙しい時は食事を取るのも忘れていました。不思議はことに、慈済の人たちと施療を行っているとお腹は空かず、喉の渇きも疲れも感じません。

慈済のボランティアたちは、インスタントのご飯と飲料水を用意していましたが、いつも先に地元ボランティアにあげて、皆が食べ終わってから自分たちが食べていました。食料の足りない時は地元ボランティアにあげて自分たちは空腹を忍んでいました。

ある日、パタプ機動施療中のランチタイムが過ぎた頃、マレーシアから来ていた人医会の李暁卿医師に、「お腹は空きませんか? 昼ごはんが済んだら別の地点に移りましょうか」と聞きました。彼女は反対に私に「お腹が空いたの? 」と聞くので私は「そんなに空いていませんが」と答えました。すると彼女は、「あなたのお腹が空いていないのに、どうして私のお腹が空くの」と言うのです。彼女はこのユーモアたっぷりの返事を繰り返すのでした。

慈済医療団の皆さんは、自分の食事よりも患者のことを先に考慮します。その日私は、慈悲の心があれば、たとえ胃が空になってもひもじいとは感じないということを実感しました。

簡院長と趙院長は昼食を取られただろうか? 私が見たのはただ一心に患者を診ている姿だけで、驚いたのは、仕事が終わってホテルへ帰る途中、車の中で、やっと弁当箱を取り出して食べていたことです。

慈済人は雨天や照りつく太陽でもお構いなし、空腹であろうが喉が渇いても人を助けることを第一に考え、大雨でも休みません。こんな慈済人を見て、数百名の現地ボランティアは不思議に思いつつ、自分たちも怠けるわけにはいきません。

地震がネパールを襲ってから百日を過ぎても、ネパールの人々は支援を待ち望んでいます。私は慈済人がネパールに入った時から百日間、彼らについて町から町へ、村から村へと休む時なくついて回りました。

この日私は慈済のテレビ会議に参加しました。證厳上人が私が慈済に協力したことを述べられておられました。その時、證厳上人がおっしゃられた私は自分ではない他人のような気がしましたが、確かに感謝されたのは私でした。

私は自分の生活様式を一変させて、慈済の人たちと共に至る所で同胞のために駆け回っていたこの百日間で、自分の任務は終わったと思っていました。しかし、それは間違いでさらなるはじまりでした。

慈済の人たちに心の奥底から触発されて、参加すべきか否かと複雑な思いでしたが、再度自分を見つめ直しました。そして、私は元々この団体の者だったのだ、これからは一生慈済のために尽くそうと覚悟を決めたのでした。

 

 

街頭を車が騒々しく行き来し、診療所は震災前に戻って忙しくなっていましたが、私は毎日のように慈済連絡所へ行って、ボランティアたちと震災後の復興計画の討論会に参加しています。そしてネパール慈済連絡所をNGОとして登録し、法師の指導のもとに学校や仮設住宅の建設を支援しています。その中で、他の組織と連携したり協力し合うことは、私にとって最大の挑戦です。

私には学ぶべき所がまだ多くありますが、私が学んできた経験をボランティアたちに伝えていくことが、ネパール人医会の一員としての任務であると思っています。時は飛ぶように過ぎ去っても、ネパールの慈済はしっかりと根を下ろし、他の組織とも提携して、慈善、医療、教育の活動を行います。

慈悲の清流は人々の心にあります。心霊を奮い立たせて連結した愛が、仏陀の故郷でたくましく成長することを願っています。

 

 
NO.238